第八十九手「霧に隠れた形勢」
師匠の指し手を話にならないと一刀両断した蛯名萌香。
そんな彼女に、私は言葉を返さない。
「アタシが先日見た黄龍戦決勝戦──。あの時の天竜一輝の棋風は凄まじかった。あの川内副会長を相手に一歩も退かない姿勢、逆境でありながら邁進し続ける手の繰り出し。どれをとっても蛯名家の理想とする指し手だったわ」
彼女の話を耳に入れながらも、私はタブレットの画面をタップして師匠の棋譜を打ち込む。
「だけど何? 今のこの平凡な指し方は? まるで威勢を感じない、徒然する棋風じゃない」
同時に、またパチンと駒の指す音が響く。
▲4七金。
師匠は桂頭を守るため、守りの金を繰り上がった。
相手には1歩残ってるため、ここで▲同歩と取ってしまえば△3六歩と打たれてしまう。だからこそこの桂頭は守る必要があるのだが、この手に変えて▲2六飛では△1五角があるため、桂頭を守るには▲4七金と守りの金を上がるしかない。
「先手のアドバンテージは左美濃による玉の堅さよ。なのにその玉を守っている要の金を剥がしてまで桂頭の受けに回るだなんて愚の骨頂。そもそもとして、桂頭を攻められる展開自体が危ういのよね。最初から桂馬を飛ばなければこんな展開にはなっていない。……はぁ、思ったより底が知れたわね、天竜一輝」
呆れたように溜息を吐く蛯名萌香。
黄龍戦での師匠の指し方がよっぽど頭に残っているのだろう。今の師匠が指している平凡な棋風が気に入らないのか、かなり落胆した様子を見せていた。
だけど私には分かる。師匠は手を抜いちゃいない、黄龍戦の時と同じで本気で勝ちに行ってる。
「そうはいっても、案外最善手かもしれないわよ?」
「最善手? 桂頭の隙を見せるのが最善手ですって? はっ、バカ言わないで。こんなの初心者でも分かることよ。それにアタシはこの県のベスト4、形勢判断を間違えるわけないわ」
蛯名萌香は自信満々にそう答えた。
実際、桂頭の隙を見せてから相手の攻勢は止まっていない。
傍から見れば師匠の作戦負けが如実に出ているようにも見える。
△3六歩、▲同金、△4五歩。
桂頭を攻められたことで師匠の陣形は僅かに崩れてしまい、相手はその隙を見逃すまいと一気に攻勢へ躍り出る。
ここで振り飛車特有の大駒の捌きが決まってしまえば、崩れてしまった師匠の陣形内で大暴れされてしまうだろう。
そして今の師匠に角交換は許容できない──。
▲6六歩。
その角交換を防ぐため、師匠は自らの角道を止めて交換する線を消した。
しかし──。
「これで相手の角筋は通ったまま自分だけ閉じた形になった。完全に作戦負けね。守りは崩され、桂筋に歩の打ち場所を残され、角筋まで通された。……はぁ、これがあの川内副会長を倒した天竜一輝本人なの? アタシは幻でも見ていたのかしら」
彼女は師匠のミスを容赦なく指摘し、勝手に落胆する。
そして呆れたように踵を返すと、私に向けて一言呟いた。
「アンタが出ていた方がまだ面白かったかもね」
そう言い残して蛯名萌香は去っていった。
そしてひとり残された私はタブレットをに目を移し、形勢の優劣を判断する評価値を見て筆舌につくしがたい気持ちに浸った。
「……そっか」
私はその場で小さく呟く。
師匠のことをボロクソに言ってきた彼女に対し、私が強く言い返さなかったのには理由があった。
「ここが私にとっての、最初の壁だったのね……」
まるで過去を振り返るように、軌跡を眺めて笑みを零す。
ただ漠然とした状況下でそんな言葉を言われたのなら、私は平常を保てなかったかもしれない。
でもそんな自分達はもう過去のものなのだ。
地区大会すら勝てなかった師匠も、県大会で成績を燻っていた私も、とうにその壁を越えている。
──師匠はここまで間違った手を一手も指していない。
それはこのタブレットに入ったAIが、将棋の神に最も近しい思考を持った存在が告げている。
現在評価値+501。先手有利。
私はその数字を見て、自身の形勢判断がようやく地に着いたことを確信していた。