第八十八手「承襲を抱いて」
掛けられた声の方に、私は頭をそのままに目線だけ動かす。
話しかけてきたのは、さきほど師匠に公の場で告白をした少女、蛯名萌香だった。
「……そうだけど、何?」
「いやどこかで見たことある顔だなと思ったのよ。そしたら今思い出したわ。アンタこの前の県大会ベスト8で敗れたザコじゃない?」
開幕の口上で何を言うかと思えばいきなりのザコ扱い。失礼にもほどがある。
さっきの師匠への告白の件も相まって、私はかなりの憤りを感じていた。
しかし、相手の挑発に乗るほど今の私の沸点は低くない。師匠と初めて出会ったときにキレていたのが最後の黒歴史だ。
「そうね。私は県大会で成績を残せたことはないわ。用件はそれだけ?」
私は表情一つ変えずにそう返事をする。
「まだ終わってないわ! アタシの名前は蛯名萌香、南地区に住んでる天才将棋指しよ! あの有名な蛯名家の娘って言えばわかるかしら?」
「聞いたこともないわね」
「アタシは前回の県大会でなんと、ベスト4だったのよ!」
「へぇ、知らなかったわ」
「だからアタシは天竜一輝と付き合うことにしたわ!」
「フラれたからってそんな落ち込まないで、次はきっといい相手が見つかるわ」
「アンタさっきからアタシをバカにしてるの!?」
「その言葉、そのままそっくりお返しするわ」
ほとんど抑揚を崩さない私とは正反対に、蛯名萌香は犬のように敵意を向けてくる。
見た目通りの子供なのだろうか。
「一応聞くけどなんでししょ……天竜一輝と付き合おうと思ったの?」
私の問いに、蛯名萌香はドヤ顔を浮かべた。
「ふふんっ、聞いて驚きなさい。蛯名家は代々プロ棋士を輩出してきた由緒ある家系なのよ! だから常に可能性のある男児を見定め、その血筋を途絶えさせないことがアタシに課せられた使命。そこで天竜一輝はまさにアタシの理想だったってわけよ!」
胸を張りながら無い胸を強調する蛯名萌香。
私と同類でありながらこの頭の悪さ、本当に私より上の県大会ベスト4なのだろうか。
「あぁ、そう……」
死ぬほど興味のない情報に返事も適当になってしまった。
それに蛯名家……どこかで聞いたことあるような気がするけれど、生憎と私は今日まで父親以外のプロの名前を視界に入れてこなかった。それこそアマチュアなんてもってのほか、せいぜい記憶に残っていたのは前回の県大会で無双していた青峰龍牙くらいだ。
だったらと、私は蛯名萌香に提案する。
「なら青峰龍牙でいいじゃない。彼は県最強、全国クラスよ?」
「龍牙? 冗談言わないでちょうだい。あんな粗暴な男は論外よ」
まぁ、当然と言えるべき返答が返ってきた。
「それにアタシは強い男が欲しいわけじゃないの、光る原石のように将来性を秘めた男が欲しいのよ。別に天竜一輝が強者である必要なんてどこにもない。アタシが求めているのはあくまで血筋、棋士としての才覚溢れる子の誕生が目的なんだもの」
なるほど、そういうタイプね。
つまりこの子の目的は選定。次代へ繋ぐプロ棋士輩出のため、将来性の見込める男を見つけること。
恐らく先日の黄龍戦の決勝棋譜を見て、師匠に何かを感じたのだろう。
そして、プロ棋士の誕生が目的ならば全国にいるもっと強い男を選べばいいじゃないかと思うかもしれないが、それは大きな勘違いだ。
プロ棋士の子供が同じプロ棋士になれるとは限らない。何故なら、プロの道を目指すのであればその大前提として『将棋が好き』でなければならないからだ。
どれだけ将棋の才能となる遺伝を引き継いでも、好きだという気持ちが無ければ向上はできない。
だから彼女は実力以外の才能を持った師匠に目を付けたのだろう。
しかし、逆に言えば彼女が求めているのは強い将棋指しではない。プロ棋士となる可能性を秘めた子の誕生だ。
それは天竜一輝という一個人に対する期待は全くもって無いことになる。
もしも彼女が師匠の人生を、その将来性を見込んで好意を寄せていたのだとしたら私は素直に応援するだろう。
だが、彼女が狙っているのは師匠ではなく師匠の才覚を受け継いだ子だ。
「話にならないわね」
私は小さくそう呟いた。
「……なんですって?」
蛯名萌香はそんな私の言った言葉の意味が分からなかったのか、声のトーンを下げてこちらを睨む。
「話にならないと言ったのよ。自分の人生すら全うできてないのに、将来できるかも分からない子供のために上から目線で男を選別するなんて、何様なのかしら?」
「お前……!」
私の一言に、彼女の表情が一気に険しくなっていく。
一触即発。その冷戦を破った者から知恵ある舞台に立つ資格を失う。
さきほどとは打って変わって、今度は私の言葉が蛯名萌香に強く刺さった。
しかし、そんなときだった──。
パチン! ──と、盤面に駒を打つ音が響いた。
私はその音にハッとして我に返り、師匠の盤面へと目を向けてタブレットに棋譜を入力していく。
局面はあれから△3二金、▲3六歩、△6二金、▲2五歩打、△3三角、▲3七桂、△3五歩。と進んだようだった。
後手の△3五歩で桂頭を叩かれた師匠はずっと受けに回っているらしく、未だ攻撃には転じられていない。
「……確かに、これは話にならないかもしれないわね」
隣で見ていた蛯名萌香は含みのある声色でそう呟いた。




