第八十七手「格上として始める戦い」
青天の下、西地区交流戦の第一試合が始まった。
この大会は総勢16名で行われるトーナメント式の大会。黄龍戦の県大会も同じ16名のトーナメント式なため、前哨戦にはピッタリの大会だった。
師匠の抽選結果は一番手前となる2番。
しかし今回の大会では相手の実力が不透明ということもあり、番号自体にはあまり意味がない。
肝心なのはどう戦うか、そしてどう勝つかだ。
「……鈴木会長、いないわね」
交流戦はあくまでも西地区を中心とした大会。その西地区を管理する鈴木会長が来ていないのは珍しいことだった。
何らかの用事か、それともこの大会自体を眼中にしていないのか。
「それにしても……」
私は師匠の盤面から目をそらし、反対側の席に座っている少女を一瞥する。
さきほど師匠に絡んできて、付き合いなさいと豪語してきた高慢な少女。
──対戦表には『蛯名萌香』と書かれていた。
一体何者なのか、そしてどこの誰なのか。そしてどれだけの実力を保有しているのか。
あれだけ目立つ言動と格好をしていれば多少なりとも目に付くはず。それを知らないとなれば、彼女は恐らく西地区の選手ではない。
だが、開幕一番の口上が"付き合え"はいくらなんでも常軌を逸している。
師匠は思いっきりスルーしていたけれど、対応としては正解だ。情報を盗られるにしろ、測られるにしろ、この大会で勝っていかなければ話にならない。
まずは集中、勝負はそれからでも遅くない──。
私は再び師匠の方へと目を移す。
黄龍戦の地区大会が終わってからも、私と師匠はハードな特訓を続けていた。
そして今は県大会に向けた肝心の対抗策──新戦法の開発にも着手している。
将棋における戦法は常に経験値の積み重ね。新たな戦法を使うということは、レベル0の状態から始めるのと同じ。
どれだけ練習で研ぎ澄ましたとしても、実戦でそれを発揮するには相当な技術と労力がかかる。
大会が始まる直前、私は師匠へ新しい指し方を試すように言った。
もちろん失敗は大前提だ。そんな簡単に使いこなせるほどこの指し方は甘くない。
だがこれはあくまで布石。盤上の中の、細切れのような世界に潜める小さな細工。しかしそれはいつしか勝利へと導く魔法のような手順に変わる。
私達が目指しているゴールはこの大会の優勝でも県大会の優勝でもない。天上の存在『プロ棋士』だ。全ての布石はここに繋げなければならない。
ゴングが鳴ってから3分。
師匠は大方序盤戦を終え、中盤へと足を踏み入れる段階だった。
▲7九玉。
居飛車の左美濃囲い──通称左美濃を形成した師匠と『向かい飛車』に組んで左美濃を咎めようとする相手。
始まりは『居飛車』対『四間飛車』というよくある戦型だったものの、船囲いを作らず直通で左美濃を作りにいった師匠に対し、相手はその手を咎めるかのようにすぐさま『向かい飛車』に組み直したのだ。
そしてそれを示すかのように、相手は速攻で飛車先の歩を突き上げる。
△2四歩。
開戦にしてはかなり早い段階で動いてくる相手。
左美濃をしっかりと組んで守っている師匠の玉に対し、相手の玉はまだ囲いという囲いが出来上がっていない中途半端な状態。
このまま互角に開戦すれば、師匠の優位は揺るがないだろう。
「……」
今の私には相手の考えが手に取るように分かる。
相手は師匠の雰囲気から何かを感じ取ったのか、それとも指していて実力を見切ったのか。どちらにしてもこの速攻は師匠に対する恐怖をはらんだ指し方だ。
それは師匠を、天竜一輝という強者を認め、格上の存在だと理解しているに他ならない。
師匠は今──格上としてこの場に座っているのだ。
「今までは逆の立場だったのにね……。立派になったわ、師匠」
母親のような気持ちでそう呟いた。
これまでの地獄が報われていく。これまでの苦労が実っていく。
当たり前の場所に立っただけだというのに、それすら叶わなかった彼の人生を知っているから余計に辛い。
でも、たった今理想は現実に追いついた。
相手の師匠に対する警戒心がそれを物語っている。
「さて……」
強敵への対峙。ある程度経験の積んだ将棋指しは皆、格上に対する恐怖心を知っている。
格上というのは常にこちらの思考を凌駕している。実力が大きく反映されるこの世界においてそれは絶望に等しい存在だ。
だからこそ格上を相手に真っ当な定跡を指す者はいない。多少自分が不利になろうとも、相手を土俵から引きずり降ろして定跡の外れた未知の舞台に立たせる。
格上狩りというのは、そうやって成立するのだ。
天竜一輝。今や西地区に住んでいる者なら大半がその名を知っている。
先日行われた『アマ黄龍戦』は世間的にも大きな大会のひとつ。地区大会とはいえ、そこで優勝したともなればちょっとした有名人となるわけで、将棋の情報を欠かさないような人であれば彼の存在は認知していると思っていい。
そして、そういう幾多もの情報を通して目の前の相手にぶつけるべき戦法というのは成立する。
相手は師匠が定跡を網羅していると踏んで左美濃を作った瞬間に攻めてきた。
本当は振り飛車を指すだけで師匠にはある程度のダメージが入るのだけど、そんなものこの選手が知るわけがない。
……そしてもうひとつ知らないことがあるとすれば、師匠はこの程度の攻勢で自身の型を崩す男ではないということだ。
▲同歩、△同角。
後手の戦術は至って単純。守りに費やすための手数を攻めに回しただけである。
ただそれだけなら痛くも痒くもないのだが、将棋は受けより攻めの方が強い。特にアマチュアに至っては攻め手側が勝つ比率がほとんどと言ってもいい。
なんて言ったって攻める側は攻めることだけを考えればいい。だけど受ける側は受ける手と反撃する手の2つを同時に考えなくちゃならない。
さきほど後手が指した△同角は当然の一手に見えて明確な狙いがある。
それは次に△5七角成と角を切って王手を仕掛ける手だ。この手は王手のため先手は▲同金と取るしかないのだが、そこで後手は△2八飛成と飛車をタダで取ることができる。初心者がよく見逃してしまう手として有名だ。
仮にそうなってしまえば師匠の負けはほぼ確定してしまうだろう。
だが、今の師匠にそんな隙はない。
▲4六歩。
師匠は当然のように角道を止めて時計を押した。
ここまでは順調な滑り出し。傍から見れば凡庸とも取れるその指し回しに、これまでの師匠の努力の全てが詰まっている。
狙いの一つが消えて、ここからどうしようかと相手が長考に入る。
時間はどちらもまだ3分程度しか消費していない。まだ戦いは始まったばかりだ。
私は師匠の棋譜を取るため、タブレットを片手にその対局を傍らで観戦する。
そんな時だった──。
「アンタが舞蝶麗奈ね!」
甲高い少女の声が耳に入った。