第八十四手「天竜、人生初のラブレターを貰う」
──長い、夢を見ていたような気がする。
いつだったか、慣れ親しんだその背を追いかけていた子供の姿が目に映る。
大きなその背中には様々な風格が刻まれ、そこから溢れ出る希望に炎を宿す。
いつか自分も彼のようになりたいと、そう思っていた気がする。
雨。薄曇りの部屋。雨音。静寂。
男が頭を下げると同時に、雨音が大きくなっていったのを覚えている。
光り輝いていたその背に威風はなく、項垂れるような猫背からは失望すら感じた。
唯一を証明し続けた男の哀れな幕引き。何かを悟ったその顔には、清々しさすらあるように思えた。
──長い、夢を見ていたような気がする。
内容はよく覚えていない。
「……ん、ふわぁ……ぁ……」
天竜一輝、20歳。起床の時間である。
これ以上ないほど上機嫌に染まった俺は、欠伸をしながら両腕を伸ばす。
謎に口角も上がりっぱなしだ。
「──いい朝だ」
そう呟いて体を起き上がらせる。
なんてったって今の俺は地区の王者、西地区黄龍戦の優勝者だ。……他にも二人いるけど。
とにかく、今年の黄龍戦に関してはこの地区で一番強いことが証明されたも同然。あれほど弱かったはずの俺が、カモにされ続けてきたはずの俺が。この、天竜一輝がだ。
これほど素晴らしい目覚めがあるだろうか?
「起きたー?」
「おきたー」
隣の部屋で朝食の準備をしている麗奈に軽い挨拶を交わし、窓のカーテンを開けながら背を伸ばす。
前までは窓の方を見ることすら無かったのに、いつの間にか日光を浴びるような規則正しい生活を送れるようになっていた。
それもこれも全部、彼女のおかげだろう。
「師匠ー、新しい大会の用紙届いてたわよー」
「後で見るから机の上に置いといてー」
もう新しい大会が始まるのか。
といってもまだ黄龍戦の県大会が残ってる。これからまた新しい大会に出るかどうかは、今の自分の疲労との相談だな。
「師匠ー、ラブレターも来てたわよー」
「それも後で見るから机の上に置いといてー」
ふと聞き流しそうになったが、聞き慣れない単語に「ん?」と虚空を見つめる。
脳内で反芻される『師匠ー、ラブレターも……』という麗奈の言葉。
次の瞬間、俺はバッと麗奈の方に振り返る。
「……は? 今なんつった!?」
「ラブレター来てたわよ、師匠宛てに」
「は!? なんて!?」
「ラブレター来てた。師匠宛てだってさ」
「なんだって!?」
「耳鼻科行く?」
聞き慣れないどころか、まるで新しい日本語を聞いたかのような新鮮な気持ち。いや、ラブレターは日本語じゃない。違う、突っ込むとこはそこじゃない。
はて、おかしいな? 俺の常識で考えれば、ラブレターなんて甘酸っぱいイベントの発生フラグを建てた覚えはないのだが?
気持ち、ほんの気持ちだけ足早に大股に自然を装ってリビングのテーブルへと移動する。
そこには次の大会用紙と、真ん中に赤いハートの封がされた手紙が置いてあった。
「……なんぞこれ」
「いや私に聞かれても。……ドッキリとかじゃないわよ?」
うん、麗奈がドッキリ仕掛けるとかキャラ崩壊起こすわな。
「取り合えず開けてみるか……。それにしても俺にラブレターってどんな趣味してんだ、怖いわ……」
「あら、そうかしら? 初めて出会った頃は髪ボサボサで目に隈ができてて色々酷かったけど、今の師匠はかなり男前よ?」
「それ間接的に俺を男前にしたのは麗奈ってことになるんだが」
「異論ある?」
「ないです」
この手の話題で麗奈に勝つことは不可能だ。
美容院に床屋にエステサロンに……連日連夜麗奈の女性としての性に引きずり回された結果、今の俺は以前より大分まともな外見になってきたと思う。
とはいえ、最近の俺はこれまで麗奈以外の異性と会話をした記憶はない。
送り間違えか? それともいたずらか?
疑問に包まれながらも俺は封を開けて、中に入ってる紙を手に取った。
『来週開催される"西地区交流戦"に参加しなさい!』
力強い文字で、しかしはっきりと女性が書いたと分かる字体でそう書かれていた。
俺は期待を打ち砕かれたような気持ちでスッと無感情に戻る。
「なにこれ」
「見てもいいかしら?」
「まぁ……はい」
俺の許可を経て麗奈も手紙の中身を拝見する。
そしてお互いに目を細め、顔を見合わせた。
「……果たし状ね」
「……果たし状だな」
手紙の内容が意味するものに俺と麗奈は同意する。
いや果たし状ってなんだよ、こいつ誰だよ。そもそも誰かから喧嘩を買った覚えはないんだけど……。
「心当たりは?」
「あるわけないだろ。俺ずっと麗奈と一緒だったんだぞ」
「そうよね。私も身に覚えはないわ。……となると」
そこで言葉を止めた麗奈は、指先を口元にあて考え得る候補を絞る。
俺も麗奈も全く面識のない相手からの挑戦状。日頃から日陰者として顔を出していなかった俺。そんな俺がここ最近で唯一目立ったこと。それに思い当たる節が一つだけある。
そう、先日の黄龍戦だ。
「まさか、他の地区の奴らか?」
「可能性は十分あるでしょうね。師匠の棋譜を見て闘争心を燃やしたのか、ただのいたずらで送ってきたのかは定かではないけど、少なくとも大会の上位者は新聞やネットに住所を晒されるわ。恐らくそれを伝って送りつけてきたんでしょうね」
「おいおい、龍牙のところの連中じゃないだろうな……」
もしそうだった場合、かなり面倒なことになってしまう。
できれば黄龍戦が終わるまで、俺の実力は他の地区の連中には知られたくない。
力を見せびらかすということ自体は正直やぶさかではないが、これから県大会で戦うかもしれない相手に情報を与えるなんて馬鹿のやることだ。
というかそもそもこの手紙の主は誰なんだ? こっちの情報だけ知っておいて、自分の事は一切教えないとかあまりに高慢すぎないか?
取り合えず罠の可能性もあるし、ここは見送る形で──。
「ま、出ればわかるんじゃない?」
「え」
沈黙の長考、無意味なり。
麗奈は俺の考えをあっさりと否定して、隣に置いてあった西地区交流戦の大会用紙を渡してくる。
「まてまて、出るのか? 今このタイミングで? 敵の罠かもしれないんだぞ?」
「うーん。というより、あくまで私の予想なんだけど。……この子、普通に師匠のこと好きなんじゃない?」
「……マジ?」
「マジ」
麗奈は女の勘と言わんばかりに自信ありげにそう答える。
確かに、こういう類の話は同性同士の方が理解があると言われている。だがそれは一般的な状況においての話だ。
今の俺は大会以外で誰かに顔を晒すこともなければ、異性と話したこともない。大会でちょっと気合の入った将棋をした程度だ。それが惚れる原因になったのであれば、相手は俺に惚れたのではなく俺の棋譜に惚れたことになる。
外見で惚れられるよりはよっぽど中身があると思うが、普通そんなことあるか?
「確かに手紙の内容は頭お花畑だとは思うけど、これどう見たってラブレター用の手紙入れだし、師匠に好意がなきゃこんなことしないわよ。実は大会への誘いと見せかけて告白場所なんじゃない?」
「そんな無茶苦茶な……」
「まぁ、とにかく出ることを推奨するわ。いや、出なさい」
「随分と強引だな……。黄龍戦の県大会が始まるまでは疲れを癒すんじゃなかったのか?」
「先日まで私と一緒にモルディブリゾートで遊び惚けてたわよね? 疲れ、取れたわよね??」
「……はい」
無情にも麗奈との言い合いに勝てるはずもなく、俺は西地区交流戦と書かれた大会用紙を手に取った。
そこには、いつもの大会用紙とは違った少しお気楽なイメージを彷彿とさせる大会項目が記載されている。
その大会の主催者は見たことない名前の人物だった。
「この大会の主催は鈴木会長じゃないのか」
「交流戦だからね。ちょっとしたお祭りみたいなもので、勝っても県大会には続いていないわ。完全に単発と言える大会よ」
「それ出る意味あるのか……」
「大会に出てくる選手には申し訳ないけど、準備運動にはちょうどいいんじゃない? 今の師匠なら優勝も割と現実的よ。──うん、美味しい」
朝食の味見をしながら今日の出来にも満足して頷く麗奈。
俺はその間も大会用紙をじっと見つめていた。
「西地区交流戦か……」
通常、大きなスポンサーのついた公式戦であればその大会は地区ごとに分かれる。
西地区であれば西地区としての地区大会であり、西地区以外のメンバーは参加することが許されない。ただし、非公式戦であれば特定の地区に所属していなくとも大会に参加することができる。
西地区交流戦は非公式戦、つまり他の地区のメンバーも無条件で参加できる。
となれば、誰が参加してくるかなどの情報収集はほぼ無理だ。完全にぶっつけ本番での戦いを強いられる。俺にこんな手紙を送ったであろう犯人も特定することができない。
本来なら無視するのが鉄則だろう。
だが、渦中に飛び込む行為に等しいそれを麗奈は即時に判断した。
「……そうだな、少しは見習うか」
「それでこそ師匠よ」
「麗奈も出るんだよな?」
「私は出ないわよ?」
「え?」
「え?」
俺と麗奈の間に、長い沈黙が流れた。
「え、出ないのか……?」
「だってただのお祭りでしょ? 私が出るメリットある?」
「それ俺にも同じこと言えるんだが!?」
「師匠はラブレターくれた子に挨拶しなきゃいけないじゃない」
「顔も名前も知らないんだよなぁ! しかもラブレターで決闘状みたいなことされてるんだよなぁ!」
何の躊躇いもなく断言した麗奈に思わず声を荒げる。
こいつ、俺が半ば恋に疎いからってからかいやがって……。
「ていうか麗奈はいいのかよ?」
「いいって?」
「いや、その……仮に俺がその子と付き合うことになっても」
何とか言葉を絞り出す。
しかしそれを聞いた麗奈は、まるで何も感じていないかのように平然とした表情をみせた。
「何言ってるの? そもそも私達付き合ってないでしょ?」
その言葉を受けた瞬間、心臓を突きさされたような、頭を鈍器で殴られたような、体をプレス機で潰されたかのような痛みを受けた。
天竜一輝、その一言で満身創痍です。
「はいはい分かりましたよ。出ればいいんでしょ出れば」
「なに拗ねてるのよ」
「拗ねてませんけど?」
「口調が変わるくらいショックだったのは分かったから、さっさとご飯食べちゃいましょ」
「はぁ……」
結局、麗奈にうまく乗せられた形で西地区交流戦に出場することになった。
どんなものでも未知は怖い。相手が見えない状態でこちらの身を晒す行為は、例え戦場でなくとも避けたいものだ。
だが一度決めたことはやり通すと決めている。
それに、このまま黄龍戦の県大会を迎えても都合の良い結果は訪れないだろう。行動は凝り固まった今の状態を変えるための最適解。何かがプラスに働くのであれば、それはきっと必要な行為だ。
「いただきます」
「いただきます」
少しだけ俯いた麗奈の頬が赤かったことをスルーして、俺は朝食に手をつけた。
──うん、今日もうまい。




