第八十三手「夢、叶えてくるからな」
西地区交流戦の視察を終えた魁人と凪咲は、祭りの屋台でクレープを買ったり射的で遊んだりと寄り道をしつつ道場へと戻った。
辺りはすっかり陽が落ちている。
「あー楽しかったです! また祭りいきたいですね!」
「そうだな、だが切り替えも大事だ。凪咲、今日の試合を見て率直にどう思った?」
魁人の質問に凪咲は暫し考える素振りを見せ、やがて真剣な面持ちで答えを返した。
「……勝てそう、と思いました」
「そうか。南地区の地区大会のレベルは西地区と大体同じだ。つまり今のお前なら余裕で地区の代表になれるということだろう」
あの場にいた大勢の大人達を相手に勝機の言葉を発せる。それだけでも、凪咲の成長はうなぎのぼりと言えるものだった。
しかし、それはある一点を除いた結果に過ぎない。
「……」
凪咲は詰まった表情で言葉を続けようとする。
魁人はそれを察して、彼女の言葉を遮った。
「だが、あの男の実力は見抜けなかったな?」
その言葉に凪咲は静かに頷いた。
「何度思い出しても私には普通に勝っているようにしか見えませんでした。多分、実際に戦ってもそう感じるかもしれません」
「実力を勘付かせないこともまた実力の一部だ。余談だが、西地区の交流戦はあれが優勝したらしい。名前は……天竜一輝、だったか」
魁人は西地区の情報をリアルタイムで発信するSNSを確認し、先の大会で優勝した男の写真を凪咲に見せる。
その男は、魁人が最も実力があると狙いを付けていた青年──天竜一輝という人物だった。
「天竜一輝さん……本当に優勝するなんて、先生の予想が当たりましたね!」
「相手の実力を見破るのは努力すれば誰だってできる。だが格上の相手を倒すことは、どれだけの努力を積み重ねても才能という壁に阻まれればそこまでだ」
魁人は先程の青年を思い出す。
等身大を越えた大きさを夢として掲げる、自らの限界を切り詰めようとする瞳。
──強い、間違いなく。
それはある種の異変、才能に恵まれた素体から歩み生まれるものではない。
そんな都合の良い傑物から生まれ出た才なのであれば、彼はとうの昔にその頭角を現しているはずなのだから。
通常、将棋の棋力とは積み重ねによって強さが磨かれていくものである。
故に大会に現れる強豪というのは、それまで培ってきた幾多もの研磨が実った結果であり、しっかりとした過程が存在する。
突然実力をつけ、突然優勝する。そんなフィクションのような展開は決して起きない。
だがその青年──天竜一輝は、今の今まで西地区内に名前が挙がるような選手ではなかった。
彼の大会成績はそのほとんどが予選落ちという底辺の結果。それが前々回の地区大会ではベスト8位まで上り詰め、先日の黄龍戦では優勝。
そして今回の西地区交流戦でも優勝を果たし二連覇──。
一体何が起きればこんな結果になるのか。まるで棋力を隠していたと言わんばかりの結果。突発的に棋力が上がるにしても、その振れ幅があまりにも大きすぎる。
そしてこんなことが起きている原因に、魁人は心当たりがあった。
「──凪咲、お前は時代の寵児達を知っているか?」
魁人の問いかけに凪咲は疑問符を浮かべる。
「時代の寵児……?」
「ああ、いわばその世代を代表してきた者達のことだな」
時代の寵児、それはこれからの棋界を背負うに足る子供達に付けられた名称。
将棋の黎明期にそれらが棋界の歴史を変えたとされ、後に世代として語り継がれるようになった伝説の逸話でもある。
「始まりは『第一世代』。今では第十六議会とも呼ばれているが、当時は将棋界を荒らしに荒らした鬼才達だ。読みと実力で全てをねじ伏せた本物の天才とも言われている」
魁人は道場の額縁に飾ってある老人──天王寺玄水の写真を見てそう呟いた。
そして今度は自らがその写真を背に向け、凪咲へと振り返る。
「次にあらゆる定跡を生み出した改革者達、それが『第二世代』だ」
「先生のことですね!」
「さぁ? これらは概念だ。世代に当てはまるかどうかは世間が決めるものだからな」
凪咲の言葉をさらりと受け流し、魁人は続ける。
「──そして最後、これまでの将棋に明確な答えを出そうとする者達。それが新生時代の寵児──『第三世代』だ」
そう言いながら魁人は、天竜一輝の写真が載ったスマホを凪咲に見せつけた。
「……!」
歴史とは後の世が決めることであり、自分達がその当事者であることは叶わない。
しかし魁人は微かに感じ取っていた。
今、確かに変化しつつあるこの時代の先導者──改革を為す時代の寵児達。それがまさしく『第三世代』であり、最近周りで突如として頭角を見せるようになった者達がいることを。
我が物顔で大会を荒らし、いずれプロの界隈をも席巻させてしまうような存在。
将棋における結論のようなものが浮き彫りになってきた今世の時代だからこそ、彼らの出現は必然でもあった。
そしてこれらの行く末は黄龍戦で明らかになるだろう。
本当に『第三世代』の最中にいるのか、否応なく突きつける結果が待っている気がする。
そんな勘が魁人の思考を埋め尽くしていた。
「凪咲。──『黄龍戦』にでるぞ」
師の口から出た初めの宣告に、凪咲は思わず息を呑む。
それは自らが育てた大事な愛弟子を、猛者達が犇めき合う乱戦に飛び込ませる賭けのようなもの。
しかし時代は待ってはくれない。確かな見極めと適切なタイミングで一石を投じなければならない。
ここまで培ってきた魁人自身の経験が叫んでいる。
──今、ここしかないと。
「勝てる、でしょうか」
「ほう? さっきと言ってることが違うな、今まで一番の弱音だ。俺と戦った時ですらそんな言葉は吐いてなかったはずだが?」
「……私、この道場に来たのは自らの限界が知りたかったからでした。そしてその願いは今、叶うと思います。でもそれは……嬉しいようで、少し怖いんです」
恐らく、そうではない──。
彼女は自らの限界を知ることで、その現実を知ろうとしている。遥か高みの存在であるプロ棋士に自分が本当になれるかなど、心の底ではとうの昔に否定しているのだろう。
しかしそれは、やり切っていない自分を否定することにも繋がる。
ほんの僅かでも可能性が残っているのならば、限界がまだ霧がかっているのならば、いけるところまではいきたい。
いずれ知る限界を迎えた時に、納得して挫けたいと。そう思っている。
「私は……」
魁人はそんな凪咲の真意を察すると、彼女の胸ぐらをつかんで壁に押し当てた。
「どこでそんな眼をしろと教えた? いいか、よく聞け三流。俺はこう言ったはずだ。この天王寺魁人が生涯をかけてお前を正真正銘のプロ棋士にすると。この言葉に嘘はない、俺は人生をかけてお前をプロ棋士にする」
「先生……」
魁人の言葉にハッとして気を持ち直す凪咲。
しかしいつもの癖で、魁人の口は止まらなかった。
「それともなにか? お前はそんな俺の顔に泥を塗る気か? あァ?」
「ひいぃっ!? うっうそです、冗談です! めっちゃ楽しみにしてます、はい! 大会さいこーっっ!!」
凪咲の慌てふためいた返答に、魁人は満足げに彼女の襟を離した。
そして背を向けると、いつもの声色で呟いた。
「安心しろ、お前は絶対に勝つ。それも圧勝でな」
「え……?」
お世辞など死んでも口にしない魁人から、そんな言葉が漏れた。
凪咲は一瞬聞き間違いではないかと首をかしげる。
しかし、魁人は先を見据えるような目で縁側の方を向いた。
「千篇一律の石ばかりで想いを馳せる日々だったが、今思えば良い休暇だった」
かつて、火を喰らった老人の後ろ姿に憧憬を抱いた。
それは今もなお記憶に残り続けている。
不遜にも大志を抱いたあの頃の、天王寺の看板がうっすらと──。
「凪咲、俺がお前に魔法をかけてやる。一瞬で棋力が上がる魔法だ」
「はい……?」
振り返って微笑んだ魁人の姿には、どこか策士の魂が宿っていた。
「俺はお前に出会ったとき、確かこう言ったな。──振り飛車を指すのやめろ、と」
まさか、と目を見開く凪咲を置いて魁人は続ける。
「凪咲、お前は今日から好きな戦法を指せ。もちろん振り飛車を指してもいい」
「……!」
魁人の言葉に半信半疑な表情を浮かべる凪咲。
振り飛車を指すことは最善の放棄に等しい。そう学んだからこそ、今日まで居飛車を教え込まれてきた。プロを目指すのであればなおのこと、居飛車を中心に勉強しなければならない。
しかし、凪咲はその言葉を聞いた瞬間、腕がもう一本生えたような感覚を抱いた。
「基盤っつうのは既に培ったものに付け加えようとすると必ず途中で崩れる。だから新たな基盤を作るには一度自らが創り上げてきた感覚を捨て、新しい感覚を取り入れなければならない。地道に、ひたすら地道に。そうやって加算していった先に初めて将棋の神髄──完全無欠の戦法が見えてくる」
それは将棋における一つの真理に他ならなかった。
今までの自分を捨てて、未知なる世界へ飛び込む勇気。そしてその先に掴み取った可能性こそが、新しい技であり実力となっていく。
凪咲の思考はこれまで『この人を倒すにはどういう居飛車の戦法を使えばいいのだろう』と無意識に居飛車という戦型でセーブが掛かっていた。
それが今、魁人の言葉によって解放される。
振り飛車という新たな選択肢が増えたことにより、思考の領域が莫大に膨れ上がった。
「凪咲、今のお前には大幅な選択肢が与えられたはずだ。そこでもう一度聞こう、黄龍戦は勝てそうか?」
まるで本当に魔法にでもかかったかのような感覚を覚える凪咲に、魁人の言葉は届いているのかいないのか。
ただ彼女の目は明らかに輝いていた。
自らの師がここまで凄い人物だったことに、尊敬の意が止まらなかった。
「た、大変です先生……! 勝てる勝てないどころか、選択肢が多すぎてもはやどう倒すかという思考にまでシフトしてしまっています……!」
「はははっ、面白いなお前」
恐らく脳内に入ってしまったのであろう凪咲は、まるで神の啓示でも受けたかのように何もない空間を見つめて呟く。
事実、振り飛車という選択肢を無くされた凪咲は当初、将棋始めたての初心者並みに棋力が落ちていた。
しかしそれは蓄積されていた容器を一旦移したからであって、実力そのものが消えたわけではない。
居飛車という糧を手に入れた今の状態で再度元の容器に注ぎ込めば、何もしていないのに棋力が溢れ出る感覚を覚えるだろう。
そうして全てが手に取るように分かる感覚──オールラウンダーの資質が手に入る。これこそが魁人の狙いだった。
「プロ間で振り飛車を指す者が少ないのは、彼らが最善に特化することを選んだからに過ぎない。だがそれは振り飛車が通用しない事実とは違う。振り飛車が苦手な相手、振り飛車を指してくる相手。そういった者達は必ず存在する。そしてそういった者達に対しても対策を練っていくのが正しい道の歩き方だ」
振り飛車の存在は消えたわけではない、むしろアマチュアなら振り飛車の方が多いとまで言われている。
今を見つつ、未来も見る。そんな両極端なことを為すにはオールラウンダーになるしかない。
入門の際、仮に凪咲が居飛車が得意だと言っていたなら魁人は振り飛車を教え込むつもりだった。そうすればどちらに転んでもオールラウンダーになれる。
その方針を魁人は最初から徹底していた。
「先生はやっぱりすごい人です!」
「人を褒める前にまずは自分の棋力を自覚しろ。今のお前は急激な選択肢の増加で棋力が不安定な状態だ。ここから黄龍戦に向けて猛特訓するぞ。手始めに定跡書240冊の丸暗記だ。出来ないとは言わせねぇぞ?」
「はいっ!」
凪咲は元気よく返事をすると、意気揚々と二階へと小走りで向かって行った。
それを見届けた魁人は、縁側のほとりに座って綺麗な夜空を見上げる。
冬の冷たい空気が肌に触れるのを感じた。
「……」
柚木凪咲の成長はまさに既定路線と言えるものだった。
それはここ南地区の地区大会では難なく勝ち上がる実力を持っている。
だが迫りくる黄龍戦、その面々は生半可なものじゃない。
「北地区に、中央地区か」
きっと、前回の県大会優勝者である青峰龍牙を筆頭に、上北道場や銀譱委員会が参戦してくるだろう。
そして時代の寵児──『第三世代』が動きを見せる。
「第三世代……今の俺の手に収まるかどうか」
もし相手が将棋の歴史を変えるほどの逸材であるならば、太刀打ちするのは困難を極める。
急激な成長を見せる者達。それは傍から見れば、人間を逸脱した天才に見える。それとも、天才が将棋を始めたと言い換えた方が理にかなっているだろうか。
「しかしこちらにも手札はある。目には目を、角には角だ」
そう、本当に『第三世代』なるものが存在しているというのならば。今こうして急激な成長を見せている柚木凪咲こそ──『第三世代』の一角なのではないのかと。
ならばぶつけるべき戦場は黄龍戦しかない。
「親父。──届くぞ、俺は」
月夜の彼方に手を伸ばし、銀河の果てへと目を向ける。
掴めるはずもない手のひらで感じる確かな感触、それを自身の元へと手繰り寄せた。
「それは楽しみじゃな!」
突然聞こえた返事に魁人は思わず硬直した。
ふと声のする方を向くと、道場の玄関口に目を向けると老人が木々の隙間からこちらを見ている。
悪びれもなく人の会話を盗み聞きして入ってくるその態度に、魁人は手繰り寄せた拳を力強く握った。
「……テメェはよぉ、人が感傷に浸ってる時くらい空気読めや!!」
「カッカッカッ!」
「先生ー? そんな大きな声出してどうしたんですかー?」
「凪咲ァ! 今日は寝ずにぶっ通しでやんぞ!」
「えぇっ!?」
「そうとなれば。どれ、ワシが晩飯を作ってやろう」
長夜の風に当てられて、魁人は道場の中へと戻っていく。
まるで嵐のようなひと時も、ふと振り返れば充実を体感できる。
閑古鳥が鳴くほどの殺風景だった道場は、今や賑やかな音を立てて騒いでいる。
たった一人加わっただけでこれほどの明るみが生まれた。そしてそれは夢に向かう副産物としてはあまりにも大きなもの。
もしかしたら、そんな幸せを感じた気持ちが詰まった拳だったのかもしれない。
二人の元へと向かう魁人は、その途中でふと立ち止まり再度縁側の方を一瞥した。
「────」
小さく呟いたその言葉は、あまりに大きな宣戦布告。
それでも魁人は久々に笑みを浮かべて振り返る。
「先生?」
「何でもない。それより腹が減った、飯だ!」
「急かすでない、すぐ用意しよう」
「あ、お手伝いします!」
三人が道場を後にし、消灯した道場は真っ暗になった。
車の音と共に三人の賑やかな声が響き渡る。
そして誰もいなくなった縁側には、ぽつりと小さな雪が降り注いでいた。