第八十一手「快進」
凪咲が天王寺道場に入門してから4ヶ月という月日が経った。
肌寒い日が続き、最近では道場内でも暖房を付け始めている。
辺りの地区では大きな公式大会のひとつとして『黄龍戦』の開幕でにぎわっており、ここ南地区でも近日開催するという噂が立っている。
そんな中、魁人はその『黄龍戦』の詳細が書かれた紙を眺めていた。
「そろそろ潮時か」
遠方で自主学習をしている凪咲を見てその実力を測る。
果たして今の彼女が地区大会に通用するレベルか否か、そして自分の教えが現代の大会に通用するものであるのか。
一通りの考えをまとめた魁人は、その場から立ち上がって声を張り上げた。
「凪咲! 今日から一倍厳しく指導していくぞ、やる気出してついてこい!」
「はいっ!」
そこからは、魁人による更に厳しいスパルタ教育が始まった。
1分1秒も無駄にしない課題の山に、道場から帰った後が本番と言わんばかりの大量の宿題。詰められた日程は、普通の子供であれば逃げ出してしまうほどにつらく厳しい指導。
しかし、魁人の指導は常に正道を往くものだった。
自らの師たる先代が受け継いできた教えを正しく叩き込み、そこに自分の経験で得てきた学びを付け加える。現代ならではの戦術と、現代だからこそ知られていない落とし穴や欠点を完璧に学ばせる。
対し凪咲はそんな魁人の言葉を掃除機のようにスルスルと飲み込んでいく。疑問点があれば全て質問し、学びにおける正しき最適解を進み続ける。
王道と正道が掛け合わさった覇道への道筋。それは二人の躍進が遥か先へ向かっていることを示唆するものだった。
「おい凪咲ァ!」
「はいっ!」
翌日、魁人は束ねた紙を手に持って凪咲の前に叩きつける。
「ここの問題間違えてんぞ! お前の回答は次善手だと教えただろうが!」
「……あっ、ほんとだ。すみません、100回復習してきます!」
「2回でいい!」
──翌日。
「おい凪咲ァ!!」
「はいぃっ!」
「なんだこの手は! 一体何をどう考えたらこんな手になるのか教えろ!」
「はい! "王の早逃げ八手の得"と教わったので玉を逃がす手を選びました! 8二玉6三金6二歩6四金で防げると思いました!」
「よーしそこまで考えてるなら上出来だ。だが正解は6九竜と大駒を切る手だ、これは考えたか!」
「はい! 本譜も6四金以降は6九竜で攻め勝ちできると想定してました!」
「ならよし!」
──翌日。
「凪咲ァッ!!」
「はいぃーーっ!」
「桂と銀はどっちが価値高いか答えろ!」
「銀ですっ!」
「じゃあ『問254』はなんで同桂じゃなく同銀と取ったんだ! 次に相手に同歩成で取られる駒は銀か桂かで考えたら価値の低い桂馬の方が良いとは思わないのか、自分の駒が取られる場合は常に最少のリスクで応じろと教えただろ!」
「はい! しかし同桂と取った場合は以下同歩成の手が銀に当たってしまい、手順にこちらが銀を逃がす必要が出てきてくるため1手だけ手損になります! 逆に同銀の場合は以下同歩成で相手に銀が渡りますがこちらの駒には何も当たっていない状態になるので手損せずに済みます! なので同銀としました!」
「よーし正解だ、お前にこのレベルの問題はもう出さん! 次!」
「はいっ!」
やがて原石は磨かれ、その光を解き放つ。
正しき成長は何物にも勝る。魁人の教えは厳しくも理屈を通しており、またその教えを無駄口ひとつ叩かず全てたいらげる凪咲の圧倒的なモチベーションによって事は為される。
──翌日。
「凪咲ァッッ!!」
「はいぃーーっっ!!」
「ついに大会の参加が認められたぞ、お前も今日から立派なアマチュア棋士だ!」
「やったーーーー!」
かくして、天王寺道場から実に数年ぶりとなる大会選手の育成が完了したのだった。
「楽しそうで何よりじゃよ」
道場の入口から微笑ましそうに眺めていた老人が顔を見せる。
実に数ヶ月、あれだけ非難轟々だった自分の息子がきちんと指導を成せている事実に老人は涙しながら何度も頷く。
「親父か」
「あ、初めまして! 柚木凪咲といいます!」
「うむ、ワシは玄水じゃ。ただのおっちゃんと呼んでくれ」
「えっ? た、ただのおっちゃんさん……?」
「うむ」
「凪咲をからかうのはやめてくれ、それで一体何の用だ」
魁人が呆れたように話を詰めると、玄水はニヤリと笑みを浮かべて一枚の紙を魁人に手渡す。
「明日西地区で小さな交流戦がある、そこへ見学しに行ってみるといい」
「西地区……? ここは南地区だぞ、他の地区を視察して何が得られる?」
「それを考えるのもお主の仕事じゃよ」
「そうかよ。今日はもう疲れてんだ、道場閉めるからさっさと出て行ってくれ」
「あいわかった」
玄水は踵を返して外へ出る。その後姿を魁人は追うことなく、道場の電気を消灯し始める。
「えっと、いかないんですか?」
「あぁ? 行くに決まってんだろ。親父はあれでも指導歴は俺の倍だ、何か意図があるんだろうよ。凪咲も来るか?」
「はい、ぜひ!」
凪咲は元気に返事をして魁人の後片付けを手伝い始める。
初めての大会見学にワクワクが止まらない凪咲。
それとは対極に、魁人は黙々と思慮を深めていた。
(西地区は県内でも弱小地区と言われてるくらいのカモだ。しかしこのタイミング、運よく強豪にでも恵まれたか? ……いや、あそこには知将の鈴木哲郎がいる。ここまでずっと雲隠れしていたアレが仮に動き出したとなれば、既に必要十分な駒は手揃えたとみるべきか? 際し仕掛けるのは黄龍戦と言ったところか……)
魁人とて大会に掲げる目標は低くはなかった。
最初とはいえ地区大会優勝、というところで終わってしまうのは些か小さい。どうせなら県まで届かせる勢いで凪咲を進撃させる計画を練っていた。
仮に県を目指すのであれば、真っ先に強豪地区を調査し研究打破するのを目論むのが定跡。しかし魁人は同様に、その思考を巡らす者は必ず足元をすくわれる事例を良く知っていた。
窮鼠猫を嚙む。弱き者が牙を剥く瞬間ほど恐ろしい光景はない。
「……」
そんな魁人の悩む姿を見て、凪咲も考えに耽っていた。
(あったかいコート買っておこうかな……)
二人が思慮に潜る中、天王寺道場は今日も一日を終え夜の暗闇に包まれた。
そして翌日──。
西地区で行われた小さな交流戦、その開会式が始まろうとしていた。
「師匠、体調は万全でしょうね?」
「もちろんだとも、どっかの誰かさんに無理やりトマト漬けにされたからな」
大人達の参列に混ざって談笑してるカップルのような組がひとつ。
決して棋力を悟らせない和やかな空気を醸し出す青年と少女。その二人の手からは、その身に似合わぬ明らかな強者の気配が漂っていた。
「でもなんだかいつものやる気が感じられませんけど?」
「だってこの大会って県には続いてないんだろ? 再来週には県大会があるし、あんまり力使うのもなぁって」
「帰ったら焼肉」
「全員叩き潰してくる」
まるで肩慣らしに来たと言わんばかりの態度も、付き添いで来ていた少女の一言によって決壊。目付きが変わった青年は本物の棋士と遜色ない勝負師の炎を宿す。
そしてこの日、魁人と凪咲は新たな世代の誕生を垣間見ることとなった。