第八十手「片鱗垣間見え」
天王寺魁人が柚木凪咲へ行う指導は、常軌を逸したものだった。
褒めると言う行為は一切なく、欠点をひたすら咎め続ける横風な指導。指導将棋は常に平手で、ハンデなどを付ける素振りすら見せず、また勝たせる気概など一ミリも感じさせないものだった。
そんな魁人の徹底された指導を受け続けていた凪咲は、今日も目を輝かせて指導の享受に励んでいた。
「……お前、楽しいのか?」
指導者側から思わず漏れた言葉に、凪咲はキョトンとした顔で答える。
「はい、楽しいですけど……?」
「そうか、変わってんな」
「?」
魁人は対局中の盤面の真横に置いてある戦績表に目を移す。
あれからついに100戦目、その100戦全てにバツ印がつけられている。
100戦100敗。凪咲は1勝たりとも魁人に勝つことは出来ていなかった。
負けて、負けて、ひたすらに負け続ける。それでも楽しそうに指す凪咲の顔に、魁人の方が冷や汗を浮かべてしまう始末。
指導し甲斐のある少女だとは思っていた魁人だったが、ここまでモチベーションに際限がないと関心すら芽生えてくる。
事実、凪咲の棋力は日に日に大きく向上していた。
本人は気づいていないものの、その実力は既に1級や初段程度の壁はとうに越えている。それはまさしく、魁人の厳しくも適切な指導を逃げずに受けてきたからであった。
──やがて時は過ぎ、秋の季節も終わりを迎える11月。
凪咲が入門してきてから約3ヵ月が経過した辺りで、それは起こった。
「……」
「……」
二人は今日も冷たい息を吐きながら盤面に集中していた。
対局は終盤に差し掛かり、互いに駒損を承知の上で攻防が繰り広げられている。
凪咲は序盤に銀桂交換を強要され、中盤では王手を何度もかけられ、終盤に至っては自陣方面の小駒をほとんど取られ、もはや詰みに近い状況まで追い詰められていた。
先手番は魁人、後手番が凪咲という圧倒的な大差に見えるこの状況。
赤い成駒が凪咲の玉陣を包囲しており、対する魁人の玉は全く傷が付いていない。
それでも凪咲の瞳は光を宿していた。
滴る汗が頬を伝い、互いの真剣さは増していく。
既に飽きるほど戦った相手だというのに、道場内の緊迫した空気は最初の頃と一切変わっていなかった。
聞こえてくるのはただ時を刻む一定の音のみ。
互いに盤面を睨む沈黙状態が続いていたが、動いたのは凪咲の方だった。
△7七飛成。
凪咲は静かな手つきで飛車を成る。いや、成り捨てた。僅かに変化した空気は、将棋の常識に亀裂を入れた。
魁人は盤面から視線を外し、凪咲の方を一瞥する。
その表情はいつもと変わらない、今行っている対局に全霊を注いでいる眼をしていた。
だが、魁人は今この瞬間こそ知りたかった。
彼女がその表情の裏に何を考え、どう思っているのか。ただその心情だけが気になっていた。
▲同玉。
魁人は余った時間を使うことなく、凪咲の手を見て即座に龍を取った。
対する凪咲は一定の思考を時間に費やし、迷わない目付きで手を伸ばす。
△8五桂打。
僅かに笑みを零したのは、指導者である魁人の方だった。
▲7六玉。
△6七角打。
まるで宝石を発掘したかのような、湧き上がる高揚感を噛み締める魁人。
凪咲はそんな魁人の表情を知る由もない。
▲同玉。
△7七金打。
実戦においての飛車捨てからの7手詰め、運勝ちではなく紛れもない実力の寄せと詰み。
その時は、ようやくをもって訪れた──。
「……」
ここまでの背景を構築した存在への敬意の示、それは師が最も喜ぶべき瞬間。
息を呑むほどの緊迫した空気が流れる中、先に沈黙を破ったのは魁人だった。
魁人は深々と頭を下げ、相手である凪咲へ投了を宣言した。
「負けました」
魁人はこの日、生まれて初めて自分が負けたことに幸福を覚えた。
「……うそ。……わたし、勝った……?」
呆然とした様子で呟く凪咲は、目の前に広がる光景を信じられずにいた。
今まで何百回と負かされ続けてきた自分の師を、ついに負かした瞬間。それは感極まるほどに現実味を感じられない瞬間でもあった。
涙腺には一滴の雫が溜まり、今にも零れ落ちてしまいそうなほど潤いを宿している。
「ああ、勝った。お前の勝ちだ」
「や、やった……って、よろこんでもいいんでしょうか……?」
「普通はダメだ。だがまぁ、今回くらいはいいだろう」
本番なら負けた相手にとって無礼に当たるため、本人の前で喜ぶのはマナー違反。だがここは道場で、今行っているのはただの指導対局。しかもずっと負け続けてきた相手に一矢報いて勝ったのだ、喜ばずにはいられないだろう。
魁人の言葉にようやく勝利を実感した凪咲は、笑顔よりも先に号泣して泣き崩れた。
「ここまでよく頑張ったな」
「あびがどうございまずぅ……」
今までどれだけ厳しい指導を受けてきても弱音ひとつ吐かず、涙も流すことの無かった凪咲。そんな彼女が初めて流した涙が勝利への嬉し涙だった。
ボロボロと涙を流しながら満面の笑顔を見せる凪咲の表情に、魁人も釣られて微笑む。
「よし、指導将棋は一旦切り上げて次のステップに移る。泣いてる暇はないぞ、一分一秒無駄にせず棋力をあげることに注力しろ」
「……はいっ!」




