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第七十九手「柚木凪咲の起点」

 

 特別強い目標があったわけじゃない。

 ただ興味を持って、プロを目指したいと思い立った。

 それはいつだったか、泡沫のようにふんわりとした情景だったかもしれない。

 初めて聞いた駒音の名残が今でも耳に残っている。初めて見たあの手付きが今でも脳裏に浮かんでくる。


 ふと、自分もそんな風に指してみたいと思ったのが原因だった。

 きっかけは単純で気まぐれなものだったかもしれない。だけどやっていくうちに段々と将棋を好きになっていった、興味を持つようになってきた。


 気付けばプロ棋士への憧れが芽生えていて、いつか自分もその場所に立ちたいと思うようになった。

 だから特別強い目標があったわけじゃない。

 ただ目指すなら全力を賭してプロ棋士になりたいと、そう思った。


 プロ棋士になるには、まず奨励会という施設で四段になる必要があるらしい。その奨励会に入るには奨励会試験に合格する必要があり、試験を受けるには四段免状やプロの推薦状など一定の実績が求められる。


 そして実績を取りに行くために最も手っ取り早い方法は、将棋の公式大会に出場することだった。

 そしてその公式大会に出場するには、大会関係者と繋がりを持つか道場の門下生となるのが一般的な方法とされていた。


 道のりは果てしなく遠い。

 そんな私はまだ子供だったこともあって、単独で大会に出場するよりどこかの道場の生徒となって出場する方がやりやすいと感じた。


 だから最初は、家から一番近い場所にある上北道場へ通うことを決意した。

 この道場では生徒が40人を越えることから計4組に分けられており、個室で生徒同士が競い合うことを主軸とした道場だった。

 私はその道場で3年近く修練に励んだが、指導というより生徒同士の対戦が習慣づけられていたこの道場では、私の棋力の伸びは緩やかなものだった。


 また隣の個室で行われている横暴な男の拷問のような指導が多発しており、合理性を感じられずに自主退会を選択。私が求めているのは合理性を伴った高段者からの厳しい指導であり、生徒同士が切磋琢磨するような環境はどうも性に合わなかった。


 そもそも指導というのは、常に一対一で行われる訳ではない。

 需要があればあるほどその道場には人が集まってくる。そして人が増えれば指導は分散し、やがて抱えきれなくなると生徒同士の競い合いへと環境を移す。


 自分だけを集中して指導してくれる都合の良い道場など、あるはずもなかった。

 しかし、そんな時に私は女性のプロ棋士誕生を目標に掲げていると噂の道場を耳にした。

 かつてアマチュアの鬼才世代と呼ばれていた老師が当主を降り、新しい代に着いた若人が女の子相手にスパルタの様な指導を続けている。


 ──しかし、実力は天下一品であると。


 ふと心の中で、上等だと感じた。

 私は自分に才能があると思ったことはない。だけど、この世界で勝ち抜いていくためには何よりも才能が重視されることを知っていた。

 今の私に必要なのは、自分の限界を見つけその才をはっきりさせること。


 努力は誰でもできる、だけどその努力を実らせるのは簡単なことじゃない。そしてまさに今、この場所こそが自分の限界を突きつけてくれる存在かもしれない。

 チャンスは何回あっても夢は有限、まずはチャレンジすることが何よりも大事。

 そう思って私はここ『天王寺道場』の門を叩いたのだった。


 ◇◇◇


 明瞭な結果とは裏腹に、その過程は凡夫を逸する内容だった。

 その場には僅かな光が見え隠れする棋譜が残る。

 これは機転なのだろうかと。


「……負けました」


 頭を下げる凪咲を前に、魁人は腰を上げて立ち上がった。


「柚木凪咲、お前の実力はよく分かった」


 顔を上げる凪咲は、関心と畏怖を抱いて盤面を見つめていた。

 圧倒的な実力の差、計り知れないほどの読みの深さ、凪咲は自らが教えを乞おうとしている相手が本物の強者であることを改めて知った。

 しかし、対する魁人はそんな凪咲を見て辛辣にも罵った。


「戦術も戦略も素人以下、見逃しも多く戦法の定跡はデタラメで駒組みの構成に関しちゃ何一つ冴えるものがない。ハッキリ言ってド三流の将棋をやらされた気分だ」


 遍く指導してきた男からの見解、初めて突き出された自分への明確な評価。

 凪咲は魁人からの評価を受け止め、そして再度頭を深く下げた。


「……ごめんなさい」


 才とは結果からでしか測られることのない呪いの総称。いつだって結果を残した者が才能の是非を問われ、結果を残せなかった者は総じて才能がないと揶揄される。

 凪咲は自分の実力を過信したことは無かった。しかし、自分の実力の及ぶ範囲を無視してでもプロへの一途を辿れると本気で思っていた。


 それは、才能の有無が重要視されるこの世界においては無謀な歩みに等しいもの。凡人が天才に敵うなどあるはずがなく、天才に勝ちたければ自分も天才になるしかない世界。

 そんな中で改めて思い知らされる自身への評価。それでも、その言葉を受け入れて納得して前に進むしかない。


「……」


 せめて失望だけはしないで欲しいと願う凪咲。

 しかし魁人は、まるで続きを聞けと言わんばかりにその先を告げた。


「──だが、お前は正しいことをした」


 その一言を聞いて凪咲は思わず目を丸くさせる。

 対する魁人は盤面に視線を落とし、未だ2八の地点に座している飛車に目を向けた。


「将棋の型というのはそう簡単に変えられるものじゃない。お前にはこの3年間、振り飛車に始まり振り飛車に全霊を注いできた期間があったはずだ。だがお前はこの対局で初めて居飛車を指し、そして最後まで指し切った。それに無意味な手を一度も指していない。悪手は多く間違った手筋ばかりだったが、意味のある悪手だ」


 魁人はそこで言葉を区切り凪咲を見据える。

 その瞳の奥には、決して消えぬ闘志が宿っていた。


「俺がお前に対し言った内容は二つ。一つ、振り飛車をやめて居飛車を指せと言うこと。二つ、プロやAIは無駄な手を一切指さないということ。お前は俺が言ったこの二つを実戦で活かしてみせたな」


 それは師への絶対的信頼が無ければ為せない行為である。

 魁人の言葉に、凪咲もまた驚いた表情を浮かべた。


「先生……」


 自らが示したかったものを、彼は全て見抜き理解していた。

 達人の読み合いは言葉を交わさなくても伝わると言うが、凪咲は今この瞬間自分の想いを乗せた将棋が全て魁人へ伝わっていたことに驚愕を覚えた。

 それは対等に交わされた目線であり、凪咲と魁人の間で初めて対話が成立した瞬間でもある。


「もう一度言おう、お前の実力はよく分かった。だからこれは最終確認だ。お前の目標はプロ棋士で相違ないな?」


 その問いに凪咲は立ち上がり、そして答える。


「──はい!」


 自らの夢を叶える為に必要だった、そのたった一つの言葉を凪咲は放つ。

 石を磨き幾星霜、ついに見つけた価値ある原石を指導歴7年の魁人は見逃さない。

 長い間眠らせていた扇子を棚から取り出し、机に置いてある居飛車の定跡書を手に取った魁人は再び告げる。

 それは凪咲が求めて止まない師弟への確固たる責だった。


「分かった、ならばこれ以上の問答は無用だ。この天王寺魁人が生涯をかけてお前を正真正銘のプロ棋士にすることを約束しよう」

「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 いつぶりか、縁側を越えて天王寺道場に明るい陽の光が差し込んでいた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] おおーー! 有意義な対局でしたね! 新しい日々の始まり!
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