第七十八手「小柄な原石」
まだ夏の毛色が残りつつある7月の暮れ。
眩しい太陽に晒されて殺風景な道場の門を潜る少女が一人。
庭の辺りを見渡し、魁人と目が合った少女はすぐにその道場の主だと気づき声を掛ける。
「あ、あの! 初めましてっ! 今日からお世話になる柚希凪咲っていいます!」
凪咲と名乗る少女は元気よく挨拶をする。
その声を聞き、縁側でくつろいでいた魁人は立ち上がって凪咲の元へと向かった。
「天王寺魁人だ」
「よろしくお願いします! 先生!」
「ああ」
ペコリと頭を下げる凪咲に対し、魁人は無気力に返事をする。
子供の無邪気さは晴れてこそ輝くものだが、一度濡れれば元には戻らない。
「……」
「先生?」
魁人は目の前の少女に期待を寄せてはいなかった。
どうせ同じことになると、淡白な言葉で説明を始める。
「中はこっちだ。次来るときは勝手に入ってきていい」
「はい!」
元気よく返事をする凪咲を連れて道場の中へと案内していく。
そこには門下生の姿は無く、閑散とした光景が広がっていた。
「わぁ……!」
道場の壁には魁人の実績と思われる賞状やトロフィーなどが飾られており、その横に先代の当主と思われる老人の写真が載ってある。
「風格のある道場ですね……!」
心からその風景を楽しんでいる凪咲を外目に、魁人は書類が山積みされた机の中を漁り始める。
そして中から札とペンを取り出すと凪咲へと手渡した。
「ここに自分の名前を書け」
「あ、はい!」
凪咲が札にペンで名前を書くと、魁人はそれを持って道場の端に飾られている板へと貼り付ける。
そして『級位』と記載された板の真下には、この道場の生徒である者達の名前が書かれた札が貼り付けられており、凪咲の名前が書かれた札は『10級』と記載してある場所へと貼り付けられた。
「すごい……こんなにたくさん生徒がいるんですね。今日は私だけなんですか?」
その言葉を聞いた魁人は、何かを思い出したかのように他の生徒達の名前が書かれた札に目を移した。
「あぁ、掃除すんの忘れてた」
「えっ?」
そういって他の生徒の名前が書かれた札を片っ端から取り外し、ゴミ箱に捨てていく魁人。
ものの数秒で片付けられたその板には、先程貼った凪咲の札しか残っていなかった。
「この道場にいるのはお前ひとりだけだ。他は全員やめていった」
「そ、そうですか……」
少しばかり動揺する凪咲を気にも留めず、魁人は書類を持って色々と記入の準備を始める。
「将棋の経験は」
「え?」
不意を突かれて問われた言葉に凪咲はとっさに返事ができず、その場に固まる。
魁人にとっては慣れ過ぎた故の事務的な行為が、凪咲のペースを崩す。
「将棋の経験は」
「あっすいません、3年です!」
しかし、それでも凪咲はいつものように笑顔でハキハキと答えた。
「道場には通ってたか」
「はい、上北道場に通ってました!」
「銀譱傘下の所か、退会理由は」
「プロを目指したいのでより本格的な道場にしようと思って、そしたら一番厳しく指導してくれるところがあるって聞いたので!」
「そうか」
目を輝かせながらしっかりと答える凪咲に、魁人は質問の内容を変えた。
「上北道場での級位は」
「3級です!」
「得意戦法は」
「角交換四間飛車です!」
「振り飛車か。三間飛車と向かい飛車は指せるのか?」
「あ、いえ……すみません。角交換四間飛車だけです」
「角交換四間飛車を指す時の囲いは?」
「基本は美濃囲いで、余裕があれば高美濃囲いや銀冠を作っています!」
「その美濃囲いは完成させているのか? 左金はどうしてる」
「あっすいません! 左の金はくっつける余裕がない時はそのままです」
「そうか、よく分かった」
凪咲の言葉を聞きながら魁人は手元にある紙に色々と書き込む。そしてそれを横に置くと、凪咲の方へと振り返った。
ついに指導の時間が始まるのだと期待を膨らませる凪咲。
しかしその耳に入ったのは、予想だにしない残酷な一言だった。
「──お前、振り飛車を指すのやめろ」
「……え?」
一瞬、凪咲は何を言われたのか分からなかった。
──指すのをやめる。それは自らが今まで指してきた唯一の戦法を否定するに等しい。
何をもってそんな言葉を口にできるのか、プロでもない一道場の師範にその戦法の何が分かると言うのか。
「……えっと」
普通ならここで対立が起きる。
しかし凪咲は感情的になることはなく、平常心で魁人に質問を返した。
「指してはいけない理由を教えてもらっても良いでしょうか?」
「逆に質問するが、今のプロ棋士界隈で振り飛車を指している者は1割もいない。これは何故だか分かるか?」
「いえ……」
沈黙する凪咲に対して魁人は更に問いを続ける。
「なら振り飛車とはなんだ?」
「飛車を、振ることでしょうか……?」
「その通り、振り飛車とは飛車を振ることだ。この行為はそれ以上でもそれ以下でもない」
そこで一旦言葉を区切ると、魁人は手に持っていたペンを机に置いた。
凪咲はその動作を見て次の言葉を待つ。
「現代の将棋AIは振り飛車という戦術に答えを出した。この手は『0点』だと。これは悪い点というわけじゃない、将棋にはマイナス点が存在するからな。0点というのはつまるところ良くも悪くもない一手だということになる」
将棋AI。今でこそ誰もが使用しているその媒体を凪咲は知らなかった。
しかし魁人の話に割って入ることはなく、ただ聞き耳を立てて視線をまっすぐ魁人の方へと向ける。
「さて問題だ。将棋AIは如何にして次の一手で点数を重ね、局面を優位に運ぶのかを目的としている。そこで『0点』である振り飛車を指したらどうなる?」
「……1手、無駄になる?」
「正解だ」
魁人が言いたいことを理解した凪咲は顔を俯かせた。
そしてゆっくりと顔を上げると、魁人を見据えて口を開こうとする。
しかし魁人の言葉の方が早かった。
「つまり、振り飛車を指すということは極論的には一手無駄な手を指すということになる」
押しとどめるように魁人は事実を述べる。
そして現実を叩きつけるが如く、魁人の理詰めが開始された。
「ただのアマチュアならこの1手に価値を見出す必要はない。他に咎め、そして直すべき粗が多くあるからな。だがプロは違う、この1手という手損に絶対的な価値を見出している。だから彼らには粗がなく、正真正銘の天才と呼ばれる所以でもある」
プロとのアマチュアの差をしっかりと突きつける魁人。
凪咲は黙り、言葉を返さない。
「お前はプロを目指すと言ったな? この道は娯楽じゃない。それを理解するのは子供にはまだ難しいことかもしれないが、本気でプロになりたいというのなら自分の欲を常に上書きする苦痛に身を焼くことになる。頂点を目指すというのはそういうことだ」
凪咲は何も言わない。ただ、魁人の方を静かに見つめている。
その表情は何か言いたげだ。
「柚木凪咲、お帰りはあちらだ。この道場は去る者を追わない。強くなりたいのなら他の道場も沢山ある。だがもし、それでもプロを目指したいと言うのなら俺が責任をもって指導することを約束しよう」
そう言って煽りを利かす魁人。
彼は今まで入門してきた生徒達にも同じような問答を行っていた。
ここで臆し挫けてしまった生徒はそのまま退会し、やる気のある生徒は健気な返事を告げながら指導を申し出る。
中には「それでも頑張ります」「プロになってその理屈を覆してみせます」など口でいう利口な子共を沢山見てきた。
しかし彼らは全員数ヶ月も持たずにこの道場を去っていく。
所詮は口上だけの紛い物、魁人は今回もそうなるだろうと半ば諦めの問答だった。
「──先生」
ここまで黙って素直に聞いていた凪咲の口が開く。
今までも、そしてこれからも変わらないと思っていた現状。凝り固まった風習に答えを出すというのは大人の考えをもってしても難解を極める。
しかし、いつの時代もその壁に風穴を開けてきたのは若き者達だった。
凪咲はその問いに答えるでもなく、真っ直ぐな瞳を魁人にぶつけながら真剣な表情で告げた。
「一局、お願いしても良いでしょうか」




