第七十七手「天王寺道場」
第四章『承襲・時代の寵児編』開幕
将棋道場というものは全国に多数存在している。それは名門を除けば、田舎でも簡単に見つかるほどに多い。
しかし、道場そのものにおける実績なんてものはせいぜい地区優勝が相場。県の頂点まで届かせるには道場の域を出て研究会や都会の名門道場など、相応の場所に入ることが推奨される。
ましてや、名も知れぬ小さな道場でされる指導なんてものはただの道楽。指導者の経験と勘によるものが大半を占めるこんな場所では、寄ってくる者も似たり寄ったりになる始末。
「春野……テメェやる気あんのか?」
道場内に広がる畳み、そのど真ん中にポツンと置かれた将棋盤を跨いで、青年と小学生高学年ほどの少女が座っていた。
道場の中心に『天王寺』と掛けられた看板を背に、その男──天王寺魁人は眉を顰めて少女に問いかけていた。
「ひっ、ご、ごめ、な……ぃ……」
「謝れなんて言ってねぇよ、やる気があんのかって聞いてんだ」
「ぁ、ぁ、っ……っ……ぃ」
「なんだ、聞こえねぇ」
「──ぁぁあああっ……! うわーーーんっ! ごべんなさいぃ~っ!!」
「あ、おい!」
少女はそのまま道場を飛び出し、魁人は一人ポツンと道場内に残される。
もはや見飽きたこの光景に深い溜め息をつき、立ち上がった膝を再び折って胡坐をかく。
「はぁ……」
そして魁人は手元にある紙の束を丸めてゴミ箱へと投げ捨てた。
捨てたのは、さきほど出て行った少女に出した宿題だった。
「くだらねぇ……」
魁人は思わずため息を吐く、今月に入り4度目となる入門生徒の指導。
周りが退会していく中、その少女は現状最後の砦のような立ち位置だった。
しかし今、少女が道場から逃げ出したことでそれも潰えた。
「19手詰、21手詰、五段レベルの問題含めて全問正解か。はっ、プロかよ」
魁人はゴミ箱に捨てた紙の内容を虚ろながら呟く。
たった今出て行った少女は、毎日提出すべき宿題を1日たりとも遅れることなくやってきていた。しかもその内容は毎回全問正解で完璧な内容、まるで非の打ち所がない優秀な生徒と言える。
では一体それの何がいけないのか。
問題はその宿題をカンニングして解答していたからである。
毎日毎日完璧な回答案と共に提出してくる少女、予習として出した問題も難なく正解してくる。
これに不審に思った魁人は問題のひとつに高段者でも解けないようなプロレベルの問題を混ぜて提出した。──が、翌日完璧な正解案と共に提出してきた。
ならばと後日。宿題の類題として似たような問題をその場で出したが、少女はその問題に答えることが出来なかった。
普段からカンニングしていたのだから、当然解けるはずもない。
これに魁人は激怒し、やる気があるのかと問い詰めた結果がさきほどの惨状だった。
「何がプロを目指すだよ、どいつもこいつもやる気の欠片もねぇ」
──プロになる。それは生半可な努力では決して届かない天才の域。
最近はそれを理解してない子供が多い。いや、子供なのだから理解出来なくて当然だろう。問題なのは親も理解していないことにあった。
自らの子が挑む世界の難易度を知ることくらいは、親として当然の責務。テレビを見て若い棋士が活躍しているからと、自分の子供にも夢を追わせるなんて、そんな生温い思考では決してプロには届かない。
彼らは地を這い泥水を啜るような地獄の思いをしてプロになっている、泣いて挫折してもう逃げたいと思うような監獄の中で成長してきたまごうことなき怪物。
彼ら勝ち組の影でプロになれない者がどれだけいるか、それを知ったらこの業界に手を出す者はきっといなくなる。
だからこそ、魁人はその重圧を乗り越えるだけの精神力を持った生徒を求めていた。
「……閉じるか」
今日も独りとなった魁人は、教室の電気を消して道場を後にした。
──そして翌日。
殺風景になった道場の真ん中に腰を下ろし、不服そうに鎮座する魁人は、入り口から入ってきた一人の老人に文句を垂れる。
「これで16人目。なぁ、いい加減やめにしねぇか?」
魁人は『天王寺』と掲げられた看板を哀愁の目で一瞥し、将棋盤の上に軽く手を乗せる。
この辺りの地区では珍しく「プロを目指す」という本格的な指導を目的としている天王寺道場。
その始まりは新しく、この時代になっても未だ女性の活躍が少ない将棋界の現状を好機と見た先代が、自らの代を降りて方針を一転。若い女性を中心に本格指導をする方針に転換し、未だ誰も成しえていない"女性のプロ棋士"の誕生を目標として掲げることとなった。
だがここ天王寺道場は魁人の行き過ぎたスパルタ的指導もあって、ご覧の通り道場内は常に殺風景。入門者はすぐ現れるものの、数日後には去っているのがいつもの光景となっていた。
「ガキを虐めて愉しんでるってもっぱら噂になってんだよ。俺の世間体なんてどうでもいいが、道場に来るやつがいなくなる」
「ここはワシの道場だ、お主が気にする必要はない。それにお主には過去の歴史を塗り替え、新たな偉業を果たすための才能がある」
「またそれか」
聞き飽きた言葉に相槌を打つのも億劫になっていた魁人は、将棋盤の上に置いてある駒箱を取って中身を出す。
「確実に強くなりてぇならまずは粗を全て削る必要がある。俺が考える強さの矜持ってのは、見える弱点を綺麗に落とした上で新たな経験を積んでいくことだ。最初から経験だけを積んでいく奴は必ずどこかで躓く。中途半端に仕上がった棋力じゃあプロになんかなれねぇんだよ」
吐き出した駒を伊藤流で力強く叩き並べる。
プロという道の険しさを、魁人は誰よりも知っていた。
あの時こうしていれば、辛くても逃げずにやり遂げていれば、そんな数多の後悔を彼は噛み締めてきた。だからこそ、魁人は今の指導者の生温さに嫌悪を感じていた。
どこの道場も金儲けの精神で楽な指導ばかり。自身の教え子に対する熱意の入れ方も中途半端。初めからプロになんてなれるわけがないと、そう決めつけているのが透けて見える。
対して来る方も来る方だった。
流れに身を任せるようなやる気しか見せず、中途半端に挫折して後悔すれば即諦める。物事に対して全力を尽くそうともしない。
それはもうプロを目指したいではなく、ただ強くなりたいだけの間違いじゃないのかと魁人は怪訝に思っていた。
「ここに来るやつは全員プロを目指してんじゃねぇのか?」
「無論。今まで志望した子供たちは全員プロを目指すと確固たる意志を見せていた。親御さんにも厳しい指導になると同意を得ておる」
「じゃあなんで俺は毎回その親御さんに頭を下げる羽目になんだよ」
「それはお主の指導が行き過ぎているからじゃよ」
「はっ、全くもってその通りだ。やっぱやめるか?」
「まぁ待て、まだ志望の子が一人残ってる」
「どうせ同じ結果になるぞ」
駒を並べ終わった魁人は呆れた表情で一人対局を始めた。
既に16人を指導したものの、結果として残った者は誰一人としていない。一番長くまで残った子供もせいぜい2ヵ月が限度だった。
その原因は追究するまでもなくスパルタ指導のせい。だが魁人は、自分の指導が行き過ぎていることくらい重々に承知していた。
そしてその程度の指導にも耐えられないようでは、プロを目指すなんて到底無理なことも──。
「つーかよ、俺みたいな古臭いスパルタ方針を取る奴は指導者に向いてねぇんだよ。アンタが指導してた時の方がよっぽどマシな戦績残せてたんじゃねぇのか?」
怪訝な表情を向けて魁人は言う。
その言葉に老人は目を瞑り、自分の人生を振り返るように語った。
「確かにワシが指導してた時は教え子がいくつかの戦績を残した。この地区で初となる女子小学生優勝を果たし、県大会でも入賞という結果を残せた」
「ああ知ってる、この看板の価値はアンタが築き上げてきたものだからな」
この『天王寺』という看板にはまだ重みが残っている。
しかしそれは、先代が築き上げてきた実績があってのものだった。
今その看板に泥を塗り続けている魁人にとっては、果たして自分のしている事が正しいのか甚だ疑問だった。
──それでもと老人は首を振る。
「だが結局はそこまでじゃ。それ以上の戦績は不可能だと感じた。ワシの指導は所詮凡夫のそれじゃからな。ある程度までは育てることができても、頂点は目指せない。それは妥協というべき結果の積み重ねでしかないんじゃよ」
正道とは成した者こそ辿った軌跡であり、いざ自分が見渡せばただの凡庸な道でしかない。
果てなき夢へ押された終止符。
老人は長年の経験の末にふと振り返り、その道が石ひとつ転がっていない凡庸な道だと気づいてしまった。
それは、自らのやり方が間違っていた事への絶望に等しかった。
だがそこで夢を諦めるわけにはいかなかった、屈したままではいられなかった。
指導者としての夢が潰えたとしても、自らが立ち上げた『天王寺』の看板を世に連ねる。それを自分に残された余生の最後の軌跡にしたいと。
だからこそ、老人は魁人にその夢を託した。
「しかしお主は違う。ワシにはない才能を確かに持っている。視えるんじゃよ、果てにある景色の傍らにお主が立っているのが」
自分とは違う、多少尖っていても紆余曲折を残す波乱万丈な道を創ってくれる確かな才能。託すには絶好の、運命さえ吃驚するような存在が目の前にいる。
そう──自分の息子であるこの男になら継がせられると、老人は踏んだのだ。
「お主の夢がワシと同じであるのなら、どうかその背中を見せてはくれぬか」
「……親父がそこまで言うなら断る理由はねぇよ。だが期待はすんな」
「頼んだ」
老人はそういうと道場を後にして去っていった。
魁人はその背中を目で追って、看板の方に視線を移す。
その男の実力を知りながら、その男が成し得なかった世界へ挑むこと。大層な目標を掲げながら背負った重圧は重すぎて一歩も動けはしない。
「天王寺玄水……かつて第十六議会と肩を並べた鬼才世代の一角か。俺の足はそこまで届くか否か」
それでも前に進む、半歩ずつ前進する。かつて自らの父が見せてくれた影を追いかけながらいつか自分の背を見せるその時まで。
魁人は今日もまだ見ぬ生徒の為に、新たな問題作りに勤しんだ。
──そして翌日。
「すみませーん! 天王寺道場……ってここであってますかー?」
最後の入門者がその道場の敷居を踏んだ。




