第七十六手「時代の寵児へ」
「やったー! やったー!! 俺はついにやったんだーっ!!」
家に着いた俺は、さっそうと優勝カップをリビングにある戸棚の上の目立つところに置き、子供のようにはしゃぎ倒した。
「はぁ……もう少し自重したらどうなのよ」
「知るか、俺はがんばったんだ。がんばったから勝ったんだ! 嬉しい!!」
語彙力が無くなるほどの歓喜を表現して、なんとか麗奈に凄さを伝える。多分伝わってない。
それでも麗奈は嬉しそうなため息を零して荷物を置いた。
「そうね、まぁ今日くらいは大目に見て上げてもいいかもしれないわね」
初めて地に足をつけてから進められた一歩目の前進。
ここまでしてきた努力が『優勝』という明確な結果で示されたことで、俺達はようやく自分達が着実な成長を遂げられていることを実感できた。
かつては地区大会すら勝てなかった男、かつては自らの指し方に鋭利さを持てなかった少女。
この半年間でその壁は間違いなく打ち砕けた。
目指すべき頂上をただ見上げるだけだった俺達は、ついに1つ目の山を登り切ったのだ。
「そういえばこれからどうするんだ? やっぱりまた特訓?」
「いや、少し息抜きしましょ。今回の大会は二人とも疲労が大きいはずだしね」
「麗奈は圧勝だったけどな……」
「そんなことないわよ、ちゃんと全力を使い果たしたんだから」
そう言う麗奈の表情は、今見ると確かにかなり疲れた表情をしている。俺の対局を観戦していたことも原因のひとつだろうが、それだけ今回の大会に掛ける想いは大きかったということだろう。
俺も生まれて初めての長い連戦で、精神的にも肉体的にもかなり疲れが溜まっている。少しくらいリフレッシュしないと根を詰めそうだ。
「それで、息抜きって具体的にはどうするんだ?」
「現地で数日間の短い宿泊だけど、ペアチケットを用意したのよ」
「まじか!! 温泉とかバイキングか!? いや、麗奈のことだからディズニーとかって可能性もあるな……!」
つい先日までベトナムに行ってきたばかりなのに、俺はすぐにテンションをあげて舞い上がった。
それも当然だ、あれは旅行といってもほとんどが特訓のようなもの。常に気を張り詰めたような期間だった。
しかし今回は息抜き! つまり心から楽しむことの出来る旅行だ!
久しぶりの休息に心躍る中、麗奈は小さく微笑んでチケットを渡してきた。
「はいどうぞ」
「……なにこれ?」
渡されたチケットには、日本語の表記など一切なかった。
温泉か、観光地か。そんな期待を胸に膨らませた俺に告げられたのは、想像を突き抜ける単語だった。
「モルディブ高級リゾートのペアチケットだけど」
「麗奈、結婚しよう」
「ふざけた告白してないで今日はさっさと寝る!」
「はーい」
こうして俺の黄龍戦地区大会は、優勝と共に幕を閉じたのだった。
◇◇◇
それから数日後──。
地区大会とはいえ、副会長という大物が混在する大会を制した男の話は新聞や地域のSNS、各記者のブログなどですぐに拡散された。
『黄龍戦地区大会で繰り広げられた激闘!! 副会長に勝利した若き青年の逸話!』
題名にそう書かれた記事は様々な人々の手に渡り、その感情を奮い立たせていた。
決戦の場となるラッセル新聞社では既に選手達の棋譜が精査されており、これを如何にして全国に届かせるかという作戦が吟味されていた。
そして同様に、この事実は各地区に住む強豪たちの動くきっかけにもなっていた。
◆──上北道場──◆
如何なる戦法も厭わず、如何なる手を以てしても勝利を捥ぎ取った者が正しい。
そんな勝利への絶対的な執念を掲げる上北道場では、明かりひとつない暗室で今日も一人の男が暴れていた。
「さ、さすが龍牙さん……また全勝……」
ボロボロになりながら、壁にもたれかかる対戦相手。
その顔面に龍牙は駒を投げつける。
「お前ら前回からちっとも成長してねぇな、将棋やめたらどうだ? あァ?」
「……」
もはや日常的となったそのやり取りに、対戦相手は反論する気力すら起きずに真っ青な顔でその場に倒れ伏した。
周りを見れば、他の者達もぐったりと倒れている。
いるだけで気が狂いそうになるその暗室に娯楽なんて要素は無く、ただひたすらな蹂躙だけが行われていた。
そこへ一人の女性が入室し、手に持っていた紙を龍牙に渡す。
「現在まで行われている黄龍戦各地区の結果です」
「ようやく来たか」
「開催した地区はまだ半分ほどですが、1ヵ月以内に全ての地区が開催し終えると思われます」
龍牙は黄龍戦地区大会の結果が書かれた紙を手に取ると、その内容を上からざっと流し読みしていく。そしてとある部分に目が行くと、暗室で倒れている一人の眼鏡を掛けた男を睨みつけた。
「おい、何だこの結果は?」
「ひぃっ……! あっあの、ボクはCグループに出ていたので彼とは別のグル──」
言い終える前に、龍牙はその男に向けて駒箱を思いっきり投げつけた。
眼鏡が割れ、男の額からは少量の血が流れだす。
「んなことは聞いてねェんだよ、なんで優勝してないのかって聞いてんだよ。わざわざ偽造までして別地区の大会に出場させてやったってのに、何してんだお前? 勝たなきゃ意味ねぇよな? なぁ?」
「ずみまぜ……ぐっ……!!」
龍牙は委縮する男の肩に手を置き、その肩を握り潰すほどに力を込める。
そのまま持ち上げて男を無理矢理立ち上がらせると、腹部に思いっきり拳を叩き込んで蹴り飛ばした。
「おい、コイツを外に放り投げろ。破門だ」
「ま、まっ──」
男は抵抗する暇もなく道場の生徒達に取り押さえられ、龍牙の命令通り外へと連れだしていった。それをまるでどうでもいいことのように興味も示さない龍牙は、再び紙を見て首を鳴らす。
「まぁいい。卵が羽化したところで所詮は飛べもしない鳥、また潰せば同じことだ。今度は徹底的に、人格が壊れるまでやってやる」
不気味に口角をあげて笑い出す龍牙に、周りの生徒達は冷や汗をかきながら見つめていた──。
◆──銀譱道場──◆
裏で界隈を牛耳ろうと、水面下で事を企てる銀譱委員会の直系傘下──銀譱道場。完全な実力主義と言われるこの道場では、近年の飛躍的なAIの進歩に対応すべく、ほとんどの対戦がAIと行うものになっていた。
室内に駒台や駒箱は一切なく、あるのは将棋ソフトが入ったパソコンのみ。
「東郷、戦績を」
「はっ。284戦217勝67敗、直近20戦は全勝です」
東郷と呼ばれた生徒の一人は印刷した紙を見せる。
そこには勝敗だけではなく、最新の戦術やそれに対応する最善手の羅列、勝つための様々な予測パターンが組み込まれた内容が書かれていた。
「上出来だ、県大会でそのAIより強い選手は一人もいない。お前の優勝は確実だ」
「ありがたきお言葉。しかし念には念を、使用したAIは通常より一回り強い設定にしております」
「有能な生徒をもって私は誇らしいよ」
クリック音だけが響く完全なカリキュラム実践空間に、責任者と思われる男は邪念を含んだ笑みを零す。
AIという最先端の存在に勝ち続けることで、研究の先へと手を伸ばしていく。
それはやがて人など眼中にない、勝って当たり前という感覚を生み出す。そしてその自信こそが更なる強さを引き出すきっかけにもなる。
得てして生まれる結果とは、次の世代への扉を叩くものなのだと──。
「我々の理念の為にも、この大会は勝たなければならない」
「心得ております。この東郷、全身全霊をもって銀譱道場に勝利を捧げましょう」
◆──凱旋道場──◆
強者の集いと言われて真っ先に挙がる道場がある。
第十六議会の傘下にして、全国に複数存在するその道場の名は──凱旋道場。
その看板に書かれた文字の重さは他の比ではなく、文字通り出た戦は必ず勝利をしなければならない。敗北は認められず、意図しない黒星が付いた者には二度とその道場の敷居を跨ぐことは許されないとすら言われている。
そんな別名"無敗道場"とも呼ばれるこの道場からは、普段大会に選手を送り出すことはなく、明確な目的が無い限り不動と沈黙を貫く方針を取っていた。
そのため、表に出せるような実績はほとんど存在しない。
そして生徒達もまた、議会の傀儡として場をコントロールする役目を担っている。まるで調停のような立場にあるこの道場では、今回も動きを見せずに機会を窺う方針を予定していた。
しかし──。
「赤利、大会に出なさい」
タブレットでプロの対局動画を見ていた小柄な褐色少女の赤利に、責任者は話しかける。
「んにゃ? 黄龍戦は青峰龍牙に勝たせるって話じゃなかったのかー?」
「事情が変わったのよ、例の委員会が動き出したわ」
これまで動向を見守っていた対象がついに動きを見せた。この事態に議会は明確な方針を示すことはなく、傘下に各自で対応するよう一任。
他県や別地方の委員会傘下に明確な動きはないものの、この県の委員会直系傘下である銀譱道場が動いたことで、同県の凱旋道場も沈黙を貫くわけにはいかなくなった。
水面下で起こる抗争は熾烈を極める一方、事前に手を打っておかなければいつ棋界が転覆してもおかしくはない。
「そっかー、いいぞー赤利も大会に出るのだ~」
大会出場を促す責任者の言葉に、赤利は渋る様子もなくタブレットの動画を見ながら返事をした。
しかし、声のトーンが段々と下がっていく。
「ただひとつ聞いておきたいんだがなー?」
「なに?」
ゆっくりと振り返った赤利は、恐ろしいほどまでの鋭い闘志を秘めた眼を向けてこういった。
「──全員潰れてもいいのかー?」
圧倒されるほどの威圧感のあるその言葉に、責任者は思わず息を呑む。それは彼女の真意を問う意味と、それを了承してなお覚悟があるのかを確認するもの。
責任者はそれに臆することなく返答する。
「ええ、構わないわ。やってちょうだい」
凱旋道場はこの日、実に数年ぶりとなる地区大会への選手輩出をすることとなった。
◆──天王寺道場──◆
古い看板が掛けられた道場に駒音は響かない。
かつて無難なアマチュア向けの道場として賑わっていたとされる天王寺道場は、今や閑古鳥が鳴くほどのカラッとした道場に成り果てていた。
そして、そこにいるのは先生と生徒の二人のみ。
先生と呼ばれているのは、この道場の後継人である天王寺魁人。そして生徒は、最近入って来たばかりの柚希凪咲という少女ただ一人だった。
二人は対局をする様子もなく、それぞれの紙媒体を見つめていた。
魁人はいつも通り各地区の大会結果が載った紙を見ていると、黄龍戦の項目に目が留まり興味を示す。
「ほう……面白い事になってんな」
「先生? どうかしたんですか?」
「いや、こっちの話だ。それより凪咲、いい加減覚えたか?」
「あはは……ごめんなさい先生。まだ全然……でも必ず覚えてみせます!」
そう言って、生徒である凪咲はそれまで読んでいた本を手に取って再び読み始める。
指導どころか対局すら行われないその道場に有意義性など皆無なように感じるが、凪咲の周りにはその不安を払拭するほどの膨大な本の山が積み上げられていた。
「そうか、まぁ気長にやれ。なんせ定跡書240冊の丸暗記だ、俺でも1週間はかかったからな」
「さすがです……今70冊覚えたところなので、早めに全部覚えられるよう頑張ります!」
この道場でもまた、一人の怪物が生まれようとしていた。
◇◇◇
以前まではゴミ屋敷寸前となっていた部屋も、今ではすっかり片付いて過ごしやすい空間になっている。
いつからだったか、俺はすっかり麗奈との共同生活に慣れ親しんでしまった。
鈴木会長に連れてこられた時は何事かと思ったが、そのあと麗奈を弟子に取れと言われた時は腰を抜かしそうになったのを覚えている。
乞い乞われ、教え教えられの師弟関係。そんな互いが目指すべきは空の頂。
今ではこうして、毎日将棋を指すのも当たり前の日常だ。
そんな俺達は、今日も部屋の中央に置かれた1つの駒台を挟んで正座をする。
「私達は無事に黄龍戦の地区大会を優勝して、この地区のトップに君臨したわ」
黄龍戦の地区大会で優勝したのは3名。聖夜、麗奈、そして俺だ。
この結果に不満は無い、どんな形式であれ優勝は優勝だ。
「でもそれじゃつまらないじゃない」
麗奈はそれを鼻で笑って一蹴した。
勝者は常にただ一人、そして勝つべき相手は目の前にいる──。
膝下には扇子、横には麦茶。まるで真剣勝負を始めるような状態で麗奈は告げた。
「座るべき椅子はひとつでいいと思わない?」
「ごもっとも」
互いに駒を並べて時計を設置する。
準備万端、調子は絶好調。大会でもないその対局に望む姿勢はまさに本番さながらの目付きだ。
そう、これから始まるのは本当の決勝戦──エキシビションマッチ。
本当にこの地区で一番強いのは誰なのか、それを決める対局だ。
聖夜も誘ったが、最初こそ参加したそうな雰囲気を出してはいたものの、これから県でぶつかる相手に無駄な情報を渡したくないと断られた。
なのでアイツは不戦敗だ。
「……懐かしいな」
「ええ」
互いに駒を並べ終えると、麗奈は自分と俺の駒を動かして戦型をいじり出した。
「私達の対局はこの戦法から始まったのよ」
組み上げられた戦型に、俺は思わず笑みを零す。
その戦型の名は──もう言葉にする必要はないだろう。
「悪いが、そんなハンデを貰っても俺は手加減しないぞ」
「当り前よ、むしろ手を抜いたら怒るわよ。私だってただ指をくわえて見てたわけじゃない。今の私なら師匠の横歩取りにだって勝てるわ」
本当かよとツッコみたくなる気持ちをすぐに抑える。
何故なら、それを本当に可能にされる怖さを俺はよく知っているからだ。
かつては一方的に負け、一方的に勝った相手。
互いに一勝一敗を残したまま、あれから研究以外で真剣勝負をしたことはない。
相手は麗奈だ。例え横歩取りと言えど、これだけ一緒に対局していればもう俺の手は全て見切られているようなものだろう。
だが成長したのは俺も同じだ。
紛い物の手は指さない。古び忘れていった知識も、今では鮮明に思い出せる。
払拭したトラウマを背に、俺は今ここで自分の将棋を指しているんだ。
「分かったよ、本気で指してやる。本当に容赦しないからな」
「上等よ。『竜の横歩』見せてもらうわ」
互いに火花を散らして視線を交わす、不可能への証明はまだ始まったばかりだ。
今後続く県大会へ、そして目指すべきプロ棋士の道へ。越えるべき壁は数えきれないほど用意されている。
だがそれでいいんだ。最初から乗り越えられる壁を前にしていたら、きっと俺達はここまで強くなっていない。
絶対に無理で、不可能で、越えられないとされてきた壁を前にしたからこそ限界を越えられたんだ。
だからこれからも挑み続ける。決して歩みを止めずに、頂点のふもとまで。
そのためにも、まずは目の前の戦いに勝つ──!
俺達は互いに頭を下げ、対局の合図を鳴らした。
「「お願いします──!」」
これにて『急襲・昇竜編』は完結となります!
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