第七十五手「零れた涙。勝ったのは──」
対局開始から50分、黄龍戦もいよいよ終わりが見え始める。
決勝戦を見守る観戦者達は次第に増えていき、気づけば会場を埋め尽くすほどに人だかりができていた。
熱戦は静寂を共にするかのように駒音だけが小さく響く、それ以外の騒音は一切しない。
それはまるで嵐の中の静けさであったと、後の観戦記者は語った──。
思えばこの戦いの始まりは『横歩取り』からだった。
互いに策を読み切るため、手を変え、罠を仕掛け、機会を窺った。やがて戦型は『相横歩取り』という超急戦に移り変わり、互いの研究をぶつけ合う将棋に変化した。
そこで川内副会長の根底にある策を理解した俺は、自分が今まで記憶にしか頼っていないことに気づいた。
このままではいけない。そう思った俺は思い出すという行為をなるべくしないよう意識して、今の自分が出来得る限りの思考で川内副会長を打倒することを目指した。
──だがそれもまた間違いだった。
局面は終盤戦、決着は目前に迫っている。そんな状況下でひとつを尖らせただけじゃ、矛先が折れるのは当たりまえだ。
完璧な精度の読みを繰り返す思考には限度がある。振り返れば、これほど愚鈍な浅慮を持つ男もまぁいないだろう。
考えるだけで勝てるほどこの勝負は簡単じゃなかった、思い出すだけで勝てるほどこの人は隙を見せてくれなかった。
ならばすべきことは何か。──それはどちらも、両方だ。
思い出しながら考える、記憶と読みの両方を頼らないとこの対局は勝てないんだ。どちらか一方じゃない、どちらも全力で力を注がなくちゃダメなんだ。
だから、両方だ。思い出し、考えろ。考えて、思いだせ──!
答えは常に複雑で、単純じゃなくて、解くのに時間が掛かるものなんだ。
だから俺は、今の俺が持つ力の全てを使わなくちゃいけない。
それを躊躇った先に望む結果は絶対についてこない。
凡人が天才を打ち負かすのに、僅かでも余力を残している暇があるのか。
──あるわけがない!!
▲4五桂打。
俺は咄嵯に持ち駒にある桂馬を掴んで、盤上に叩きつけた。
残り時間は1秒。時間ギリギリ、僅か数秒間で考え抜いた手が放たれる。
「くっ……痛いところをついてくるのだね……!」
△3四金打。
川内副会長は変わらずノータイムで切り返してくる。
時間攻めは容赦なくこちらの思考を奪っていく、だがそれは川内副会長だって考える時間を残していないのと同じ。
向こうだって必死だ、勝つために必死なんだ。だったら行くしかない。躊躇うな、勝負はここだ──!
▲3一と。
「来たかね……!」
ここまでずっと温めていた勝負手をついに放つ。この手を指すということは、もう向こうに手番を渡さないと宣言しているのと同じだ。
こちらの攻めが止まったらその瞬間に負けが確定する。
手を緩めるな、一瞬たりとも攻めを緩めるな──。
△同金。
▲2六桂打。
敵の角と龍の利きがある二つの中心に打つ焦点の桂だ。通常の焦点の歩と違って、この桂馬は相手の3四の金を狙っている。その金を取った際には同時に王手だ、これ以上の手はない。
そして、この桂馬を角で取ろうものなら▲同銀で3六の歩から手順に逃げられる。しかも角筋が守りから消えて一気に寄せ形だ。
──10秒。1、2、3、4──
「……っ!」
ついに川内副会長が時間に追われはじめた。
ここまでほとんどノータイムで切り返し、残り10秒を読み上げられることはなかった川内副会長。その額には拭いきれないほどの汗と気迫が篭っている。
戦いを始める前は、てっきりこちらの実力を試すつもりでいるのかと思っていたけど、おもいっきり全力で潰しにかかってくるじゃないか。
まぁそうじゃなくちゃ、決勝なんて言えないよな……!
△4五金。
「──!」
迷いに迷った挙句川内副会長が選んだ手は、手順に桂馬を外す堅実な一手。
だがそれは緩手だ、隙が見えた──ッ。
▲3四桂打。
動いた金の足元に桂馬を打ち付ける。金は斜めに誘うもの、なぜなら斜めに動いてしまえば元の位置に利きが無くなる、そうなればそこに桂馬を打つ隙が生まれる──!
「ぐっ……!?」
1枚、2枚、3枚。持っていた3枚の桂馬を全て使い、猛攻の攻めを仕掛ける。
既に盤面は寄り形、混沌とした戦場に思考が鈍り目まぐるしくなっている。
よく考えろ、勝利は目前だ。そして勝つための道筋は絶対に読める範疇にある。
△3二玉。
「ふぅ……ッ!」
苦悩と奮闘。勝利への渇望を諦めない川内副会長の執念が伝わってくる。
だがその気持ちは俺も同じだ、ここで諦めたら一生後悔することになる。
だから絶対に勝利は譲らない──!!
▲2三銀打。
もう持ち駒はない。
盤上にあるいつでも取れる駒──質駒を計算に入れて、ギリギリの状態で攻め続けるしかない。
△同玉。
▲3一飛成。
これで寄せ、チェックメイトだ──。
△2四玉。
「──!? そんな手が……ッ」
思わず口から言葉が漏れる。
絶対に追い詰めたと思っていたのに、玉を逃げる一手で攻める手が全て瓦解した。
この寄せ形、土壇場の盤面で正確な一手を繰り出す度胸、一体どういう思考してるんだよ……!
「はぁ、はぁ……何を……勝機を見出したような顔をしているのかね。私は、勝つと言ったはずだ──ッ!」
川内副会長は肩で息をしながら、それでもなお勝ち筋を見失っていない瞳でこちらを睨みつけてくる。
まだ勝負は終わっていない。彼が諦めない限りどこまでも追いすがってくる。
対する俺の方はもう疲労が限界だ。
「はぁ、はぁ……」
ああもう、本当に最初から最後まで川内副会長の読みを間違える!
こんなことなら相入玉を受け入れて最善手を指していればよかった!
「くっ……」
だけど、こうなることもどうせ川内副会長の想定通りなんだろう。だったらそれを突き破るまでだ。
張り巡らされた罠の中で後悔したって意味がない、今はただ勝つことだけに集中しろ……!
▲4二桂成。
盤上の駒を活用し包囲網を完成させる。
王将の逃げ道を完全に塞いだ上で、寄せの形を再構築していく。
△3三角打。
だが、それでもなお川内副会長の執念は緩まない。意地でも負けたくないという強い意思を感じる。
ここまで追い詰められても、その気迫は微塵も揺らいでいなかった。
いや、果たして俺は追い詰めているのか。
形勢なんてもう全く分からない、30秒という短時間で盤面を整合するほど余裕なんてない。
ただ自分を信じて指す、それだけしかないんだ──。
▲3四金打。
△2五玉。
よく考えろ、先が読めなくても短い時間で一つずつ穴を埋めて行って手を読め。
ここで▲3三金はダメだ。△3七歩成とされる隙を生み出してしまう。▲同銀に△3九龍で王手銀取りを仕掛けられたら川内副会長の玉はもう捕まらない、入玉される。
緩手は絶対に指せない、ひとつでも向こうに手番を渡したらおしまいなんだ。
だったら──!
▲3三龍。
さっき作ったばかりの龍を思い切って捨てに行く。
「なにッ……?」
局面は大混沌、何が何やらもうわけが分からない。
それでも俺は限られた時間の中で限界まで思考を巡らせる。
ギリギリで読み切ったこの手には多少の躊躇いがあった。だけど今攻めるなら大駒に構っている余裕なんて無い、勝つためなら大駒だろうが龍だろうが全部くれやる!
「……いや、それは悪手だろう! 攻守交替なのだよッ!」
△同角。
川内副会長は自信気に龍を取る。
持ち駒の差は歴然、こちらの持ち駒は常に1個あるかないかの瀬戸際だ。
だが待っていた、その手を──!
▲1六角打。
残りの角1枚を使って縛りの一手を放つ。
「ッ──!?」
もう持ち駒は無い、だが川内副会長の玉は完全に逃げ場を失っている。
そうだ、この局面だ。最後の集中力が切れる直前に見えた景色──。
正しい手なのかどうかなんて知ったことじゃない、勝てばいいんだ。そして俺は今確かにその勝つための局面を作り上げている。
緊張が限界を迎えているせいか、自分が何を感じているのかもよく分からない。右手が震え、心臓の鼓動はもの凄いスピードで体を打ち付ける。
額から滲む汗を拭き取る余裕すら、今の俺にはなかった。
(……恐ろしいほど見事な胆力なのだよ、だが読みの基本は3手だ! 果たして君はその3手目に何を見つけたのかね!?)
△1五玉。
川内副会長はノータイムで玉を逃がす。
当然の一手、託された手番は勝敗のカギを握るもの。
だが俺はその3手目に絶対的な自信を持っているわけではなかった。
「……っ」
ここでの長考、勢いが無くなる手の攻防。
マズいんじゃないかと言わんばかりの視線が背中に集まっているのを感じる。
既に時計は10秒を切った。もう時間が無い、時間が──。
──盤上へ向けて不意に伸ばした手を、すぐに引っ込める。
まだだ、まだ落ち着け、ギリギリまで考えろ。
こんな難局、何回もやってきたじゃないか。麗奈から渡された詰将棋の本で幾度も解いてきたじゃないか。
あの時の、詰将棋の感覚を思い出せ。思い出したら即考えろ!
「──!」
──緩手。そこに光明が見えた。
いつしか願った盤上の宝、客観の先にある第三の視点。
俺は今、盤上を『上』から見ることができている──!
▲5二成桂。
単純明快な駒の補充。
金を取った俺の手に、周りの観戦者はそうじゃないと首を振る。
「その手は緩手じゃないのかね……! 私の答えを教えよう!」
△2五歩打。
上級者による歩の手裏剣が戦場の中央に投げつけられる。
完全な封殺。混沌とした盤上で、川内副会長の駒は俺の攻め駒を全て受け流しているのが分かる。
これはもうダメだ、そんな声が聞こえてきたりもした。
「すー……はぁ、はぁ……」
乱れるような深呼吸をしつつ、息を整える。
それでも収まらない鼓動の高鳴りに、俺は少しだけ笑みを零した。
見てくれているか、麗奈──。
これが、今の俺の考え得る限りの最後の勝負手だ。
地区大会すら勝てない男というレッテル、剥がしにいくぞ。
▲2七角。
「……はっ?」
観戦者の一人から、空気の抜けたような声が響いた。
驚愕は理解への過程。
1秒経てば手に驚き、2秒経てば疑問を浮かべ、3秒経てば理解する。そして4秒後に再び驚きの声が上がった。
敵の龍の利きが思いっきりある場所へ角を引く一手。バカとも思えるその一手に、俺はこの時初めて川内副会長に鋭い視線を送った。
取れるものなら、取ってみろ──!
「取ったら即詰み……そのくらいは5秒あれば読める、しかしこの短時間でなんという……」
この手に△同龍と角を取ってしまうと▲1六金打から即詰みだ。だが取れないとなると、この手はまごうことなき『必至』の手だ。
川内副会長の駒はこちらの駒の利きを全て防いでいる、持ち駒に金があっても打ちようが無かった。
だから角を引くことによって、1六の地点に新たな空間を生み出した。
この空間に俺の駒は2七角と1七歩の2枚利いている。対する川内副会長の駒は玉しか利いていない。戦場に大穴を開けての背水の陣だ。
俺は全てを投げ打つ覚悟があるぞ、川内副会長……!
「くっ、だが、だが私はッ! それでも勝ちにいくのだよ……ッ!!」
△2六歩。
その手に再び周りがざわつく。
逃げ場がなければ作ればいい、川内副会長もまた俺の手を倣って空間を作る一手を放つ。
完璧な模倣、人間とは思えない成長の仕方。
だがどこまでいっても模倣は模倣、完璧に返すならそれ以上の手を指せばいい。
無理だって? 指せるさ、指したんだ……!
さっきの勝負手を、もう一度超える手を指せばいいだけだ──!
▲3六銀。
「俺は……絶対に負けない、負けられないんだ……ッ!!」
もはや突貫、空いた大穴に飛び込む勢いで混沌とした戦場を駆け抜ける。
「ぐっ……!?」
息も絶え絶え、思考は歪んだように正常を保っていない。
それでも俺は、二度と諦めないと決めたんだ。アンタから投了の宣言を引きずり出すまで、脳がはち切れても絶対に引くつもりはない。
こっちは例え地獄の果てまで追い回すことになったとしても、全力を賭して考え続ける覚悟があるぞ……!!
「一度見捨てた角を二度も見捨てるとは、しかもそれで最善の詰めろだというのかね……! ──天竜一輝君、君の強さはもう……!」
そこまで言いかけて、川内副会長は駒を掴む。
△同金。
強く意思の籠った駒の指し方は、彼なりの最後の威厳だったのかもしれない。
俺はこの金を▲同角と取ることなく、最後まで全力で手を指した。
▲1六金打。
途中、駒を打った指からは痺れを感じた。
今日だけで何手指したのだろう、人生で一番多く指した日かもしれない。
左手側にある時計を忘れずに叩き、自分の手を完了させる。
そして息を呑むほどの緊張感が会場を包み込むと、物音ひとつしない静寂が訪れた。
「……」
「……」
互いの執念がぶつかった一戦。
言葉はいらずとも、指し手で全てが通じ合った。
川内副会長は静かに頷くと、両手を膝につけて頭を下げた。
「負けました」
──投了。97手に及ぶ大激戦。
先手の持ち駒は歩のみという芸術的投了図、それが決勝戦の場で巻き起こった。
投了図以降は△1四玉に▲3六角で合い利かずとなり、2五の地点になにを打っても▲同角で詰みとなる。川内副会長はこの無駄な蛇足を省くため、芸術性の高い金打ちでの投了を選択したのだろう。
「あり、がとう……ございました……」
俺はボロボロになりながら挨拶を返す。いや、ボロボロと落ちてくるのは涙だったかもしれない。
酷い酩酊と脱力感が襲う。これ以上ないほどやり切ったという感覚が、身体中を駆け巡った。
そんな中後方から聞こえてきたのは、驚くほどの大きな歓声だった。
「おいおいおい嘘だろ……!」
「マジかよ! 勝ちやがった!」
「うおおおおっ!!」
「あの副会長に勝ったぞ!」
「よくぞ俺の仇を討ってくれた……予選で副会長に負けた俺の仇を……!」
こぞって俺の方に集まってくる観戦者達。10人も20人も……前が見えない。
パシャパシャとカメラ音が聞こえ、棋譜確認の係の人が割り込んできたりと俺の周りはてんやわんや状態。
だが俺はそんな観戦者達の中に紛れている麗奈を見つけると、彼女も荷が下りたようなホッとした顔でグッドサインを向けてきた。
俺も返すように親指を立てて麗奈に向ける。
熱戦の対局も相まって、会場はいつになく大盛り上がりを見せていた。
「黄龍戦、Aグループ優勝者は、天竜一輝さんです! おめでとうございます、大きな拍手を! そして、これにて黄龍戦地区大会を終了いたします──!!」




