第七十四手「とめどなき思考の果てへ」
死闘の鐘は互いの持ち時間が無くなったことで確かに鳴り響く。
その堅実さからは一転、猛追するように攻めてくる川内副会長の手を俺は必死に読み解いた。
「っ……」
受けたい、受け切りたい。だがここで防御に回れば永遠に手番を握られてしまう。かといって攻めに転じれるほど俺の玉は安泰じゃない。居玉、初形から全く動いてない王様に防御力などあるわけがない。
そして向こうの駒台には角がある。居玉相手に大駒を持たれた状態、1手でも間違えれば即詰みだってありえる局面だ。
だけど、それでも絶対に、この試合だけは負けられない。
▲1五角打。
何度も時間を確認しながら攻防手の一手を放つ。
時間ギリギリだったとはいえ、絶妙手を指せた。この手には自信がある。
相手に王手をかけながら自陣を守る一手、これで手番はこちらのものだ。
△2四銀打。
だが、その手を読んでいたとばかりに副会長は盤上に銀を強く打ち付ける。
「当然か……っ」
飛車の利きを活かして、こちらの角に銀を強引にぶつけてきた。
こちらが王手をかけて手番を握ろうとした展開から更に一転、今度は向こうが手番を握ろうとしている状態だ。
だがここで引いたら本末転倒、攻めの手を緩めるわけにはいかないんだ。
そのためなら大駒なんていくらでもくれてやる──!
▲同角。
△同飛成。
「なんつー戦いだよ……」
「あ、ああ……」
激しい駒の切り合いに局面はめまぐるしく変わっていく。
俺は角銀交換を経てようやく手番を握れた。手順に龍を作られてしまったが、川内副会長の猛攻を凌いだ対価としてはまだイーブンだ。
決して緩めない手の攻防に、確かな手ごたえを感じ始める。
だが、それでも形勢がこちらに傾いているわけじゃない、まだ向こうの3六の桂馬が生きている。あの桂馬がこちらの金取りを狙っている以上、攻めるにも勇気がいる……。
手番は握れても、そこまで攻守は変わっていない。いや、だからこそ川内副会長はこの展開を受け入れたのか……?
ダメだ、考えるべきはそこじゃない! 読め、読むんだ……!
先を、遥か先を、相手の思考が届かない先まで──ッ!
「──っ!」
▲2一歩成。
時間ギリギリのところで歩を成って時計を叩く。色々と考えた結果、俺は攻める手を選択した。
相手の桂馬は確かにこちらの急所を狙ってる、だけど俺の居玉は広い。なまじ守っている味方の駒が少ない分、逃げる場所が広くなっている。そしてそれは同時に常に危険な場所にいることを指しているが、今の俺なら大丈夫……きっと、いや絶対に読み切れる……!
△4八桂成。
「……ッ」
やっぱり指してきたか──。落ち着け、ここですぐに即応するな、十分に考えて時間を使ってから指すんだ。
▲同銀。
30秒ある時間をギリギリまで使って指し返す。
しかしその意図をすぐさま理解した川内副会長は、今度はノータイムで切り返してきた。
△2九龍。
考える素振りも見せずに、川内副会長は龍を入って王手を仕掛けてきた。
その姿勢に俺は思わず唇を噛む。
これは時間攻めだ、俺が川内副会長の考える時間を使って考えるのを防いできた。つまりこちらの思惑が一瞬で看破されたんだ……。
10秒。1、2、3、4、5──
時計が秒読みの合図を始める。
いつもより早く感じる時間の経過に、俺は苦肉の表情を浮かべながらもギリギリまで時間を使い応戦する。
▲3九歩打。
△1五角打。
「早い──!」
「副会長、完全に時間攻めにシフトしてるな……!」
即指し即応、川内副会長の無慈悲な早指しがこちらの思考を叩き潰す。
ダメだ、時間を必要としている行為がバレてから川内副会長のノータイム指しが止まらない。しかも一切間違えてこない。なんだよ△1五角打って、さっき俺が指した攻防手の手じゃないか……!
こっちの手を糧にしながら同類の手を指し返してくるとか、戦いながら成長するバケモノかよ……っ!!
それに、さっきから一手一手の威力が桁違いすぎる。
まるで人が変わったかのように攻め一転、子供が指すような無邪気な攻め将棋そのもの。それをこれだけ研鑽の積んだ大人が指してくるなんて、恐怖でしかない。
「っ……!」
それでも俺は、際限なく加速し続ける思考を頼りに何とか先を読み続ける。脳内の読み合いで、川内副会長の思考の全てが浮かんでくる。
自分の加速した読みも相まって、そこには見たこともない世界が視界に映っていた。
時間を一瞥、残り8秒。限られた時間の中で読み切れ……!
読みの果て、浮き上がる候補手。普段では感じることのできない大局観が、錯覚でも起こすかのように見えてくる。
ここでの一手はなんだ? どの手が正解だ?
▲2六歩と焦点に打って同角で利きをずらすか? いや、▲2六歩は間違ってはいないが緩手だ。この終盤にそんなぬるい手を指したら川内副会長は絶対に咎めてくる、今のこの人は絶対に見逃してくれない。
ならいっそ大胆に攻めてみるか? いや、向こうの駒台には俺から奪った大駒の角がある。下手に手を渡したら龍の利きを戻されて、こちらの玉形が簡単に詰んでしまう危険性が高い。
なら、なら──!
▲3七銀打。
「──ッ」
再び時間ギリギリで時計を叩く。
押した指先は疑いが込めらたかのように震え出す。動いてもいないのに息が上がる、重荷を背負いながら戦っている感覚がする。
でもなんとか手は読めた、読めたはずだ。
手筋も攻め手も絡め手も効かない、ならここは普通に守る凡手こそ最善──。
「ほう……」
後方で鈴木会長が関心の声を漏らす。
考え得る選択肢を全て読んだ上で、その手を捨てた。ならば残った凡手こそが正解。そう思って指した一手に、川内副会長のノータイム指しがついに止まる。
(▲2六歩を指してくると思っていたが、自力で罠だと気づいたのかね? いやはや、ここまで楽しませてくれるとは流石なのだよ天竜一輝君……!)
△3六歩打。
「くっ……!」
しかしながら、激痛の一手が川内副会長から繰り出された。
手筋一発、叩きの歩。
その手に俺は苦しい表情を浮かべる。
「……っ」
ひとつずつ考えろ、手は限られている──。
この歩はこちらの銀の位置をどかすために打ったものだ。つまり▲同銀とこの歩を取っては、向こうの術中に嵌る。
しかしこの歩を放っておけば次にタダで銀を取られ、と金を作られてしまう。向こうの角も龍もこちらの玉を睨んでいる状態で、そんなことになったら絶命だ。
取ることも、放置することも許されない。つまりこの歩もまた無敵の歩だ。
俺が指した好手を踏襲するかのように、川内副会長から似たような手が飛んでくる。
この人は何者なんだ、俺は本当に人間と戦っているのか……?
だが、どのみちこの歩を取れないなら攻めに転じるしか道は残されていない。
落ち着け、時間はまだある。攻める手を考えろ、攻める手を──。
攻める、攻め──。攻めの手、攻めの手……。
持ち駒、桂馬……。桂馬だけ……。桂馬、だけ……?
いや、まて。これだけで、桂馬だけでどうやって、攻めればいいんだ?
え? あれ? えっ、な、なんだ……? この感覚……?
「……あ……?」
まさか、俺……ここにきて読みを外したのか……?
「あ、あ……?」
口から思わず声が漏れる。
いや、おかしい、おかしいだろ……。そうだ、おかしい。俺の読みは間違っていない。さっき指した凡手はただの凡手じゃない、間違いなく最善の一手だ。
なら今の俺は何を考えているんだ……? 次の一手はどう指すんだ……?
「師匠、まさか……」
「ああ、限界だね」
思わず頭を落とし、これまでの思考を高速で整理する。
理性で考える手と、それを上回る加速した脳内で掴み取った手が食い違ってる。
何かがプツンと途切れ、疲労がどっと押し寄せてくる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
感覚ではそれで正解だったはずなのに、今になって考えている部分と"齟齬"が生まれ始めている。
これはなんだ? 何が起きてるんだ?
いや、違う。これ、見えなくなってるのか……?
「くっ……!」
すぐさま時計を一瞥して残り時間を確認する。
残り24秒、まだ6秒しか経ってない。だけど思考そのものの加速が止まってる。
ここにきて集中力の限界が来たんだ。今の俺の、実力の限界が……。
「ここまできて……俺は……っ」
これ以上はあの世界に入れない。ここからはもう、残りかすのような力で先を読んでいくしかないんだ。
「ぐぁっ……!」
そう自覚した途端、今まで感じてこなかった疲労が波のように襲い掛かる。頭がズキズキと痛みだし、動いてもいないのに息が乱れる。少しでもいいから思考を休ませたい。だけど時間は許してくれない、30秒の中で次の一手を繰り出す必要がある。
きつい、苦しい、考えるのをやめたい。だけど、それでも考えろ……!
もう諦めないって決めたんだ、どんな状況になっても諦めないって誓ったんだ。
読むんだ、残った力をふり絞って、無理やりにでも読め──!!
「──ッ!!」
持ち駒は桂馬だけ、単体じゃ攻めるにも守るにも向かない中途半端な小駒だ。歩は5枚も持っているが打てる筋がほとんどない、使うことはもうないはずだ。
盤上にある駒を動かすなら▲3一とがあるが、これもダメだ。相手に一歩でも渡せば、△6一歩打から▲同龍に△5一金打という鉄壁の守りを作らせる策が生まれる。
▲3一とを指す状態は、向こうを明確に詰ます寄せ手があった場合のみ。つまりこの手は勝負手として残しておく必要がある。
残るは▲6八玉のような玉を逃がす手。"王の早逃げ八手の得"という格言があり、攻められている時に前もって玉を早逃げする手は結果的に得することが多い。
だけどここで玉を逃がすということは、ここまでの戦いを放棄して自ら劣勢を受け入れるということになる。それは最善の思考じゃない、プロの指す手じゃない。
ここは明確な手を指す必要があるんだ。
「はぁ、はぁ……っ」
──10秒。1、2、3──
チェスクロックの音声が死の宣告を始める。9、8、7と表示される時間の刻みは無情に一定に行われていく。
10秒切ったか、まずい……。
守るにも攻めるにも手が浮かばない、ろくな駒が無い。無理に思考をフル回転させているせいで息が苦しい、視界が歪む。
ふと目をやる駒台、そこの持ち駒にある桂馬たちが笑っているように見える。今の俺の武器はこれだけしかない。
一体、桂馬だけでどうしろってんだよ……!
「…………桂馬、だけ」
考えていた思考が一瞬止まる。
先の失敗を取り戻すため、思い出すという行為を封じてきた記憶の片隅から、僅かな木霊が聞こえてきた。
待ちわびていたように押しける記憶の残滓、その欠片から生まれた言葉が脳裏を過った。
鮮明な記憶、いつぞやの特訓をしていた時の──。
『ねぇ、師匠って格言いくつ覚えてる?』
『将棋の格言か? 王の早逃げ八手の得とかの? うーん、10個くらいかな』
『少ないわね……私は一応全部覚えてるわ』
『凄いな、でもそれって覚えることに意味あるのか?』
『当然よ、大いにあると思うわ。格言と言うからには的を射てるし、知っておくことで盤上にも活かせるのよ。ほら、色々書いてあるから読んでみて』
そう言って麗奈は格言をまとめた本を渡してきた。
見聞が足りないと自覚していた俺は、麗奈の言う通りにその本を手に取ってまじまじと読み始めた。そこには本当に知らない、聞いたこともない格言が沢山載っていた。
中でも目に留まったのは、将棋の勝敗を決める"詰み"に関する格言だった。
『"三桂あって詰まぬ事なし"……? そうなのか?』
『時と場合によるけどね。桂馬は将棋の駒の中でも唯一マス目を飛び越えて攻撃出来るでしょ? 王手をする際に、その飛び越えるという駒の効力が意外と大きいのよ。だから3つもあれば大体詰みの形が生まれるってよく言われてるわ』
『へぇ~そうなのか……』
他の格言は結構スッと入ってくるのに、これだけは少し懐疑的だった。
まぁどのみち、終盤にそんな都合よく桂馬が3つも残るなんてありえないだろう。そもそも終盤は金や銀が活躍する将棋だ、桂馬だけを駒台に残すなんてそんなプロみたいな技を今の俺が出来るとも思えない。
一応覚えるだけ覚えておくか……。
────今、俺の駒台に何がある?




