第七十三手「消えた灯に火を」
「……かっけぇ!!」
生まれて初めてテレビに向かって声を上げた。
放送されていたのは、陸上競技や派手な職業の映像などではない。なんの花もなく、ただ静かに駒を動かす棋士たちの風景。
正座をしたままじっと考え込む姿、10分経っても変わり映えしない画面。そしてやっと動いたかと思えば駒を1つ前に進ませただけ。
そんな映像のどこに歓喜する要素があったのか。
「オレなんかじゃ思いもつかない一手をこんな短時間で……やっぱりプロ棋士ってすげぇ!」
私は画面に張り付くようにその映像を見続けた。
川内正信として生を受けて早十五年。当時まだ中学生だった私には、趣味という趣味がひとつもなかった。
運動はどうも得意ではない。ゲームは時折手を出すが、攻略を見つけるとすぐに飽きてしまう。知力比べでは自信があったものの、学業とは相性が悪く成績は平均的なものだった。
そんな時、私は偶然にも家の古い戸棚にしまわれていた将棋盤を見つけた。
箱の中に付属されていた説明書を一通り読み漁り、将棋のルールを理解する。中々に幅広い戦略性があると思うも、すぐに落とし穴に気づき攻略を組み立てた。
そして後日、クラスで将棋が出来るという生徒を誘って何度か対戦した。
結果は全勝という呆気ない幕切れだった。
作戦は簡単。開幕から飛車先をひたすらついて、そのまま攻めていけば角を取れるというものだった。無理攻めにも思えるその手も、受け方が分からない初心者の域では当然のように通用した。
だが当時の私は見識が狭かった。ボードゲームと言ってもこんなものかと、自分の世界で結論付けようとしてしまっていた。
ある日、私の眼に映り込んだのは、遥か高みの世界だった。
たまたまテレビで放送していた将棋番組を前に、私は手に持っていた将棋の駒箱をその場に落とした。
何手も先を見据える読み合い、一手も間違わない正確性、裏技のような手を連発する妙手。自分が今まで考えていた策略が如何に幼稚な領域であったか、そんな次元の違いを突きつける真実を目の当たりにした。
悔しかった、驚いた。だがそれ以上に──興奮した。こんな世界があったのだと、期待に胸を膨らませた。
それはまるで未知を知る賢者、未来を楽しむ人生の謳歌地点だ。
自分が得意だと思っていた分野に、まだ埋めるべきピースが残っている。この世界は自分が思っているよりも遥かに広かったのだと、その年になって初めて理解したのだ。
それから私の人生は将棋一本へと変わった。
来る日も来る日も将棋ばかり。当時はまだAIの技術が進んでおらず、自室にこもりっきりでひたすら自分なりの戦法を編み出していた。
また、近所で定期的に開かれる大会にも積極的に参加した。そしてその度に天才が身近にいる嬉しさを感じ取れて、私もまたその天才達を負かしたいと奮起した。
そしていつかは自分も彼らのようなプロになるんだと──。
そう夢見た学生時代は、奨励会試験の不合格通知と共に幕を閉じた。
あまりにも呆気ない幕切れだった。
夢は夢、楽しんで進んでいけるほどの将棋の道は甘くなかった。
高みを目指す彼らの眼は笑ってなどいなかった、本当に楽しく将棋を指しているのかすら謎だった。
大雨が降る道端を傘もささずに歩く。
二次試験まである奨励会の一次試験すら突破できなかったショックが、8月の雨と共に落ち続ける。
自分はいったい、何のためにここまで頑張って来たのだろうか。そんな後悔ばかりが募っていった。
それから私の将棋への熱意は冷めたのか、再熱したのかよく分からない日々を続けた。
適当な会社に入っては業務をし、余った休日をどう過ごすかも分からず近場の将棋大会へ顔を見せる。30を過ぎれば無駄な経験ばかりが身につき、その頃はよく全国大会まで足を運んでいた。
しかし時代が進めば進むほど子供達のレベルが格段に上がり始め、ついには県大会を勝つことさえままならなくなった。
今思い返せば、私の時代が一番プロになれる可能性があったのかもしれない。
だがその養成機関である奨励会にすら入ることが出来なかった、それほどまでに将棋と言う世界の高見は遠いものだった。
やがてその腕を見込まれて大会役員のポジションを得るも、結局は自分の立つ瀬がないために逃げたようなものだ。
ついには子供達に教える側になり、自分の夢はいつしか託す側へと変わっていってしまった。
ああ、現実というのは残酷だ。
私に宿っていたはずの将棋に対する熱い思いも、今や完全に鎮火してしまった。何のために将棋を指しているかなんて、それこそ考えるだけで嫌気が差す。
あの時テレビに映るプロを見ていた時のような鼓動の高鳴りは、今の老体ではもう得られないのだろうか。
◇◇◇
「バカな……こんな手が……」
目の前の青年が指した手を見て、私は自分の策略を根底から覆された感覚を覚える。絶対に勝つと思っていた感情に亀裂が走る。
それは、いつの日か感じたあの緊張感だった。
「…………」
ドキドキしている。ワクワクしている。
鼓動の高鳴りが、緊張の感性が、不安と期待の入り混じった感情が老体の体を打ち付ける。
「……はははっ」
目の前に座しているのは、対局を始めた頃のありふれた青年ではない。異様な雰囲気を漂わせたその眼に『慧眼』を越えた何かが映り込んでいる。
幾年ぶりの体験か、まさかまた味わえることになるとは。
「感謝するよ、天竜一輝君。お礼に私から最高の手を──」
眼鏡を外し、少しだけ前に垂れた髪をかき上げる。
今なら出来る気がする。高みへ手を伸ばせなかったあの頃の後悔を払拭する手が、指せる気がする。
目の前にいる"格上"に挑戦状を──。
「叩きつけようッ……!」
△3七角成。
▲4八銀打。
その手を既に読み切っていた天竜はノータイムで切り返す。
「──」
完全に世界の果てへと入り込んでいる、彼の意識は人の持つ思考の外側だ。
だがそれは、こちらも同じことなのだよ──!
△同馬。
「……!」
「副会長、大駒を切ったぞ……!」
周りからどよめきの声が上がる。
ここまで常に完璧な体制を貫いてきた私が、大駒を切るような大胆な手を指した。
普段なら絶対に指さない手、今までもこんな手を指したことはなかった。
だが、そんな私の考えを根底から崩した存在が目の前にいるではないか──。彼は先程馬を切った。そして飛車を降ろすことで駒得よりも攻めの速さ、手番を勝ち取った。
今の私に必要なのは駒の損得よりも手番だ、ならば彼を倣って真似ればいい!
▲同金。
△2九飛打。
彼と同じように、馬を切ってから飛車を叩き下ろす。守り駒が周辺にあっても巧みに挟撃されている私の玉と、無傷だが居玉で何も守り駒がない天竜の玉。
その差はほとんどないも同然、ただ行われるのはノーガードの殴り合い。
▲4九銀打。
時間ギリギリで指し返してくる天竜。その表情に余裕はない。余裕ないが彼の手の精度は更に上がっていく。
受ける際は安い駒というのが定跡。
しかし天竜は価値の低い桂馬でなく、価値の高い銀で受けてきた。完全に読み切って無ければ指せない一手だ。
奈落の上、鉄棒一本の足場を元に容赦ない殴り合いしている。一発でもまともに受ければ即死だ。
だが、だからこそ私も更に一歩深く踏み込ませてもらおう。
△3六桂打。
「どうかね──!」
「──ッ」
急所へ向けて桂馬を打ち込む。絶対に、手番は絶対に渡さない。
息をすることも忘れ、深い水底の世界から確かな一手を掴み取る。
ふと、かつての自分を思い出した。
夢破れ、平凡を選んでしまった過去の愚かな子供。
長く残された時間だけを無為に消費する毎日、もはや望むものは何もないと悟ってしまった人生。
それでもまだ、夢があった。
この年まで怠惰に生きてきた自分に高みを目指す資格は無い。
だが一度だけ、一度だけでいい。その高みに挑戦したかった。
手加減される指導将棋や、人間味のない手を指すAIからでは得られない、遥か高みの世界。
そんな相手に、全力を尽くして挑むことが夢だった──。
だからもう、こんな老体になった今ではその機会は訪れないと思っていた。後は余生を削りながら生きて行くだけの人生だと、どこかで諦めを抱いていた。
雑に袖をまくって全身の熱を逃がす。フル回転で思考し続ける意識に、もう周りの存在は映っていない。
目の前の盤面を頭の中で高速に動かし続ける。形勢は厳しいはずなのに、口元からは笑みが零れた。
あの頃の夢破れし我が身よ、見ているか。
私の夢は今──叶ったぞ。




