第七十二手「負けられない戦い」
対局開始から15分。最初こそ余裕を持って運んでいたはずの持ち時間も、今や危機を感じる域に入ってしまっている。
どう転ぶか誰にも分からない勝負に、川内副会長の明確な勝算は提示された。
「で、でも。副会長が本当にその7一飛って手を本筋の策としているのかは分からないっすよね? 」
「そりゃあな、俺は人の心なんて読めねぇし」
「じゃあオレ達が過剰に先を読んで考えているって可能性もあるわけじゃないっすか。なら──」
──パチンッ! 突然の指音が響く。
振り返ると、天竜が次の一手を指したようだった。
▲6三馬。
定跡を外した天竜の一手に、多少相横歩取りを知っている者達は驚きの声を上げた。
「は? なんで……」
苦し紛れに指した表情を見せる天竜に、先程の観戦者は懐疑的になる。
「なんでって、そりゃあ副会長がそうする可能性が1%でもあるからだろ。ここまでの"過程"を経て相手がそういう手を考えている可能性があるのなら、どんな理由があれ避けるのが鉄則だ。それを考えずに相手が指すか指さないかの選択に任せるのは勝負師じゃねぇ、ただの賭博師だ」
聖夜は真剣な眼差しで盤面を見つめる。その瞳はまるで、その先の行く末を見ているかのように火を灯していた
「相手の土俵には絶対に立たない、自らの土俵の中で勝ち負けを下す、それが勝負師ってモンだろうが」
その通りだと鈴木会長は頷く。勝負師は相手の土俵に立たない、相手の思惑には乗らない。相手の思うがままにされるということは、たとえ優勢でも望んではいけないことだからだ。
聖夜の言葉に、観戦者達は改めて思い知らされた。目の前で行われている対局が、如何に自分達とは格が違うのかということを。
ただその場の一手を考えるだけなら子供でもできる。だがその読みを連鎖させて、遥か先を読み切るのは至難の技。そしてそれは、互いに実力が近しくなけば実現できない達人の読み合いでもある。
棋力が低ければ読みは正当性を持たない、また自分より格下の相手にも不要な読みは必要ない。
天竜はここまでの過程を経て、目の前の相手が確実に自分より格上だと理解したからこそ、限界まで自分の読みを利かせて常識外の一手を放った。
そして相手もまたそのことを理解しているからこそ、その常識外の一手に応じることが出来る。
△5二銀打。
天竜が考えに考え抜いた一手を一蹴するように、副会長は即座に切り返す。
小さく悪魔的な笑みを浮かべて、自らの術中に嵌った獲物を仕留めるかのように。
(私の研究手を読み切り、定跡を外したところまでは良い読みだ。だが無駄なのだよ、この手も当然研究してある。──私はね、この変化に入った時点での研究を粗方終えているのだよ。……もうここから君の勝ち目はない)
天竜が放ったその一手も、川内副会長の策の内だった。
それに気づいた聖夜は舌打ちをかます。
「……あのバカ」
相手の狙いが定跡から外れることにあるのならば、川内副会長はそれを逆手にとって今度は最善手を指し続ければいい。定跡から外れるということはつまりは悪手、天竜の一手は表面上の先手優勢の差を一気に縮めた。
このまま定跡を指し続ければこちらの策に嵌る、定跡を外せば差は埋まり純粋な棋力勝負になる。どう転んでも天竜に勝ち目はない。
川内正信の策は──完璧だった。
「いやーそれにしても聖夜さん凄いっすね! 全部聖夜さんの読み通りじゃないっすか!」
「……それが気に入らねぇつってんだよ」
「聖夜、さん?」
将棋は相手の嫌がることをするのが定跡。最も自分に得となる手を指し、最も相手に損となる手を指させる。今天竜が押されているのは、ひとえに川内副会長がその鉄則を実行しているからだ、当然の結果だろう。
だが──。
「……それはテメェの得意戦法じゃねぇのかよ」
聖夜にとってこの戦いは重要ではない。
自分は既に優勝しており、県大会に行くことも決まっている。仮にこの大会で誰が優勝しようとも、県大会では全員敵同士、弱い相手が勝ちあがってくれた方が好都合なまである。
だが聖夜個人にとっては、この戦いは重要だった。
自分を負かしていった天竜が活躍するからこそ、その敗北に価値は生まれる。そしてそれを倒した時に初めて自分の強さを証明できる。
それを、相手が副会長だからといって『横歩取り』という最も得意な戦法で負けるなど論外。ましてやあれから確実に成長していると分かり切っているのに、そのまま負けて終わるなど許されるはずがない。
自分はそんな相手に負けたのではない、そんな凡人に下されたのではない。自分を打ち負かした天竜一輝とは、勝負師の眼を燃やした真剣の将棋指しだった。
そして、聖夜は大きく息を吸うと、周りに聞こえるくらいの声量で言い放った。
「な~にが横歩取り最強だぁ? がっかりな将棋見せやがって、俺はこんな腑抜けた奴に負けたのか? そりゃあ龍牙とかいうヤツに好き勝手言われるのもしょうがねぇよなぁ!?」
その言葉に会場はざわつく。今まで一度も口出しをしてこなかった聖夜の怒声に、天竜や副会長までもがこちらを振り向いて驚く。
同時に審査員の人が立ち上がって聖夜の方へと向かう。
「ちょっと君……!」
「まぁまぁ、助言ではないんですし多めに見ましょう」
「か、会長がそういうのなら……」
「聖夜君も、過度なヤジは出禁に繋がるから気を付けなさい」
会長の言葉に、聖夜は軽く舌打ちをして近くの椅子に座る。
聖夜の行動を意外そうに見つめていた麗奈から、ふと笑みが零れた。
「ふふっ」
「あぁ?」
「いや、なんでもないわ」
「チッ……」
聖夜は照れ隠しをするかのように顔を背ける。
だが、その表情はどこかやり切ったような満足感に溢れていた。
◇◇◇
──流れが変わった。
会場の雰囲気は変わっていない、局面も変わっていない、ましてや形勢が変わったわけでもない。
変わったのは、俺の心情だけだ。
聖夜の言葉で目が覚めた。今まで考えていたことが全部裏目に出ていたのは、そもそも考えていなかったからだ。
思い出そうと記憶を漁った、この局面でAIはどの手を推奨していたのかを必死に思い出そうとしていた。だけど、そんなものは過去の自分を踏襲しているだけじゃないのか。
定跡通り▲7二銀と指していれば勝てていたかもしれない戦いを、川内副会長の策が脳裏を過ぎって避けてしまった。だから▲6三馬と定跡を外して指した。相横歩取りの定跡書には▲6三馬の変化が載っているのを昔みたことがあるからと、昔のAIも確か推奨していたはずだと、そう自分を納得させて。
だからこの残り時間の間に、その手を思い出さなきゃいけないってずっと悩んでいた。
考えれば考えるほど嫌な記憶ばかりが蘇ってきて、いつまで経ってもあの頃の棋譜が思い出せない。それなのに俺は、思い出そうと必死になっていた。
俺はこの対局で、たった一度も"読む"という行為をしていなかったのだ。
▲7四馬。
凡手、そう見える一手に川内副会長は含み笑いを零す。
眼鏡を指先で軽く持ち上げ、目の前の愚かな青年に鉄槌を下すが如く哀れみの視線を向ける。
(せめて▲3六馬と自陣に引きつけて守りを固めれば、まだ勝負に持ち込めたというものを)
この変化になった時点で川内副会長に負けはない、勝ち筋しか残されていない。二人の間には絶対的な棋力差が存在しているのだから。
あとは目の前の青年に、どう決着をつけるかを残された時間で考えるだけ。何とも現実的で面白味のない結果だろうか。
せめて自分を信じて定跡通りに指していれば、表面上の形勢は間違いなく先手が良かった。その上で熾烈な熱戦を繰り広げて負けたというのならば、互いに握手を交わせるくらいの満足感のある戦いになっただろうにと──。
(会長は不満かもしれないが、私は自身の仕事を全うしたのみ。せめてこの手を糧に成長したまえ、天竜一輝君)
△7三歩打。
(これで君の馬は逃げるしかなくなる。だが逃げた手はどれも空振りの一手だ、そして私はその手に応じる必要がない。つまりは攻守交替の時間というわけなのだよ)
5五の角が攻防全てを担っていて、この歩を取ることは叶わない。川内副会長の一手を見て、俺は思わず目を瞑って天を仰いだ。
ああ……この人は本当に強い。横歩取りを指しているはずなのにこんなにも息が苦しい。正直、挑発に乗るんじゃなかった。
この手も▲6三馬の変化における定跡の一手、川内副会長はそれを完璧に網羅して指している。もしかしたら、今この瞬間においては俺よりも横歩取りが上手い人かもしれない。
あやふやな記憶を頼りに思い出した次の手は、確か▲9六馬と逃げるしかなかったはず。でもその瞬間に△7四桂と馬の利き筋に桂馬を打たれ、俺の馬は使い物にならなくなる。
それで形勢は互角、それがこの変化の結論だった。
「……ふっ……ははっ……」
──バカみたいだ。
何が思い出す、だ。思い出したからなんだって言うんだ?
あれだけ麗奈と特訓したのに、あれだけ過酷な難局を何問も解いてきたのに、なんで今の俺は過去の記憶だけで戦ってるんだよ。
横歩取りで永世名人を倒したから? この戦法には絶対的な自信があったから? だから横歩取りは誰よりも強いって?
棋力の差なんて覆せるほど定跡を暗記してると、本当にそう言えるのか?
確かに形勢は先手が良くなっていた、最善手を指し続けた将棋に負けはない。俺の体力が無限なら、この対局が今日初めての対局なら、俺は川内副会長の消耗戦を真っ向から受けて立っていただろう。
だが結局向こうの策が一手上回っていたせいで、俺は自ら定跡を外す愚行を選択した。
「……はぁ」
今の自分より過去の自分の方が強いだなんて、そんな根拠がどこにある? 暗記の将棋は思考の放棄だ、俺はそれが嫌いで横歩取りを自分の実力と認識しなかった。
だからまた1からがんばろうって、そう言ってくれた麗奈の言葉に痺れたんだ。
不可能に対して証明しようって言った言葉に、本心から挑みたいと思ったんだ。
「……──ッ」
何が数億手の暗記量だ、そんな記憶捨ててやる。
目の前の勝負に勝たなきゃ意味なんてないだろう。なぁ、天竜一輝──!!
▲5二馬。
「なっ……」
かなぐり捨てる大駒の突貫。
ただでさえ慎重に事を運ばなければいけないこの局面で、俺は大駒である馬を切った。
「マジかよ、切りやがったぞ……!」
その一手に、周りから動揺の声が上がる。副会長も一瞬たじろいだ。
そして僅かに生まれたその間を利用することで、俺は全ての集中力を読みに働かせた。
「──ッ!!」
記憶に頼るな、答えを見るな。
その手は俺を強くしない、過去の自分を引っ張り出しているだけだ。
頭を動かせ、読み癖を付けろ、難局から逃げるな。
あれだけ嫌な盤面を麗奈と指し続けてきたんだ、今の俺には苦じゃないだろう?
「加速しろ……読みを加速させろッ……」
自分で考えろ、自分で見つけろ。
記憶で道を作るな、全てを読んでただ走れ。
俺は絶対に諦めない。
麗奈が見てるんだ、負けるところなんか見せられるわけないだろ。
捨てた分の数億手を、今考えればいいだけだ──!
「気配が──」
「変わった……?」
鈴木会長と麗奈がその背中を見て小さく呟く。
同時に観戦者達の中で座っていた聖夜は静かに立ち上がると、対局に背を向けて歩き出した。
「え、聖夜さん帰るんすか? まだ勝負は終わってないっすけど……」
「興味ねぇ」
「えぇ!?」
素っ気ない態度を見せて会場を後にする聖夜。
だがその顔は、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「──いいや、何も変わってなどいない」
それでも川内副会長は態勢を崩さなかった。
「──君の負けは確定している」
ただ真っ当に勝利へと突き進む。将棋に流れはない、常に実力が結果に出る。
冷静に指せば、いくら勢いがあっても壁は越えられない。
慢心せず、己が道を行く姿勢。川内副会長は天竜の勝負手を確実に咎めに行った。
△同金。
「馬は切るべきじゃなかった。逃げて安全を確保し、こちらの攻めとの兼ね合いをもってようやく互角の位置に立てる。君はその真っ当な手を放棄したのだよ、その意味するところが分かるかね──」
そう言い切る前に、川内副会長はその眼に映り込んだ何かを捉える。
そこに見えたのは、光のような──影。
何かが通り過ぎた得体の影が、心理の底に微かに映る。
「今、のは……」
先程までとは違う雰囲気を纏った青年の瞳に、川内副会長は思わず背筋をゾクリと凍らせた。
「……2、五…………」
そして、俯いた姿勢から薄っすらと聞こえてくる符号。目の前の青年から呟かれる思考の一端。自身でさえ聞き取れないほどの声量で呟かれる内容は、現局面で言う所の▲2五飛を表しているのだろうか。
確かに▲2五飛なら角と桂馬に両取りを掛けられる。しかし△3七角成とすれば、その両取りは王手で簡単に逃げられてしまう。
将棋は王手が先手だ、後手側の角を放っておいて攻めることなど出来はしない。
だが、再び耳を澄まして聞いていた川内副会長はその狂気を知る──。
「……2二……3五……4八……4六……2四……1六、3九、3七、2六、6二、4二、2七、2九、4九、3七1五3四3一2四3三3七3四2五4二4一2七3一2五3二1六3一3二3三2四4三1四3一1三4三3五3三──」
狂ったように連ねられる数字、それはまるで呪文のように川内副会長の耳に響き渡る。
この時初めて、川内副会長は自ら組んでいた腕を無意識に解いた。
「────ッ!!」
残り時間は7分。その全てを使って完全に読み切る。
読め、読め、読み切れ──。
ぬるま湯に浸かっていた思考は、その全てを打開する完全な策を求めて走り出す。あの時よりもずっと多くの読みを連ねて、終局を見据えて。
読みを止めるな。
▲2五飛が悪手なのはすぐに気づいた。俺の玉は居玉、何も囲われていない最弱の状態だ。向こうに手番を渡したら速攻で詰まされる。だから防御の手を指すなら相手の角を成らせてはいけない、▲4六銀と銀を打って先手を取る。▲4六銀打△同角▲同歩△4七桂打▲6八玉△5九角打▲7九玉△8六角成。
止めるな……!
▲2二歩なら▲2五飛と違って軽い攻めで同等の効果を得られる。△同角なら後手の攻めが止まるし、それ以外の手なら歩1枚で攻めが繋がる。▲2二歩△同銀▲2三歩打△同金▲3二銀打▲3七角成△4八銀打▲1九馬△8一飛。
止めるな──!!
先手を取るには王手をするのが最も理想だ。▲8一飛なら王手で先手を取れる、そこから途切れることなく攻めていけば後手に手番を渡すことなく仕留めることが出来るかもしれない。▲8一飛打△6一桂打▲7二銀打△6二金▲6三銀打△7二金▲同銀成△3七角成▲6八玉△5九角打。
加速した思考に一切のブレーキをかけない。
ただひたすらにアクセルだけを踏み続ける。
際限なく加速する思考には、未知の感覚を強要される恐怖と盤面を見下ろすような全能感のみが迸る。
駆け抜けろ──!!
どこまでもどこまでも、底が無くなったかのようにアクセルを踏み続ける。
まだ後手が勝つ、まだ川内副会長に追いつけない。
まだ足りない、もっと手を伸ばせ。
形勢が悪いだなんて思うな、絶対に良いと信じろ。
たとえ悪くなっても絶対に勝てると、指せると貫け。
どんなに苦しくても、それでも出来ると信じるんだ、信じられないなら信じられるまで読み切ればいいんだ!
『出来る、出来るわよ。師匠なら必ず、そう信じて今日までやってきたんだから』
ああ、そうだ。そう信じてやってきた……!
いったい今まで何のために特訓してきたんだ。諦めるためじゃないだろ、勝つためだろうが──!!
『それでも不安だって言うならそうね。私のためにも勝ってほしいな、なんて……。二人で一緒に県大会行くの、少し憧れてるからさ』
ああ、必ず勝ってやる。家で見送りだなんて死んでもごめんだ。
地区大会くらい勝てる男じゃなきゃ、お前の隣には並んで歩けないもんな。
俺だって隣を歩きたいよ。ただの師弟としてじゃなくて、一人の棋士として認め合える関係になりたい。
聖夜にだってお礼を返さなきゃいけない、お前にも恥じないようちゃんと勝ってやったって、一言伝えなきゃいけない。
横歩取りだってまだ続いているんだ、この勝負は決勝戦なんだ。
負けられない理由がこんだけあって、負けられるわけねぇだろ……!!
「──ッ!!」
入れ、最速の世界に……!! 入れ──ッッ!!!
▲8一飛打△6一桂打▲7二銀打△6二金▲6三銀打△7二金▲同銀成△3七角成▲4八金打△同馬▲同金△2九飛打▲4九桂打△1五角打▲6一飛成△4二玉▲5一角打△4一玉▲3三角成。▲2二歩打△同銀▲2三歩打△同銀▲2二歩打△同金▲7一飛打。▲3五飛打△9六角成▲6四桂打△8九馬▲5二桂成△同玉▲6四銀打△6一香打。▲2二歩△同銀▲2三歩打△同銀▲2二歩打△3三桂▲2一飛△3一歩▲1一飛成。▲2二歩△3七角成▲4八銀打△同馬▲同金△2九飛打▲4九金打△3六桂打。▲2二歩△3七角成▲4八銀打△同馬▲同金△2九飛打▲4九銀打△3六桂打▲1五角打△2四銀打▲同角△同飛成▲5八金。▲2二歩△同銀▲3五飛打△3三角▲8五飛△7四角打▲8一飛成△6一歩打▲7二銀打△4二玉▲3四桂打△3一玉▲5八銀打△5五桂打。▲8二飛打△3七角成▲4八銀打△同馬▲同金△2九飛打▲4九銀打△3六桂打▲5八金△4八銀打▲同金△同桂成▲同玉△2八飛成▲3八歩打△3七歩打▲6四桂打△3八歩成▲同銀△3七角打。▲8一飛打△6一桂打▲7二銀打△6二金▲6三銀打△7二金▲同銀成△3七角成▲4八金打△同馬▲同金△2九飛打▲4九桂打△5二銀打▲6一銀成△同銀▲6三桂△5二玉▲4一角打△同玉▲6一飛成△4二玉▲3四歩打△2三金▲2二歩打△同銀▲6二龍△5二銀打▲5一桂成△3四金▲5二龍△3三玉▲3五歩打△同金▲4二銀打△2四玉▲5三銀△3三銀▲2二銀打△3四銀▲3六歩打△同金。▲8二飛打△3七角成▲4八銀打△同馬▲同金△2九飛打▲4九銀打△3六桂打▲5八金△4八銀打▲同金△同桂成▲同玉△2八飛成▲3八歩打△3七歩打▲6四角打△3八歩成▲5九玉△3八龍▲6三桂打△4二玉▲3四桂打△3三玉。
ピッ──。
あれから無言の沈黙が5分、持ち時間が全て無くなり秒読みの合図が鳴る。しかしその時計が秒読みの秒数を読み上げることは無かった。
「──」
眼鏡を拭いていた川内副会長はその違和感に疑問を向けると、既に局面が変わっていることに気づく。
▲7一飛打。
駒音一つ立てず置かれた一手、それはただの王手だった。
「……これは、ただの王手──?」
長考の末に出した手とは思えないほど無難で、霧のように何も感じられない不気味さが漂う。
それでも川内副会長は動じない。ふぅ、と呆れるように軽く一息ついて何事も無かったかのように玉を逃がす。
その手を川内副会長が指す前に、俺は駒台から歩を掴んだ。
△4二玉。
▲2二歩打。
「えっ……」
思考の邪魔になるしあまり大きな音は聞きたくなかったから、俺は親指と中指で横から駒を掴んでそっと置いた。
それが川内副会長にとっては、想像以上に不気味だったらしい。
「……え?」
歩を打たれた局面をじっと見つめて30秒ほど……川内副会長は突然何かに気づいたかのように思わず立ち上がった。
「……はッ!? ……!!?」
両手を机に着いてこちらを見ては盤面を見返す。二度、三度、四度。眼鏡を何度も触りながら自分の視界に映った情報が間違っていないかを確かめる。
そして気づいた。──既に自分が劣勢になっている事実に。
「バカな……!」
この歩は言うなれば『無敵の歩』だ、絶対に取られることのない最強の歩兵。
この歩打ちに対しては、△同銀も△同金も△同角も全て▲3四桂と打ち返されて両取りを掛けられる。その瞬間形勢逆転だ。そして無視していても桂馬を取られて歩を成られる、やはり形勢逆転。取られたくないと桂馬を逃げたらその瞬間▲3四桂で即詰みだ。
──どうやっても避けようのない一手が、川内副会長の脳天を貫いた。
「バカな、あり得ない……!」
予想外の事態に焦り出す川内副会長。
彼の攻め筋が完全に消えているわけではない、△3七角成とこちらに王手を掛ける手は残っている。しかし今川内副会長の角は5五という絶好の位置にいる。ここでむやみに攻めてしまえば、自陣に利いていた守りの角筋を失うことになる。
だから歩を打った。攻められる未来が分かっていながら、それでも守ることが出来ず自分から攻めていくことも許さない一手を放つために。
だからその前に飛車を打って玉を逃がした。全ての筋を読んで、飛車打ちに受けたら全て詰ます筋を読み切ったから、玉を逃がす手しかないと確信できたから。
だから、指したんだ──。
川内副会長、この手は読めたか?
「君は、一体……」
ようやく口を開いた川内副会長は震える声でそう呟く。
赤き色が目に映る。霧の中にいた怪物を目撃したかのような衝撃に、川内副会長の視線が固定された。
夕焼けの日差しが将棋盤を照らし明確な魔物の影を縁取る。
長年指してきたからこそ、自然と相手の棋力を読み取れる力を得た。そんな川内正信の眼に映ったもの、それは──天上の方々と同じ色をした棋力だった。
白く、ただ白く銀色に、されど縁は赤く光る。圧倒的な大差を前にした時の、勝とうとする気持ちすら湧かない色を持った──『竜』。
はっきりと見えたその影に、川内正信は目の前の青年の覚醒を確信したのだった。




