第七十一手「潰えた勝ち筋」
相横歩取りにはひとつの結末が存在する。
幾多もの研究者やプロ達が積み上げてきた研鑽の先、必勝の二文字は浮かんでくる。
──先手勝ち。それが彼らの編み出した最初の結末だった。
「……ッ」
迫る分岐点に長考が続く。何かを狙っている川内副会長の真意を読み取れない限り、勝利はないと思った方がいい。
さっきの勝利宣言はハッタリじゃない、間違いなく何らかの狙いがある。
どこだ、どこにある……? 絶対に先手が勝つ手順のどこに"欠陥"があるんだ。
探せ、そして思い出せ、時間は待ってくれない。
取り合えずここは一旦定跡手を指して、向こうの手番の時に考えるしか──。
▲4八銀。
△3八歩打。
「……ッ」
ダメだ、すぐ指し返してくる。完全に意図を読まれてる──。
△3八歩は定跡手、こっちが指す定跡に向こうも応じている。どうみても棋力で指している雰囲気じゃない、先手がよくなるのを分かっていて定跡に乗っているとしか思えない──。
▲8一馬。
△3九と。
「くっ……」
含まれた罠の位置を警戒しつつ指した手も、すぐさま川内副会長にノータイムで切り返される。
やっぱりダメだ、見透かされてる……!
普通ならと金を作る△3九歩成が当然の一手と勘違いしやすい、しかし実際は歩を成らずにこの△3九とが手筋だ。
この手は飛車を打ち込むスペースを作ると同時に、次にこちらが▲5八金と逃がしたら、△4九と▲同玉△2九飛で壊滅する手を含んでいる。
横歩取りの定跡でしか滅多に現れない手筋を生身の棋力で指せるわけがない、川内副会長は全部知っていて俺の定跡に乗っているんだ。
どうする、どうすればいい?
何かが起きてからそれを防ぐのは勝負師じゃない、対策を取るなら今しかない。だけどこの局面は間違いなく先手有利なんだ、間違いなく勝っている局面なんだ。
それを自ら崩そうとするなんて狂気の沙汰に等しい、理論上勝てる勝負を自分から降りるなんて安易に出来るわけがない。
だけど、だけど……!
「……くそ……っ!」
小さく舌打ちしながら将棋盤も見ずに顔をうずめる。ただ必死に記憶の欠片を紡ぎ合わせ、自分が研究してきた横歩取りの全てを思い出す。
時間は限られている。残された時間で副会長の意図を看破しなきゃいけない。
なんで先手有利の局面で俺が追い込まれてるんだよ、おかしいだろ……!
「……っ」
ダメだ、頭が混乱する。
川内副会長は負けに行く姿勢を見せていない、勝ちに来ている。そして何か明確な意図があってその定跡をなぞっている。
例えその一手はどんな妙手的な一手であろうとも、結果的に先手が良くなる結果は崩せない。
だがその瞬間から始まる勝負は、決して定跡など関与しない完全実力の読み合いだ。川内副会長は自らの劣勢を認めることで、自分の土俵に立たせようとしている。それがどんな結末を迎えるかは分からないが、少なくとも川内副会長の望む展開になることは間違いない。
表面上俺が優勢だとしても、それ以外の『何か』の要因で俺が負ける結果に繋がると読んでいるんだ。
ああくそっ、まるでマジックを前にしているみたいだ……ッ。
▲同銀。
△同歩成。
▲同金。
△5五角。
絶好の位置、5五の角は天王山。川内副会長は全て見切ったかのように、時間を5秒も使わずに即指しを繰り返す。
通常の定跡では、俺がこの角を無視して▲7二銀と打ち込めば先手勝ちと言われている。どの本にもそれが最善の結末と書いてあるのを俺は知っている。
なのに、副会長は余裕の表情を崩さない。
まさか川内副会長は俺の実力を侮っているのか? ▲7二銀で先手勝ちと結論付けされているだけで、それより先のことは明言されていないから実力勝負に持っていけると、そう踏んでいるのか……?
いや、あり得ない。俺は▲7二銀以降の定跡も網羅している、そこから後手の猛攻に期待を任せているのなら俺の必勝は免れない。
そう、例え後手の妙手である『北浜新手』を繰り出されようとも、俺はその手に嵌らない現代の最善手を知っている。
▲8五玉と逃げれば先手は絶対に──
「…………ッ!?」
砂嵐のような音が脳裏に響き、同時に思考が完全に停止した。
そこに映し出された一欠片の記憶が、全ての歯車を狂わせたかのような錯覚に陥る。
「まさ、か……」
思わず見上げた先で、俺は川内副会長の『真意』に気づいた。
相横歩取りで、しかも今この状況だからこそ俺が負ける唯一の隙──。
「やっと追いついたかね、天竜一輝君」
口元に笑みを浮かべながら悠然と腕を組む川内副会長の姿に、自ずと全身が震え上がった。
それは武者震いでも恐怖でもない、ただ純粋な畏敬──。
「……ブラフだ」
「ならば指してみるといい」
川内副会長はノータイムで反論する。
「……嘘だ、あり得ない……」
絶対にありえない、あり得るわけがない。
そんな道が、そんな策が、そんな都合よく交差して、俺の狙いを完全に貫いたって言うのか?
もしそうだというのなら完全に手遅れだ、気付くのがあまりにも遅すぎた。
自分の中でしか行われない想像の域に、向こうの思考が割って入ってきたかのような恐怖。あり得ないと首を振る余裕もなく、絶望の描写が勝手に脳内で描かれ始める。
ただただそれが『視えてしまった』ことへの後悔だけが感情を埋め尽くす。
「そう、△7一飛。それがお前の狙われている隙だ」
「あっ聖夜さん、お疲れ様っす。結果はどうでした?」
「手に持ってるもので察しろ」
「あっ……」
観戦者達の中に割り込んでこちらの対局を覗く聖夜。片腕に抱えられた箱の中には、優勝のトロフィーと思われる品が入っている。
聖夜は俺の手番になってから一切動かない局面を一瞥して、呆れるようなため息と共に呟く。
「そんなことよりこのままじゃ負けるぞ、アイツ」
「え、なんでっすか? 今って相横歩取りの定跡進行中っすよね? なら先手優勢なハズですし、このままいけば天竜が勝つんじゃ?」
「……俺は今までこんなレベルの所にいたのか、そりゃ天竜にも負けるわけだ」
「えっ、もしかしてオレバカにされました?」
首を傾げる観戦者のひとりに、聖夜は面倒くさそうに盤面を指差した。
「ここでの次の先手の定跡手は▲7二銀だ。その後△3七角成▲6八玉△7六桂と後手は先手玉を猛追する攻めが続くが、最後には攻めが途切れる。だから当時の見解では『先手の受けきり勝ち』とされていた」
「されていた?」
過去形の言葉に、それを聞いていた周りのギャラリー達も疑問符を浮かべる。
定跡は時代と共に塗り替えられるもの、それが事実だと聖夜は指摘した。
「1994年、その手はある一人の棋士によって覆された。『先手受けきり勝ち』とされていた局面を後手が実戦で跳ね除けて勝利したんだよ。しかも33手詰みとかいう長手数の末にな」
「33手……」
ありえない手数に、聞いていた者達は驚きの表情を浮かべる。それは実戦で飛び出すにはあまりにも長い手数、それこそ研究に研究を重ねない限りは絶対に指せないような長さだった。
「後手が勝つその新定跡は後に『北浜新手』と言われ、今まで先手勝ちと言われていた相横歩取りは一変。そして『後手の攻めきり勝ち』となって1からの再研究が行われることとなった」
「じゃあ川内副会長はその北浜新手っていうのを狙って──」
そこまで言い切ろうとした段階で、聖夜は即座に否定する。
そんなレベルの戦いは行われていない、それこそ横歩取りを必勝と掲げる天竜一輝と副会長との間では。
「その北浜新手も10年後には瓦解したんだよ。後手必勝の定跡に入る直前で先手が間違わずに玉を逃せば、▲8五玉と逃せば北浜新手は崩壊すると結果が出たんだ」
「えっ!?」
「だから天竜は仮に後手が北浜新手を策に踏み込んできても、読み切れると踏んで定跡通りの進行を続けたんだろ。実際、その▲8五玉からは△8六飛▲7四玉△8一飛▲6一銀成△同飛▲7三桂と……まぁ口で言っても伝わらないだろうが、とにかく先手は攻守逆転したかのように攻めに転じることができて無事勝勢になる。そしてめでたく相横歩取りは『先手勝ち』と認められて現代のどの本も完結するわけだ」
少し離れたところから鈴木会長が顎に手を添えて、物珍しそうに聖夜の解説に耳を傾けてる。それに気づいた聖夜は軽く舌打ちしつつも解説を続けた。
「だが、問題なのはそこからだ。▲7三桂と先手が後手の飛車を攻撃したその一瞬の隙を突いて、後手は△7一飛と躱す手がある。そうすると何が起こるか……不思議なことに後手は詰まなくなる」
「詰まなくなるって……」
意味深な言葉に、観戦者は一斉に顔を見合わせる。
そんなことが起こり得るのか? という疑念の視線を受けて、聖夜は鼻を鳴らした。
「後手は『入玉』できるんだよ、先手の攻め駒不足でな」
聖夜が発したその言葉に、周りの観戦者達は全てを理解したような表情を浮かべる。そして同時に、今置かれている天竜の境地をその身で実感した。
──『入玉』。それは自分の玉が相手の陣地に侵入すること。一般的に、入玉された玉は将棋のシステム上攻めるのが困難で、最も詰ましにくい形と言われている。
完全に入玉した王様を捕まえるのは難儀であり、通常の将棋とは違って反転した将棋を指さなければいけない特殊な状況が展開される。
それはもはや、将棋の名を冠しただけの別ゲーだ。
「だが先手も勿論入玉できる、そして形勢も先手勝勢だ。今回の大会は入玉戦の持将棋に27点法を導入すると書いてあったから、結果自駒の多い天竜が勝つんだろう。そう、理論的にはな」
27点法とは、互いの玉が詰ませなくなりこれ以上将棋としての進行が不可能になった際に、その時点での自分の駒を点数計算し点数が多いほうが勝つというルール。
聖夜の言うとおり、先手は後手を詰ませずとも、自身も同様に入玉戦に持ち込んで持将棋となれば勝利することができる。
だがそれは、とてつもなく長い戦いを意味するのと同じだ。
「本に書いてあることも、世間の言っていることも、どっちも間違ってはいない。理論的には間違いなく先手が勝つんだろうよ、おめでとう天竜。じゃあここで聖夜さんからとっておきの質問だ。──お前ら、相入玉戦やりたいか?」
その質問に「やりたい」と、そう頷いたものは一人もいなかった。
「聖夜さん、それ俺達に『後ろ向きで転ばずに10km走れ』って言ってるのと同じっすよ……」
「だよなー? 俺もやりたくないね。入玉戦ですら地獄だっていうのに、相入玉なんて吐き気がしそうだ」
本来の将棋は相手の玉が奥にいるため、手前から奥に向けて前進するように攻めていくのが基本。だが入玉戦になれば、相手の玉は自分の陣地の中、つまり手前にいる。
そして将棋の駒は全て前に行くように作られている、後ろに行くようには作られていない。
つまり、前にしかいけない歩兵や香車、桂馬なんかは完全に使い物にならなくなる。
玉の周りには歩やと金で固められた鉄壁の布陣。一切攻められず、かといって手を緩めれば駒を取られて点数が逆転する。手数はゆうに200手を越え、互いの時計は常に秒読み状態、慣れない形に凡ミスも多発する。
それはまさに地獄絵図、それは人が考えられる脳の許容範囲を越えた戦い。そして、それがまさに大会の決勝戦、ボロボロの状態で挑む最後の戦いで起ころうとしている。
一切疲労を見せていない川内副会長と、つらそうな表情を必死に耐え忍んで挑んでいる天竜、どちらに形勢が傾くのかは言うまでもなかった。
「そう、副会長の真の狙いは相入玉戦による泥沼の戦い。つまりは、天竜の極度の疲労によるミス狙いが本命の策ってことだ」