第七十手「読みの果て」
秋の終わりが近づき大雨が窓を叩く11月上旬。
ここ最近になって急に冷え込んできたせいか、外の木々は葉っぱを落として寒々しい光景になっている。
廊下を歩く足音も消されるような雨音の中、書類を落とさぬようにバランスを取りながら歩き執務室の扉を開ける。
中へ入ると、誰もいない部屋の窓際に一人立って外を見ている鈴木会長の姿があった。
「おはようございます会長、今日は大事な会食の予定があったのでは?」
「ああ川内君か。いやなに──その予定は帳消しになったよ」
「帳消し……?」
そう言うと会長はこちらを振り向き、抱えていた書類を受け取りながら答えた。
「先刻の大会の件を連盟に告げ口されると警戒したんだろうね。直前になって弾かれたよ、上も圧の掛け方が雑で困ったものだ」
鈴木会長は自らの席に座る。
先刻の件──青峰龍牙が西地区の大会に無断で参加し、横暴な態度を取って大会を荒したことに関する問題だ。
いくら参加規定を満たしていたとはいえ、あれだけ暴れられては西地区としてのメンツが立たない。会長はそれを連盟に報告しようと会食の場を設けたが、何者かに邪魔されて中止となった。
私達はその何者が誰なのかを知っている。
「……また銀譱委員会ですか、本当にロクな奴らじゃないですね」
「まぁそう言ってやるな、向こうも向こうで大変な時期なんだろう。"十六議会"が棋界を収めようとするのも時間の問題になりつつあるしね」
その呼び名を口にするのは会長だからこそ出来るもの。
──『棋界第十六議会』……またの名を"十六議会"。現在は連盟の上部組織に当たる存在として名を馳せており、現代将棋における全権を持つ事実上のトップの組織。
現在、将棋界隈は見事に二分化されている。
今までの体裁を保つために現状の改革をよしとしない保守派、海外進出などを狙って将棋の歴史を一歩先に進めようとする改革派。
保守派はこの県の運営を任されている『銀譱委員会』と呼ばれる組織を率いており、改革派は近年創り上げられた『棋界第十六議会』がその主張を声に出している。
どちらの主張も一長一短で、どことなくきな臭い雰囲気を醸し出しているが、肝心の界隈中心に座している『全日本統括将棋連盟』は十六議会の下部組織に当たるため、形勢は改革派に傾いているのが現状だ。
真剣に将棋の道を歩む者達の水面下で起きているいざこざは、私達のような管理側にとっては重要でも、将棋を指す者達にとっては無粋極まりない面倒事だろう。
我々のような棋界に属する運営側は、常に選手達の未来を支えるための最高の環境を提供するのが仕事。保守や改革だと理念のぶつかり合いが起こっては、今後の棋界の行末が不安定になる。
それにうちの県では、銀譱委員会が主張を激しくしているのもあって大会運営が一苦労の状態。現に前回の大会では、青峰龍牙の一幕で何人かの選手が大会に来なくなる現象が起きた。
ああいった選手を野放しにしておけば、アマチュア界はいつまで経っても成長しない。その件も含め、今日は連盟や各部署の代表者達が一同に集う会食があったのだが、やはりというべきか、銀譱委員会に出る杭を打たれてしまったらしい。
いくら棋界が大変な状況だからといって、ここまで立ち回りが露骨だとこちらも苛立ちを覚えてしまう。
しかしそんな私を察してか、鈴木会長は宥めるように話題を変えた。
「して川内君、ひとつ頼みがあるのだが聞いてくれるかね?」
「はい、なんでしょうか?」
すると鈴木会長は机の引き出しの中から一冊の本を取り出す。それはどこか古ぼけた感じのする、表紙がボロボロの単行本だった。
そして鈴木会長はこちらへその本を手渡すと、一言だけ呟く。
「今度の黄龍戦、君も出たまえ」
「これは──『横歩取り定跡書』……? って、私が大会にですか?」
突然の言葉に驚いてしまった。
確かに私は以前まで現役で将棋を指していた身ではあったが、最後に大会に出たのはもう10年も前のことだ。
今は教材を持って子供達の指導や大盤解説などをしているだけの、まさにいい年したただのオッサンだろう。棋力などとうに衰えている。
そんな言葉が口から出そうになるが、鈴木会長は有無を言わさぬ背を見せて自分の席へと戻っていく。
「当日はグループ分けをする予定でね、君にはAグループに入って優勝を狙ってもらう」
「まさか、私を県大会に送り込むつもりですか?」
「それこそまさかだ、黄龍戦のキャッチコピーは"未来ある者達の挑戦権"。我々の出番はないよ。……ただ私はその大会が大きな転機になると予想していてね。若人達にとって歯ごたえの無い戦場を用意してしまっては、ぬるま湯に浸かった気分で県に行ってしまうだろう? だから君という強敵を加えて少しでも大会の質を上げたいのさ」
再び窓際に立って大雨が降る外の景色を見つめる鈴木会長。
その窓に映る口角は僅かに上がっている。
「なるほど、横歩取りの本を渡してきたのはそういうことですか。ということは例の……?」
そういうと鈴木会長は深く頷く。
「……なるほど」
最近、鈴木会長が目を付けている将来性のある選手が3人ほどいるらしい。うち1人は尖った特異性を見せてはいるものの、安定せずに棋力の全てを発揮できていない状態だという。
横歩取りがバケモノ級に強いと噂の──一人の青年。
「もしその子と戦う時が来たら横歩取りを指しなさい。彼はその戦法で永世名人を破った実力があるが、ブランクが長く、勘を取り戻していないと私は踏んでいる。だから君にはそのブランクを壊し彼を目覚めさせてあげなさい」
無茶を言う。だが鈴木会長は普段、その無茶を他人に委ねることはなかった。
自分の望む結果の為ならば、常に自分自身で掴んできた男だからだ。
そんな男がこうして部下の一人である私を頼るというのであれば、全身全霊でお応えするまで。
「横歩取りであれば戦法は何でもいいんですね?」
「無論だ。横歩取りが得意だからと言って純粋な横歩取りの定跡しか分からない男なのであれば、私は気になど留めていないよ。──全力で潰しにかかりなさい」
明確な意志の籠った瞳、どこまで先を読む畏怖の視線。大会のことを話している鈴木会長には、既に何かが見えているようだった。
私は会長のその諦めの悪さを間近で窺えて、内心ホッとする。
なるほど、通りで会食の件を蹴られても平気な顔をしているわけだ。
私にはその考えを読み通すことはできない。だが鈴木会長は、この黄龍戦を棋界の起点とみなしていたのは間違いなかった。
「分かりました」
そういって私は執務室を後にした。
そして自宅に帰ると、すぐさま横歩取りの定跡書を全て読み漁り、肝心の分岐点をAIで洗う作業へと取り掛かった。
当日の運営活動は鈴木会長が代わりにやってくれるらしく、私はほとんどの仕事を押し付けられることなく当日まで将棋に没頭する時間を得ることができた。
相手は曲がりなりにもトッププロを破った男、超能力者といってくれた方が納得できる結果を持つ青年。逆に横歩取り以外は1級にも満たないと聞いたことはあるが、どちらにしても彼の対局を見たことがない私には憶測でしか判断を下せない。
そもそもこれだけの短い期間で私が横歩取りの何を理解出来るのか、そんなもの1%も理解出来ないに決まっている。
ならば戦型は相互似たような形のものが好ましい。端歩を突いて先後逆形となっても影響の少ない戦型、乱戦で終盤まで研究されつくしている戦法。
──『相横歩取り』なんてどうだろうか。
先手良しで結論が出ているこの戦法、横歩取りを主軸としている者なら先手は絶対に定跡に乗ってくる。
ならばあえて分の悪い後手で指し、肝心の分岐点で定跡を外せば研究勝ちもあり得なくはない。
「となれば……」
横歩取りの定跡書を一通り読み終えた私は"相横歩取り"の定跡を知るべく、再び鈴木会長に頼み込んで定跡書を貸して貰った。
そして"先手良し"と結論が出ている部分を洗い出し、そこから本当に先手がよくなるのかを徹底的に研究しつくした。
「北浜新手……8五玉…………いや、これは7九に……なるほど……」
そしてついに、大会前日ギリギリまで研究を続けていた私は一つの結果に行きついた。
それは今まで見たこともないような一手、相横歩取りの結果に意を唱える妙手。
勿論それが本当の実戦で飛び出すことはないだろう。だが、その一手を潰すことで何十何百という先手勝ちのパターンが消失する。
将棋における研究の本懐は、実戦でその一手を放つことではなく、その一手を指しても大丈夫という弱点消しとして繋いでいくもの。相手が定跡を指せば指すほど研究というものは火を噴いていく。
そう、だから私は最初から──
◇◇◇
──定跡を誘っているのだよ。
▲4六角打。
天竜の指した一手はまさに定跡手、力強く押された時計は16分をギリギリ切らない。しかし、つい先日まで定跡書を読み解いてきた私にとっては、その手があまりにも鮮明に輝いていた。
そして同時に、作戦勝ちというものに着々と近づいているのを感じさせる。
「どうして天竜は▲5五角と打たないんだ?」
「その瞬間に△8五飛と飛車を打ち込まれて、角取りと8九飛成を同時に狙われるんだよ」
「うわ本当だ、こっちから先に両取りを仕掛けたと思ったら仕掛け返されるのかよ……こっえぇ……」
決勝戦が始まってからもう10分、始まる前まで殺風景だった会場には随分と人が集まってきている。
目の前の青年──天竜はそのことに気が付かないほど集中している様子だ。
良い兆候と言える。
△8二角打。
今度は一切考えることなく角を合わせる。ここでの後手の最善は△8六歩と垂らして相手に▲8八歩と受けてもらい、歩を成り捨てて再度△8二歩と打ち、角成りを防ぐ手順が最も有効と言われている。
だが序盤のこの展開は定跡書でもよく語られている。よく語られているということは、彼がその先の対応策を網羅している可能性が非常に高い。
ならばここも従来の定跡通り"角には角"と合わせていくのが好ましいだろう。
▲同角成。
△同銀。
▲5五角打。
「あれ、今度は▲5五角と打ったぞ? 確か△8五飛でダメなんじゃなかったっけ?」
観戦している選手の一人が首を傾げる。
実際、話し声の聞こえない私も同様に飛車を打つ。
△8五飛打。
一見刺さったように見える飛車打ち、しかしこれには上手い切り返しがある。
そしてそれを当然知っているであろう天竜は、臆さず飛車を掴んで応対するように打ち込む。
▲8六飛打。
見切り見切られ見切り返す。
通常の将棋ではありえない反撃の応酬が、短時間で一気に行われる。
「はぁ~……なるほどなぁ……」
「後手が角を取ったら8二の銀取って飛車成り。相横歩取りのような短期決戦では先に飛車を成られたら負けだとよく言われる、絶妙の切り返しだ」
「でもこんな切り返しがあるならやっぱり最初から▲5五角って打った方がよかったんじゃ?」
「よく見ろ。最初から▲5五角と打っていたら後手の銀が8二に上ずっていない、つまり先手は次に▲8一飛成と桂馬を取って飛車を成るってことだ。今回の銀を取って飛車を成るのと、桂馬を取って飛車を成る。どっちがより良くなるかは言うまでもないだろ?」
「……マジかよ」
二人の手の応酬に驚愕する観戦者の一人。
相横歩取りの乱戦は既に開幕している。1手1手が意味を持ち、1手でも意味を無くせば負ける状況。既に勝負は、机上の空論を現実に呼び覚ました叩き合いになっている。
「どこまで考えているんだよ、あの二人……」
「考えてなんていないだろうな、恐らく"全部覚えてる"」
「嘘だろ……」
多くの観戦者のざわめきの声を聞きながら、私は次の一手を繰り出す。
ここまでは互角。いや、定跡通りなのだから厳密には先手良しの局面なのだろう。
だがそれもあと少しのことだ。
△同飛。
▲同銀。
△2八歩打。
またしても間髪入れずに歩を叩く、▲同銀なら△2五飛打ちで角と銀の両取りだ。
一切の容赦なく行われる斬り合いに、互いの間合いを見極めながらいつ踏み込むかを熟考する。
▲8二角成。
「……」
悩んでいるのか、天竜は左手を顔に当て少し俯きながら角を成る。
これは次の一手を考えている、ということではないのだろう。恐らく私が定跡に沿って指していることに対する真意を読み取れないから悩んでいると見える。
当然こちらとしても、その真意を読ませるわけにはいかない。この相横歩取りにおいて定跡の分かれ目は勝負の分かれ目に匹敵する。
座して待つ勝利ほど退屈なものはないが、それも将棋の酷な一面か。しかし、このままでは本当にこちらの作戦勝ちで終わりそうだ。
鈴木会長には彼の本質を発揮させる助力をと言われたが、今回はそれを果たせそうにはない。手を変えずに定跡頼りとは期待外れもいいところだ。
「ふむ」
正道は間違いのない道を意味するが、それでは本場の勝負師には到底届かない。定跡とは所詮数値上の最善手。その手の意味を理解した者にこそ指す資格はあるが、何も考えずに指す定跡とは悪手と表裏一体の無意味な一手だ。
このままでは瓦解する、終わるぞ青年。
私をがっかりさせないでくれたまえ──。
△2九歩成。
定跡通り歩を成って攻め合いを続ける。もはやこの勝負に守りなど存在しない、ほんの僅かでも手を抜いた瞬間に戦線は崩壊する。
ふと天竜の方を見ると、先程まで左手をあてていた顔はずるずると下がっていき、やがては手のひら全体に包まれ目元まで隠れてしまった。
沈黙の時間、何度も聞こえてくる溜め息と微かに見える険しい表情。負けそうになる選手がよくする、もう見慣れた表情だ。
先程まで不利だった時間もいつの間にか逆転し、12分近くあるこちらと比べて向こうは10分を切っていた。
勝敗は喫したか、そう判断するには十分な読み合いだった。
「──悪くない読み合いだった」
3分以上動き無く沈黙する天竜に、私は心からの賞賛を送った。
僅かに聞こえた周りの観戦者は驚いた顔でこちらを見る。
「そう思わないかね?」
まだ勝負はついていない、それどころか局面は彼の方が優勢だ。
私が負ける可能性こそあれど、勝利を宣言する時ではないだろう。
「……」
だが、肝心の天竜は私の言葉を聞いても、否定の言葉を言わずに沈黙を続けた。
彼はこの局面の読み合いの先にある結末をよく理解している、理解しなければならない。だからこそ私は賞賛を送ったのだ。
既に読みは今行われている定跡の範疇に収まっていない。この先どういう結末を辿るかは、私と彼の無言の読みの果てに到達するものだ。
達人は勝負が始まる前から勝敗を決するとよく言うが、それはこと将棋でも当たり前のように行われる。
自分が3手先を読めば、相手は5手先を読んでくる。その過程を積み重ねていった結果の先に、明確な勝敗というものは提示されている。
無論、私は今の自分が絶対に勝っているとは思っていない。将棋に絶対を付け加えていいのはその道のプロだけだ。
だがこの読み合いは完全に私の方が上回っている。研究の果て、先手勝ちと呼ばれた戦法で私に勝機が芽生える瞬間。
それは勝利に等しい宣言をするに値すると思わないかね、天竜一輝君?
「……確かに、読み合いでは負けているかもしれない。だけど盤上はまだ定跡の最中だ」
「ほう」
ようやく口を開いた天竜に、私は思わず聞き返す。
その声音からは迷いや戸惑い、苦悩などの感情が存分に含まれていた。到底、この窮地を打開する策があるような表情をしているわけではない。
だが、そんなことはお構い無しというように天竜は続けた。
「俺が横歩取りで負けていい相手は、生涯で一人だけって決めてるんです。悪いがアンタに勝ち星は譲らない」
一瞬、勝負師の眼がこちらを見たような気がした。