第六十八手「横歩取り」
いよいよ始まった決勝戦。
振り駒の結果、俺が先手で川内副会長が後手となった。
俺は盤上を見つめ、思考を巡らす。
初手は大きく分けて3通りしかない。▲7六歩、▲2六歩、▲5六歩のいずれかだ。
だがその一手で今後の戦いが大きく変わる──。
俺は居飛車しか指さないが、たしか川内副会長は居飛車も振り飛車も指せるはずだ。向こうが居飛車で来るのなら、ここで▲7六歩と指すのがこちらの土俵。△3四歩と突かれた場合に、横歩取りの展開になる可能性が浮上する。
最も、横歩取りは互いがそれを選ばない限り絶対に成立しない戦法ではあるのだが……。
逆に横歩取りを指さないということは、その△3四歩は高確率で振り飛車の示唆だ。角交換型、ノーマル四間、三間、なんでもある。
なら▲2六歩と指した場合はどうなるか? これはこちらが居飛車を確定させる一手だが、横歩取りの変化は薄くなる、そして相掛かりや角換わりなどの変化に行きやすい。
後手振り飛車側からすると、初手▲2六歩は後の△3四歩▲2五歩の変化で、次に△3三角と角を強制的に上がらされている点が最初の嫌味となる。
そう言った意味合いでは、居飛車と振り飛車どちらも指せる両刀使いだと、居飛車に転換する可能性が高いと言えるだろう。
だが、初手▲2六歩は横歩取りの変化にはまずいかない。
序盤を適当に指す相手ならともかく、相手は長年の経験を積み重ねてきた男。手順前後するような初歩的な指し方はしてこないだろう。
「……」
▲2六歩と▲7六歩。今の俺ならどちらを選んでも納得の将棋に持っていく自信はある。
だがこの二つで、先の展開が全く違ったものになるのは間違いない。
「師匠、1手目から考えてるわね」
「初手の重要性をよく分かっている証拠だ、大人の思考だよ」
決勝戦が始まったとみて、こっちにも少しずつ観戦者が集まってきていた。
「……おいみろよあれ」
「天竜じゃねぇか、アイツ決勝まで残ったのかよ!?」
「すげー……どんだけ強くなったんだよ……」
対局が始まってからまだ第一手目を指していないことで期待を煽ったのか、周りの観戦者はこぞって注目してくる。
残り時間を見ると19分30秒を切っていた。初手30秒は完全な長考だ。
だが、おかげで一手目に何を指すかは決まった──。
「……!」
「動いたぞ……!」
▲7六歩。
俺は自身を持った手で第一手目を指した。角道を開ける、俺が指した初手はこの一手だ。色々と悩んだが、結局のところは初志貫徹。ただひたすらに最善を突き進めばいい。
俺は川内副会長に向けて、振り飛車でも居飛車でも全ていなしてやるという姿勢を見せた。
「……」
対する川内副会長は、俺の方を一瞥して何かを確信したかのように手を伸ばす。
早い、既に最初から決めていたかのようなノータイム指し。
やはり振り飛車か──。
△8四歩
「居飛車……!?」
「副会長が天竜の土俵に立ったぞ……!」
こちらの土俵に上がるような一手に、俺は思わず顔を上げる。副会長なら俺の弱点が振り飛車だという情報は知っているはずだ。
なのになぜ居飛車を? まさかこちらの初手読みを看破したのか? だったら何のために?
いや、今考えるべきはそこじゃない。
ここで△8四歩を指したということは、後の戦型は『角換わり』が濃厚だ。相居飛車で角交換するとなると、細かい攻めや読みが熾烈化しやすい。
角換わりなら『腰掛け銀』『棒銀』『早繰り銀』など、様々な展開が予想される。その中でも特に採用率が高いのは『腰掛け銀』だ。
腰掛け銀の戦型は『右四間飛車』を中心に『銀矢倉』『ダイヤモンド美濃』など駒組みは様々あるが、現代最善の戦型は『▲4八金2九飛型』と呼ばれるバランス特化型がメジャーだろう。
その形は全ての駒が攻めと守りを紙一重で成している状態で、一手間違えれば頓死も珍しくはない危険な戦型。川内副会長がどの戦型を選んでくるかは分からないが、とにかく角換わりは戦型のパターンが多い。
こちらも相応の知識を持っていないと、一撃で飛ばされる──。
▲2六歩、△8五歩、▲2五歩。
そこから定跡通りに手は進み、序盤の進行は双方相居飛車で決定づけられた。
「……」
角換わりの特徴は、後手があえて△8五歩を突かないことによって、将来△8五桂を用意する前準備が出来る利点がある。しかし川内副会長はあえて△8五歩を突いてきた。つまり将来右四間飛車にして、△8五桂からの殺到を目論む手順が消えたことになる。
今後の展開は早繰り銀か、もしくは▲4八金2九飛型の腰掛け銀が有力と言ったところか……。
「……ふむ」
俺が長考した初手からここまで、ずっとノータイムで切り返してきた川内副会長だったが、ここで一瞬手を止める。
定跡とは言え、手順は1手でも間違えれば即死に繋がる局面。何も考えずに指していると、信じられないようなミスをしてしまうことがあるため、一旦テンポを落ち着かせるのも重要だと鈴木会長は言っていた。
──相手の考えてる時間を使ってよく思い出せ。
ここで△8六歩は▲同歩△同飛▲2四歩△同歩▲2三歩打で、角をタダ取り出来て先手勝勢となる。
ここでの定跡手は△3二金。以下飛車先を守るために▲7七角として、△3四歩に▲8八銀、後手も飛車先を防ぐため一旦△7七角成として、以下▲同銀△2二銀という進行まで進む。これが一般的に言われている『角換わり』の定跡だ。
つまり、川内副会長の次の一手は間違いなく△3二金──。
△3四歩。
「なっ……」
「えっ!?」
俺は絶句し、周りにいた観戦者達からも驚きの声が上がる。
川内副会長は盤上から視線を外さず、無言のまま時計を叩く。
「……っ」
この人、正気なのか──?
その手は、その変化は──『横歩取り』だぞ……!
「天竜って確か、横歩取りがめちゃくちゃ強いんじゃなかったっけ?」
「そういや居飛車の中でも一番の得意戦法だって聞いたことがあるな」
「じゃあ副会長は一体何を考えてるんだ?」
後方からはひそひそと観戦者達の話し声が聞こえてくる。俺だってこの手には驚いた、本当に△3四歩と指したのか? 本当に時計は押されているのか……?
俺は何度も盤面を確認して、川内副会長の方を凝視する。
間違いなく横歩取りの変化だ、手順は前後しているが横歩取りの定跡形に合流している。何年ぶりに見ただろうか……。大会でこの形を見たのはもう数年以上前だったような気がする。
今、川内副会長は自ら角換わりを拒否して、今度は俺に『角換わり』か『横歩取り』かの選択権を明け渡してきたってことだ。
つまりは俺に『横歩取り』を指せるのかを問いかけている。
「どうしたのかね。私は挑発も誘導もしない、ただ君という選手に対し全力で向き合おうとしているだけだ」
本気で言っているのか、俺を相手に横歩取りをするって。
──アンタ、それ本気で言っているのか?
「……すー……はぁ……」
ゆっくりと息を整えて強く駒を掴む。
どれだけこの時を待ち望んでいたと思ってる。一体何年待ったと思っている。唯一この手で永世名人を破った横歩取り……。隅から隅まで研究し尽くし、青春を犠牲に網羅した戦法。
もうあれから大分薄れかけたが、その感覚は明確に残っている、今すぐ指せと記憶が昂っている。
だったら、俺は逃げも隠れもしない。
「──ッ!」
▲7八金。
強く、確固たる意志をもって金を上がる。
副会長もそれに応じるように手を指す。
△3二金。
▲2四歩。
△同歩。
▲同飛。
△8六歩。
▲同歩。
△同飛。
「おいおい、これって……!」
ここまで気付かなかった者達も、ようやく何かを察し始める。
互いに定跡どおりノータイムで手を指し続け、俺はいよいよ"その時"を迎えた。
「……っ」
奈落の扉の前に立ち、己の確固たる決意を確かめる。
引き返すならここしかない。
▲2二角成、▲8七歩、▲1六歩、▲9六歩、▲5八玉、▲2八飛車……この場面から引き返す手はいっぱいある。
それに、川内副会長が仕掛けてきた横歩取りは十中八九罠だろう。将棋の大会に情はない。
だが、それでも俺は天竜一輝だ、横歩取りで永世名人を破った男だ。
川内副会長がどんな手でこようとも関係ない。自分の土俵に上がって来た相手を前にして、自らその土俵を降りるなんてカッコ悪いじゃないか。
今まで散々振り飛車に嘆いて対抗型を嫌ってきたんだ、そしてようやくその時がやってきたんだ。目の前にぶら下げられた餌をスルーするほど、今の俺は消極性に飲まれちゃいない。
三年の患いに終止符を──。
俺の得意戦法は『横歩取り』だ、この戦法だけは世界中の誰にも負けない自信がある。だからこそ、この不穏な誘いからは逃げない、いや──取る。横歩を取れない天竜一輝に価値なんてない!
「──僭越ながら、叩き潰します」
「良い威勢だ」
▲3四飛。
横歩を取り、重厚な駒音を鳴らしながら浮き飛車を動かす。
「天竜が横歩を取ったぞ!」
「いよいよ始まるな、本場の横歩取りが……!」
「がんばって、師匠……っ」
シンメトリーの崩壊と共に開戦の鐘が鳴る。15手からなる乱の表現、将棋の歴史に名を残す相居飛車の代表戦法。
天竜一輝対川内正信による『横歩取り』の戦いが、ついに幕を開けた──。




