第六十七手「決勝戦」
大会が始まって6時間が経過した。先程まで小雨が降っていた外はすっかり夕焼けが照らされ、橙色の光が窓から差し込んでいる。
肝心の俺はというと──準決勝を無事勝ち切り、入賞入りが確定していた。
「はぁ……」
近くのソファに野垂れかかり上を向きながら溜め息をつく。
既に6時間……正直かなりキツイ。体力的にもそうだが、精神力的にも限界が近い。
「勝ててるとはいえ、かなりきついな……」
一局一局に集中力を費やして何とか勝ち切っても、すぐに次の試合がやってくる。数分程度のトイレ休憩で疲労した脳が休まるわけもなく、フル稼働状態で6時間の試合をぶっ通しだ。
もしベトナムでの特訓が無かったら、今頃間違いなく力尽きていただろう。
会場には置き去りになった将棋盤だけが並んでいる。負けた選手は次々に帰っていき、人もほとんどいなくなっていた。
あれだけ人だかりで密集していた会場も、今じゃガラガラだ。
そしてCグループの方も決勝戦の真っ只中らしく、観戦者の大半はそっちに向かっていったらしい。俺のいるAグループもまもなく決勝、多少なりとも暇な人が集まってくる頃だろう。
まだろくに観戦者すら出ていない午前中で終えた麗奈が異常だった。
「順調みたいね、師匠」
声がした方を向くと、麗奈と鈴木会長が階段から上がってきている。
どうやら荷物を家に置いてきたらしい。
俺は再び上を向き、ソファに野垂れかかるようにして行儀悪く座った。
「あと一回だ」
「そうみたいね」
他愛もない、ワンテンポ挟んだ返答。
空間に流れていた波長が乱れ、僅かな違和感が脳を刺激する。
麗奈、少し暗い雰囲気だな……。
何か嫌なことでもあったのか、いや、鈴木会長相手ならあったというより話したという線が濃厚か。家庭、両親、将来、俺の過去……その辺りか。
「あーダメだ」
「……?」
脳が動きすぎて無駄なことまで考えてしまう。五感が鋭くなりすぎてるせいか、洞察力まで敏感だ。
だけど今はそんなこと考えてる場合じゃない。1秒でも長く脳を休ませて、次の将棋に集中する。それだけが勝利への起因だ。
奥の方では対局者を囲むように数人の観戦者が集まっている。恐らく熱烈な戦いでも繰り広げているのだろう。
その準決勝で誰が戦っているかなんて、今の今まで考えもしなかった。
しかし勝負とは情報戦、情報戦とは相手を知ること。
今回、麗奈が圧勝した勝因は相手を知り尽くしていたからに他ならない。情報を握り、活かし、戦略を組み立て完全な作戦勝ちをしたからこそ勝てたのだと。
一切の成長には繋がらないけど、それでもいいんだよと麗奈は言っていた。
成長とは練習でするべきもの、大会は勝利を第一に考えなければならない。勝負の場において、成長すらも求めようとするのは傲慢のすることだと。
既存の慣れ親しんだ戦型を使い、既視感が最も多い形を目指し、完膚なきまでに相手を知り尽くして咎め圧勝する。
これこそが今回麗奈が優勝した何よりもの勝因だった。
「「「おぉ……」」」
奥の方、準決勝が行われていた席で微かな歓声が巻き起こる。
声量自体はこちらに聞こえるかどうかというレベルだが、無言と静寂の時間が長い将棋においてはまさに驚愕とも言える反応だろう。沈黙を破る声ほど大きな声はない。
周りの反応を見る限り、どうやら準決勝が終わったらしい。審査員の一人が赤いペンをもってリーグ表に加筆する。
いよいよ最後の戦いが近づいてきた。
最後の相手は言わずと知れた強敵か、名もなきイレギュラーか。
どちらにせよ全力で勝ちに行くだけだ。
準決勝の席で集っていた観戦者達がこぞって散り始め、決勝の相手が視界に入る。
「それではAグループ決勝戦を始めたいと思います。──天竜一輝さん、川内正信さん」
一瞬、時が止まったような気がした。
「……は?」
「川内正信って……!?」
俺と同時に驚きの声を上げる麗奈。
その名前には聞き馴染みがあった。……というより、この県で将棋をやっていて知らない人はいないレベルの人物だった。
川内正信、県支部のトップ──連盟支部銀譱委員会にも精通している男。鈴木会長の側近であり、地区大会の取締役代行も担っている現役の将棋指し。
つまり……この県の『副会長』だ。
「……マジか」
思わず声が漏れる。
今まで自分の対局ばかりに集中していたから全く気づかなかった。
この人、今回の大会に出場していたのかよ……!
「こんにちは、君が天竜一輝君かな」
「あ、はい……!」
穏やかな物言いとは思えないほどの堅物な顔と黒い制服、そして知的さしか感じられない硬派な眼鏡をした男──川内副会長が席を立ち、こちらに歩いてきた。
容姿の特徴だけは鈴木会長と似ているが、その本質は全くの正反対。手厳しい厳格さだけが印象に残る。
俺はその威圧感に押されつつも、指定された決勝の対局テーブルに足を運ぶ。その途中で麗奈に「がんばって」と小声で応援された。
だが今の俺の心境は、驚きと戦略の構築でいっぱいいっぱいだった。
「私は現状の将棋界隈に少しだけ懐疑的でね、今回は無理をいって参加させてもらったのだよ」
そう言って席に座る川内副会長。
どこまで見据えているのか分からない、鈴木会長に似た先見の明を感じさせる眼。
「聞いたよ、君たちはプロを目指すそうだね」
俺が席に座ると、川内副会長はまるで世間話でもするような軽い口調でそう言った。
「……まぁ」
幾度も聞いたその単語に俺は眉を顰める。
「かたや成人を越え奨励会にすら所属していないただのアマチュア、かたや研修会にも所属しておらず女流を放棄した少女。そんな二人が目指すのは天下の門プロ棋士ときた……どちらも達成出来れば偉業だろう」
皮肉混じりの言葉、現実を知れと暗に伝えているのが丸わかりの発言。
しかし駒箱を手に取った川内副会長は、それが些細なことだというような表情でこちらを見た。
「まぁ、大きな夢を持つのは結構なことだ。……だが、弱い者がこの地区を代表して県に進むのは少し困るのだよ」
襟元を軽く掴み姿勢を正す、それと同時に川内副会長の目が僅かに鋭くなる。
それはこちらを格下だと決めつけるような目ではなく、俺の実力を測ろうとする目だった。
「会長の意を示すためにも、この地区から選抜される選手は優秀でなくてはならない。だが安心したまえ、私は勝っても県にはいかないよ、将来を託される者達が我々のようなオッサンであってはいけないからね」
まるで自分の出番は既に終わっているかのように川内副会長は述べた。
「だが決して慢心はしないでくれ、私が出られなくとも枠は潰す。君が県大会に行くためには、私を倒す道しか残されていない」
強い者だけを選別しようとする意思。この小さな地区から強者を育む姿勢を一貫し、後世の発展へと繋げる意を見せる。
言葉の端々に感じるプレッシャーは、やはりこの人が只者ではないことを物語っていた。
「……っ」
向こうが王将を取ったのを確認してから玉将を取り、指定の位置に並べていく。大物を相手にするかのような緊張で、さっきから心臓がうるさい。
昔の自分なら間違いなく戦慄しているであろう相手、そんな相手に俺は今から立ち向かわなきゃいけない。
いや、必ず勝たなければならない……!
「──だから君には勝利を望む。そして、私を越えられるだけの実力を示したまえ」
盤上を睨みつけるような鋭い視線が俺に向けられる。
俺はそれに応えるように、ゆっくりと深呼吸して気持ちを整えてから口を開いた。
「「お願いします」」
黄龍戦地区大会、決勝戦の始まりだ。