第六十三手「その王手は鬼手」
──苦痛。
ただ一言言葉を残すのならば、それが全てだった。
戦いにおいての勝敗なんてものは常にアンバランスで、平等になんて分けられてはいない。負ける者は一生負け続け、勝つ者は一生勝ち続ける。
いずれ来る逆転なんて希望めいた状況は、人生という短い時間で成し遂げられるほど簡単なものじゃない。
ただ投じられた一石に全てを託し、自らの努力と知恵の限りを尽くして敗北する。弱音も、愚痴も、嫌になった感情さえも、その瞬間は噛み殺して、ただ勝ちにいって……負ける。
負けて負けて負け続けて、それでもと立ち上がっても、簡単に押しつぶされる。
出る杭は打たれ、へこんだ杭は放置される。みっともない自分を直視させられているかのような、ひどく残酷な光景だ。
いつしか"その言葉"を発することに抵抗が無くなるまで、そう時間を必要とはしなかった。
「──そっか」
誰にも聞こえない声で、天竜は小さく呟いた。僅かに零れた笑みがその強さを明確に体現する。
そして駒台から銀を持ち、美しくしなやかに盤上へと打った。
△3九銀打。
取れば頭金の1手詰め。ほんの少し躊躇いながら打った銀には、これまでの様々な思いが込められていた。
こんな手が見えていいのか、こんな手を指していいのか。
そして──勝っていいのか、と。
敗北の宣言をするのは自分の役目だとどこかで諦めていた。そして次第に、負けることへの不快感も抱かなくなっていった。
──そんなわけがない。
誰だって、勝ちたいに決まっている。誰だって、負けたくないと叫んでいる。
天竜は耽る。その全てが、今の自分にはもう必要の無いことなのだと理解する。既に自分がいる立ち位置は、目の前の相手と並んでなどいないことを。
盤上から目を離す。
先程まで読みの世界に潜っていた、冷静沈着な瞳。そんな目で天竜は古根の方へと一瞬目を向けた。
──次はお前の番だぞ、と。
「──っ!」
それが自身の手番を意味しているわけではないことを、古根は理解していた。
敗者の宣言、投了の意志、その番が自分へと回って来ている。
(──ふ、ふざけるな……ッ)
▲1七玉。
冗談じゃないとノータイムで古根は指し返す。
素早い手付きには強い意志が込められ、読み切れるはずがないと威圧を含む。
(この王手はただの追う手だ、捕まえられるはずがない……俺の読みは正しい、コイツより正しい。間違ってるわけがない、間違ってるわけがないのに……クソッ!)
将棋には『王手は追う手』という格言がある。
王手とは相手を追いかける行為。捕まえられれば詰みになるが、捕まえられなければ遠くへ遠くへと逃げられ、より詰みにくい形を作ってしまう。
そのため、有段者はむやみに王手をしない。攻めの形を作り、挟撃し、絶対に逃がさない戦略に確信を持ってから王手をする。
逆に言えば、この瞬間に王手をかけてくる天竜の行為はあまりに不気味だった。それが本当に有効な手となる王手そのものなのであれば、天竜の読みは古根を上回っているに他ならない。
(そんなことはありえない、ありえるわけがない……)
そう思いながらも悪寒は止まらず、その悪寒を払拭するために強気に出る。
自分の読みが絶対に正しい、それが将棋においての最善の思考。だというのに、自らの信用すら感じられなくなるほどの"何か"が古根の思考を混在させる。
それはこの対局の雰囲気からなのか、はたまた目の前の男からなのか。
「……はぁ」
僅かに吐いた溜め息が古根の耳に届く。短い、ただ一息つくような吐き捨て。
それはより熟考する将棋ではよくある行為、よくある動作。
だが、身の毛がよだつほどのそれは古根の思考に現局の終点を想起させた。
△2七香成。
天竜は取った歩を駒台に置くと、前方の香車を掴み盤上の上でゆっくりと反転させる。
ゆっくりと、ひたすらスローモーションに見えるそれは一瞬の出来事。そして緩急をつけて素早く打ち付けると、重い衝撃と共に駒音が会場に響いた。
同時に盤上に置かれた駒たちがその振動で僅かに枠からはみ出る。何かを意図したその指し方は、指した天竜本人しか分からない。
ただその一手が"王手"であること。その事実だけが残った。
「は、ぁ……!?」
思わず驚愕が声に出てしまう古根。
空振りのような王手、一見タダに思える成り捨て。わけがわからない、そう思うほかなかった。
──ピッ。
ハッとした古根は左側に置いてあるチェスクロックを一瞥する。
見れば持ち時間を完全に使い切っており、秒読み30秒へと移り変わっている。
「クソッ……」
古根は舌打ちをして頭を掻きむしる。指す手は一種類しか残っていないというのに、動かそうとする手が重い。
まるでその先を望んでいないかのようにすら思える。
それでも古根は相手に考える余地を与えてはならないと意志を固める、少しでも早く指すことは時間攻めにも繋がる。
そう思い、素早く成香を取った。
▲同玉。
△3八銀不成。
「……は?」
一瞬で飛んできたその一手に、古根は反応できずに硬直した。視界が左右に揺れ、気絶にも似た酩酊が古根を襲う。
理解しようとする自分の脳と、想定していた手から大きく外れた際に起きるショックが静寂の会場で起こる。
(読めてない、読めてない、読めてない……ッ!)
取れば△2八金までの一手詰め、ならば逃げるしかない。
たったそれだけの単純思考が、古根の脳内で何十回も繰り返される。
▲2六玉。
△3五金打。
▲1七玉。
△2八銀不成。
(なんでコイツには見えてんだよぉッ!!)
無言の訴えが隣で対局していた他の選手に届く。
選手は古根の盤面をチラっと一瞥すると、ここまでの出来事を一瞬で理解し滝のような汗を流して自らの対局に戻った。
古根はそれをみて更に絶望を深める。
(手が、ない……?)
時間攻め──? 考える余地を残さない──?
全くの無意味。目の前の男は数分も前から思考を終了している、考えることをやめている。既に勝ち取った勝利に、もはや過去を振り返る必要など無いからだ。
未来を読み切った男の表情が古根の目に焼き付く。凡夫凡才の鑑だったはずのそれは、ただ静かな吐息と共に全てを支配していた。
「次元が、違う……」
小さく呟いた一言は誰にも届くことはない。
ただ己を納得させるための言葉に過ぎない。
天衣無縫、技巧無き完璧。いつからそれほどの精度を研ぎ澄ませていたのか。
古根は顔を上げて天竜を見る、その男の顔は以前とは別物。
会場でただ一人、生きているかのような風が彼の髪を靡かせていた。
崖の上に立たされているような険しい目つきからは、何をそんなに必死になっているのかとすら思えてくる。
(……違う、間違っていたのは俺の方だった)
目の前の男はそれほどまでに将棋と向き合っている。勝つか負けるかの境地におらず、恐怖の沼に顔をうずめて探り当てる覚悟を見せている。
それを一様に表現するのならば──棋士そのものだ。
▲同玉。
△2九飛成。
▲1七玉。
△2七銀成。
自らの思考を体現し、全身の意を示すたった一つの右手から放たれる一手。知識と知略の限りを尽くして叡智を越える存在、個としての頂点。
古根には確かにそれが見えていた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
目の前のそれを見てしまった古根の戦意は完全に喪失され、駒台に置かれた小駒たちを掴んで盤上へと投げる。
精巧なる一手、あまりにも鋭利に研ぎ澄まされた刃が古根の喉元を貫く。
ただそこには、完全読み切りの"13手詰め"だけが示されていた──。
◇◇◇
大会が始まってから約1時間が経過した。
古根大地に続いて2回戦も順調に勝ち進んだ俺は、受け付けに勝利報告をしに行っていた。
人数が多いと受け付け側が処理できないことが多く、勝敗報告は常に勝った者が自己申告する形となっている。
「勝ちました」
「はい、天竜さんが勝ちと……」
いつもは負けてばかりだったので、ここに来るのはなんだか新鮮な感じだ。
自虐は慣れているが、勝ちましたなんて自分で言うのは少し恥ずかしい。
「あーすみません、Aグループは少し進行が遅いので、次の試合は2時間後くらいになっちゃうかもしれません」
「あ、分かりました」
後ろを振り返ってもまだ1回戦すら終わってない所が多く、随分と早めに終わってしまったのだと少し不完全燃焼気味だ。
麗奈がいたら「2時間もあるのなら少し目を瞑って脳を休ませなさい。はい、これお弁当」とか言うんだろうか。まぁ実際にお弁当は事前に作ってもらっているんだが、早めに食べるのもありか……。
「おや、もう2回戦も終わったのかい? あれからまだ30分も経っていないというのに……とんだ成長の権化だよ天竜君」
早弁でもしようかとカバンを漁っていると、後ろから鈴木会長が話しかけてきた。手には何やら大会の書類などを持っており、本人も忙しそうだ。
「まだ気は抜けませんけどね、次は2時間後ということで結構時間が空いてしまいました」
「なら麗奈君の試合でも見に行かないかい? 私も次はBグループの視察に行かなくてはならなくてね」
「そうですね、少し覗きにいきましょう」
Bグループの会場はこことは違う2階の会場にある。Aグループが3階、Bグループが2階、Cグループが1階の会場でそれぞれ分けられている。
いちいち階段を降りるのが面倒な点を除けば、これだけの大人数が散開するのは暑苦しくなくていい。最も、麗奈にはいい運動になると軽く一蹴されるだろうが。
「ところで、麗奈君はどのくらい成長したのかね? 天竜君ほどではなくとも、目を見張る成長を遂げていると期待してしまうよ」
階段を降りながら尋ねてくる鈴木会長の言葉に、俺はまたしても軽く首を傾げてしまう。
「え? いや、麗奈は俺の比じゃないですよ。というかあれから俺、麗奈に勝ったことないんで……」
「……冗談だろう?」
「見れば分かりますよ」
怪訝な表情を向ける鈴木会長に、俺は先日までの地獄の特訓を思い出す。そしてその結果が大会に表れているというのなら、その真偽など一目見て理解するだろう。
2階に着きBグループの会場の扉を開けると、そこは生気などまるでない死屍累々の選手たちが転がっていた。
何事かと言葉を発する間もなく、その奥で高々と笑っている一人の少女の姿が……。
「あはははははっ!!」
それはもう、なんというか。言葉に言い表せないほどの悲惨な光景が繰り広げられていた。




