第六十二手「天衣無縫の天竜」
将棋には他のスポーツとは一線を画す行為がある。
それは『負けました』と口にすること、試合の終わりが勝者の一手ではなく"敗者の宣言"によって閉幕することだ。
如何なるスポーツも自身の敗北を認める言葉を放つ行為はない。「ありがとうございました」と戦ってくれた相手に敬意を表すのが一般的だろう。
そのため、もう少しで勝てた、運が悪かった、まだ負けてない、たまたまだ。など負けた側にもいろいろな感情はあるだろう。
だが将棋にその感情を見せる隙間は無い。敗者には敗北を突きつけられるだけではなく、自ら負けを認め先に頭を下げて長時間の沈黙を破る必要がある。
どれだけ有利に進んでいても、どれだけ実力差があっても、たとえ相手が格下であろうが、子供であろうが、それは変わらない。将棋の終わりは常に敗北の宣言によってのみでしか迎えることはない。
「……っ」
黄龍戦地区大会の第一回戦、各々が席に着き辺りのざわめきは静寂へと変わった時間帯。無言の空間が続く中、終盤に入った局面を見つめて現実を直視出来ない者がいた。
目の前には、かつて最弱だった男──天竜一輝が座っている。
対する男の名は古根大地。強豪ひしめくこの地区の中でも、ずっと中堅層を保っていた優秀な選手の一人。常に大会でも好成績を残し、ここ1年間は全ての大会で予選突破を成し遂げる実績を保持していた。
そんな彼が今回の大会で最も危惧すべき存在として名をあげていたのは、成田聖夜と舞蝶麗奈の二人だった。現状この二人がいる限り、優勝は遠いものになっている。
だが今日の大会はグループ分けが行われる特別方式。もしやと思ったが、その考えは当たりを引いたようだった。
古根大地が所属したのはAグループ、強豪である二人のグループに所属することはなかった。
そして相手は更に運がいい、地区大会で最下位の成績を取り続けた級位者である天竜一輝だ。絶好の機会、またとない優勝のチャンス、古根はそう思っていた。
だが彼は今、その拳を固く握りしめ静かに俯いている。
(なんでだ……どうしてだ……っ!)
局面は居飛車対四間飛車の、よくある対抗型から進んだ終盤戦。△5七角成と指した天竜の一手に、古根は悪寒を感じ取っていた。
(なんだよこれ、全然振り飛車通用しねぇじゃねぇか……!)
天竜一輝が大の苦手としている振り飛車を対抗として繰り出し、勝敗は余裕をもって決したかに思えた。
だが局面が進んでも彼の戦線は一向に崩れない。それどころかこちらが悪くなっているではないか、と。
▲同金。
軽い舌打ちを挟みつつ、古根は天竜の角を取る。すると天竜は持ち駒の銀をすかさず放った。
△4八銀打。
悪寒が熱気へと変わる、額が熱くなり焦燥と濁流の汗を生む熱気。
息は荒く、視線はしどろもどろとして盤面を見つめる。古根の思考は"あり得ない"という単語で埋まっていた。
──ピッ。
左側に置かれた対局時計が鳴る。
焦った目でそれを一瞥すると、時間は残り10分を指していた。
「チッ……!」
舌打ち紛いに再度思考を巡らせる古根、そして一度盤面を整理する。
天竜の囲いは居飛車最弱の『舟囲い』。それは対振り最新型の『エルモ囲い』や四間飛車対抗の理想形である『ミレニアム囲い』、その他にも『対振り持久戦』や『居飛車穴熊』などを構築する上での基盤となる囲いだった。
つまり今の天竜の囲いは発展途上段階であり、決して完成型ではない。舟囲いは後の囲いを作るうえでの基盤、あくまで形だけの状態。
だというのに、居飛車と振り飛車の対抗型でこの差、圧倒的大差。古根の鉄壁の美濃囲いは崩壊を目前とし、天竜の船囲いはビクともしていない。
紙細工で出来ただけの泥船が、まるで何物も寄せ付けない戦艦に思えた。
「すー……はぁ……」
古根は深く深呼吸をして息を整えた。
そして力強く、その一手を突き出す。
▲1六歩。
端歩を突き出す一手。玉の逃げ道を作るのは明確で終盤にはあまりにも遅すぎる一手だが、今しかない一手だと考え古根は指す。
先日、聖夜が天竜に負けたというにわかには信じがたい情報を目にした際に『端歩を突かなかったのが敗因』と地域のSNS等で咎められていたのを思い出していた。
そのおかげもあってか、この一手は会心に入ったように思える。
事実この局面で端歩を突かずに▲4八同金と指していたら、△3九銀打と王手金取りの"割りうちの銀"を打たれ、▲1八玉に△4八銀成と急所に成銀を作られ天竜必勝態勢になる。
むしろここまでの手を読んでいたからこそ、天竜は先ほど△4八銀打なんてタダのところに銀を打ってきていた。
ならばその通りにしてやられる理由はない。古根は次に天竜が指した後の2手先を読みつつ、盤面をくまなく見渡した。
やがて15秒も経てば、天竜はその手を動かす──。
△4九銀不成。端歩を突いて逃げる恰好を作っても、天竜は迷わず金を取ってきた。
そして自然と"不成"にする辺りが古根の背筋をゾッとさせる。成っても成らなくても同じような感じがするが、実際は天と地ほどの差があることに両者は気づいていた。
ここで△4九銀成ならば古根側に詰みが無く、▲6二とが先手で入るため攻守が入れ替わる。しかも▲6二とは8二の角を自陣に利かせる攻防の一手にもなるため、形勢は大きく変動する。
だが天竜が指した△4九銀不成は、次の△3八銀成▲同玉△3九金から尻金手筋の"詰めろ"となっている。つまり古根はここで、防御に回るしか手が残されていない。
成るか成らないかの単純な2択でここまでの差異を生み出す、そして天竜はそこを迷わず正解手を選んできた。
今までの彼では考えられない行為、本当につい最近まで最弱の名を冠していた男なのかと古根は疑問に思う。
(なにか『アヤ』をつけれる手は、なにかないのか……!)
古根は焦りを募らせながらも必死に考える。
『アヤ』とは、劣勢側が局面を混沌とさせて読みづらい盤面にすること。特に終盤は局面が相互複雑になるため、例えそれが悪手だとしても『アヤ』をつけることができれば、一発逆転が起こることも珍しくはない。
優勢側の天竜からしてみれば、これは局面が『紛れる』という。そうなれば当然こちらも状況が分からなくなるが、相手も分からなくなる。それは劣勢の局面がいきなり互角になるのと同じ。
この最終盤、もはや寄せの段階に入って天竜側は大まかな手順を読み切っている可能性が高い。そのため『アヤ』をつく一手を指して、盤面を複雑にする必要がある。
(……! これだ……っ!)
古根は残り時間をギリギリまで使い切り、ついにその一手を掴み取った。
▲5八金。
取れる銀を敢えて取らず僅かに離れた位置の金を自陣の守りに利かせた一手は、まさにアヤをつけにいったと言える一手。
持ち駒を使わず盤上の駒で節約した甲斐もあり、駒の損得勘定が大きく変わって局面は複雑化し始めた。
△3八銀成。
▲同玉。
それでも迷いなくノータイムで攻め入る天竜に、調子を取り戻しつつある古根もノータイムで応じる。
ここまで天竜が微々たる反応すら見せないのが不気味だが、古根は自分の今回の将棋に確固たる自信をもって挑んでいた。
そしてそれは、自身の"地区強豪"という汚名を晴らすことにも繋がる──。
どれだけ強き集団の一角であっても、それはただの一角に過ぎない。本当に突き抜けた者は"王者"や"優勝候補"と呼ばれる。
まさに聖夜がそうだった。
彼は優勝を毎回捥ぎ取るような異次元の選手でも無ければ、何度も負けて予選敗退することも多い波のある選手の一人。
だが彼は常に優勝候補と呼ばれ、常に壇上の頂点に君臨する王者であり続けた。それはひとえに、表面には見えない圧倒的な存在感がそれを指し示していたのだろう。
そして古根の目標はそんな彼の背を追い越し、自らがその座に着くことに他ならない。こんなところで一端の選手に後れを取るようでは話にならない。
──決意、ただそれだけが真理一片の変化をもたらす。
△4九銀打。
▲2八玉。
古根は天竜の手を読み切っていたかのように素早く玉を逃がす。▲4八玉と左に逃げてしまえば、金を取られてからの尻金で詰み恰好と読んだ古根。端歩を突いた右の方へと玉を逃がすことで、今までの読みが全て繋がったことを示唆する。
(はっ、どうよこの手は……ッ!)
威勢を取り戻して天竜の方へと視線を向ける古根。ここで▲5八銀成とそっぽの金を取ってくれれば、天竜側の成銀が玉から遠ざかり、後手の攻めが一手遅れる。つまり攻守が入れ替わる。
後手が逆に攻めようとしても、ここから金と銀だけでは恐らく詰まない、さきほど端歩を突いた効果で古根側は逃げ道が広くなっているからだ。そして詰まないということは、やはり攻守が入れ替わるということになる。
つまり、どちらに転んでもこれは古根の作戦勝ちだった。
少し本気を出したらこの通り。将棋はなんて簡単なゲームなのだろうかと、古根は形勢の傾きを確信していた。
◇◇◇
鈴木哲郎は3つのグループを順番に見て回っていた。
予選開始から30分が経過し、一回戦目を終える選手が段々と出始める。しかし対局を終えた者の数は本当に微々たるものだった。
アマ黄龍戦という名だたる名選手達が跋扈する今回の地区大会、皆相当な気合を入れて対局に臨んでいるのが見て取れる。
時間をフルに活用し、自身の全力を出し切っての勝負。今までの簡素な地区大会とは違って、1試合で1時間30分を越えることもザラにある。
そんな中で、開始から30分で対局を終える者がいるということは、すなわち圧倒的弱者か、圧倒的強者かの二択でしかない。
Aグループの方に目を向けると、まだ誰一人として決着している様子はなかった。
「やぁ天竜君、トイレ離席かな?」
そんな中でちょうど席を外した天竜と目が合い、声を掛ける。
本人は別に急いでいる事も無さそうな雰囲気だったため、残り時間にはまだ余裕があるようだ。
「ちょうどさっき終わったところです」
意外な返しに驚き言葉に詰まる。
会場は今も時計の叩く音と、読みがぶつかる静寂の間だけが広がっている。Aグループで終わりを迎えた選手はまだ誰もいない。
そんな中で終わりを迎えたということは──。
「……そうか」
さきほどまで天竜と向かい合って座っていた男に目を向ける。
「まぁ相手はあの強豪の古根君だからねぇ、仕方ない結果とも言えるよ」
古根大地の存在を知っていた鈴木哲郎は、仕方がないと渋々頷く。相手は今年の大会でもずっと好成績を残し続けてきた男。県大会にこそギリギリ手は届かないものの、地区では上位争いをするレベル。素の棋力は二段以上あると言われており、ひとつ格下のBクラスの大会では二連覇を成し遂げた大物だ。
そんな彼に負けるのならば仕方がない。そう、仕方のない結果だった。
「……?」
何を言ってるのかと首を傾げた天竜は、続けざまにその結果を口にする。
鈴木会長の読みが外れたのは、この時が初めてだった。
「──いえ、勝ちましたよ。普通に」




