第五十九手「いざ大会へ」
前回の答え合わせ及び解説。
ep17【詰みに勝る利益無し】
正解は▲3一飛成△同角▲3三金(▲3三桂成)まで。
ポイントは初手の▲3一飛成。自ら飛車を捨て相手の角筋をずらすことで空いた3三の利きに金が入り詰みとなります。
大駒を捨てる手筋は詰みを考える際に非常に重要になるので常に意識していきましょう!
冷たい風が吹く11月中旬。本格的な寒さが訪れる秋の終わり、そして新たな風が吹く季節の始まりでもある。
ある者は電子の海にその身を浸からせ、ある者は自らが持つ武器全てを針金のように研ぎ澄まし、ある者は自身の弱点を打ち消した。
──帰国。ここまでは僅か3週間の、あっという間の出来事である。
久方ぶりに日本に足をつけ、確固たる信念をもってその歩みを進める。空港から地方へ、地方から会場へ、その足音は静かに唸る。
迷いも曇りも払拭して、そこにあるのはただ勝つために凝らしてきた数々の工夫と、気丈なまでの精神統一のみ。
移り変わる街並みと、紅葉の色に照らされながら、二人の影は揺れ動く。静かに、鼓動を添えて。
ひび割れたアスファルトの上を踏みつけ、眩暈の誘う砂利を引きずる。ただの平凡な足音、忌憚的歩行、漫然とした風を受け会場へと目を移す。
衒う表情は果たして虚勢か、それとも本物か、だがそれは本当に些細な問題。
「なぁ麗奈、俺達は強くなったと思うか?」
「それを今から証明しに行くのよ」
愚問だと一蹴して手で髪を払う麗奈。
久方ぶりに見上げた会場は、しっかりと視界の中に納まった。
「……1ヵ月ぶりか」
自分達より強い指し手はもうこの世界にいないんじゃないか、そう思えるほどの過剰な修練を積んできた。
あらゆる知識を頭に詰め込み、脳が焼き切れるほど膨大な局面を覚えた。先を読む力も、不動の如き精神力も身に着けた。
だけどそれでもまだ足りない、足りなすぎる。だがその修行は一旦幕引き、まずは目の前の通過点を越えなければならない。
「いくわよ」
「ああ」
麗奈に不意に背中を叩かれ、気合を入れられる。俺は眉一つ動かさず、目の前の会場を凝視した。
──地区大会すら勝てない男。
かつてまではそう呼ばれていた、そしてその言葉を自分ですら認めていた。今でもその名残が心を締め付ける時がある。
勝てないなんて思っている勝負に勝因はついてこないというのに、いつだってこの理不尽さには自分達から気づくことを強要され続けてきた。堅実な答えをいくら出しても否定される不条理な現状に、それでもと甘んじていた。
俺は静かに笑みを零す。
今まで感じていた緊張感が気合へと変わっていくのを肌で感じ、それでも高鳴る胸の鼓動に初めて"この大会が楽しみだ"と思っている事に気づく。
今度は勝つために──。そう強く思いを込めて会場へと歩き出した。
◇◇◇
その後ろ、もう一人の男が静かに歩みを進めていた。
慣れないバッグに詰め込まれた本は、所々手垢で汚れている。人指し指の付け根には小さく包帯が巻かれており、その先から青紫色となった皮膚が露出している。
努力の結晶とはそれほど大きく見えるものではない、限りなく小さな痣くらいが最大の証左。
その男の表情は一見暗く沈んでいるように見えるが、目の光は一切失っていない。むしろこれ以上ないほどの嬉々に満ちた心情である。
「さぁて、勝負としゃれこもうじゃねぇか」
たった三週間、されど三週間だ。この短い期間で何を積み重ねて来たかが勝負の行方を左右する。
大きな門出に迎えられるのは選ばれし者のみ。決して楽な道ではない、だがいつかは目指さなければならない道でもある。
途中で降りるのも良し、続けて目指すのもよし。ただし中途半端は餌食とされる、覚悟を決めない者から順に食われていく。
青年は一度食われた身でありながら、再び這い出て空を掴もうとしていた。
努力も、才能も、心理も、勝負の世界では等しく結果に繋がるとは限らない。どれだけ完璧なパフォーマンスをとっても、伏兵というのは常に身を潜めている。99%の勝勢から負けることもまた、日常茶飯事に過ぎない。
それでも続けていくのは、ひとえに将棋を愛しているからなのだろう。
揺れ動く風が木々の葉をすりあわせる。低く垂れ込んだ雲の下、様々な足音がいくつも重なって音色を奏でる。
会場へと進む者達の目に、勝利以外の文字は刻まれていなかった。