第五十七手「舞蝶麗奈の心」
前回の答え合わせ及び解説。
ep15【安全な捨て身】
正解は
▲3一馬△1二玉▲2二金打△1三玉▲2一金△2四玉▲3六桂打まで。
初手の▲3一馬が今回のポイントの手になります。△同玉と取れば▲3二金打で詰み。この最後に王様の頭を抑える形で金を打って詰ます形を頭金といいます、詰将棋では頭金の状況を作ることで詰む発想へと繋げる事が出来るので非常に重要な手筋です。後は前回同様の簡単な並べ詰みですね。
初めて彼の絶望した顔を見たとき、心のどこかでほっとした自分がいた。
天才にも負ける時が来るんだなって、少しだけ安心した。
──冗談じゃない。
それが負け犬の思考なのだとすぐに気づいた。今の自分が大して強くなれないから嫉妬しているだけなんだと突き付けた。
あれだけ必死に頑張って、あれだけ必死に努力して。私が一番嫌だと思ったことを、根を上げると思った内容を全部押し付けて叩き込んだ。
そんな彼が負けたのを見て、現実を知ってしまった。私が同じことをやっても勝てないんだって、夢はここで潰えたんだって、心のどこかでそう思っていた。
だから彼が同じようなことを言ってきたとき、なんだか鏡を見ているような気分になった。自分の無能さを客観視しているような、えらく胸が痛む思いをした。
プロになんてなれるわけがない。その言葉を何回頭の中で反芻させたか。
どれだけ大人ぶっても私はまだ子供、頭で分かっていても精神までは並みの大人についてはいけない。時間が解決してくれる問題なのに、時間が許されない世界での勝負。そんなどうしようもない八方ふさがりの状況下に立たされて、私より何歳も年上の彼がこれだけ苦しい表情をしていて──。
そこで引き下がるのって、なんだか無性に悔しかった。
だってそうでしょう。誰もが公平に努力をしているわけじゃないのに、才能や運がものをいう世界なんだもの、目指そうと決めた時には既に手遅れなんだもの。
たかが一回負けたくらいでこんなに絶望している人、見たことないよ。
もう一度立ち上がればいいって言葉があまりにも重くて言えなかった。諦めてもいいんだよって促す方が遥かに言いやすかった。
そんな弱気な姿勢が私の本当の本心なんだなって気づいたとき、無性に悔しかった。どこまでもどこまでも、心が張り裂けそうなくらい悔しかった。
だから、絶対に引き下がりたくないって思った。
勝てない相手に勝とうとする、無理だって分かっている所に突っ込もうとする。それはただ意固地になってるだけなんだって分かってる、でも中学生なんだから仕方ないじゃない。子供みたいに負けず嫌いを見せて、子供みたいに哀れに足掻いて、それでダメだったらいっぱい、たくさん泣けばいい。
でも、挑戦しないで引き下がったら絶対に後悔する。流す涙は少ないと思うけど、嬉し涙も絶対に流さなくなる、それは笑って生きた父の背中に恥じる行為だ。
彼が前を向いた。挫けた精神を引きずり起こすように、立ち上がった。そして今度は自分の口からはっきりと、プロになると言い放った。
そんな大言壮語に私は同調する、もちろん出来ると肯定する。
勝算なんてハナから無い、でも敗算ならいくらでもある。勝つ可能性を追求していくより、負ける可能性を限界まで減らしていく方針の方が勝利には最も近づける。
ああ、すごく詭弁だ。でもそれがきっと、正解への道に続いている。
勝った者よりも負けた者の方から成長していく、そしてその差は常に縮まり続ける。でも決してその立ち位置が変わることない。強者は強者で弱者は弱者、勝負の世界においては勝者と敗者の二択しかないように、立ち位置というのは何かの結果以外で変わることはない。
だから早めの挫折はむしろ正解の手順だ。そこで立ち上がれなければ全てが終わる、だけど彼は立ち上がった。簡単な立ち直りじゃない、覚悟を決めた重い立ち直り。
それも単に夢を追い求めてがむしゃらに進むんじゃない、現実を受け止めてそれでも進む。この違いが今後の進路を大きく左右するのは、私が言わずとも彼は理解しているだろう。
早朝、鳥の鳴く声も入らない防音の室内で布団の摩る音が響く。頭の中はまだ温かく、ふわふわとした感覚が残っている。
隣で静かに寝ている彼の横顔をそっと覗き、暫し堪能した後、優しく肩まで布団をかける。
その後ベッドから降りた私は、洗面所へと向かい冷水の部分だけ蛇口を捻る。呆けた顔が映る鏡を一瞥して、水を両手で掬い上げると、勢いよく顔に当てた。
冷たい水が凝り固まっていた泥を流すように思考を解放させていく。再び鏡を見ると、多少マシな顔になった。
「──よしっ」
頭の中では、既に今後のスケジュールが完成している。それは幾度も悩み、考え抜いた完璧な特訓内容。常人向けじゃない、修行僧向け、私が根を上げるギリギリまで切り詰めた短期間の特訓法。私の物差しで測っただけのもの、師匠の基準は考えていない、できる前提で組んでいる。
私が彼の何を知っているのかと聞かれれば、何も知らないとしか答えられない。だから私ができるのは、私基準で考えた土台、そこに何を乗せるかは己次第の課題だ。
もちろん助け合いながら、支え合いながら進んでいくのも大いにありだと思う。だけど私達は、互いにぶつかり合いながら進んでいく道を選んだ。互いが互いの苦手とする部分を執拗に攻撃することで、その部分を克服する手段を用いた。
バッグの中から過去の自分の棋譜を手に取り、読み返す。
記憶力がないから過去の自分の棋譜を思い出すこともできない。頭が悪いからソフトで答えを知っても、どうしてその答えが正しいのかの理由を知るまでに膨大な時間がかかる。
認めよう。私達は弱いと、こんなことにも苦悩する程度の才であると。だから私達は弱者のままで良い、弱者のまま強者を屠ることを目標にしていけばいい。
強者に成り代わるのはただ一回、勝つ瞬間だけでいいのだから。