第五十六手「不可能への証明開始」
前回の答え合わせ及び解説。
ep14【吊される王様】
正解は
▲2一金△2四玉▲3六桂打まで。
空き王手で玉を釣り上げ桂馬で吊るす、これも吊るし桂の一種です。
今回は既に腹金が打たれてしまった状態の問題ですが、実戦では▲2二金の前に▲1三〇と玉の頭に何かしらの駒を打って△同桂と退路を塞いでから▲2二金と腹金で詰ますのがよくある詰み筋ですね。
今回は持ち駒が無かったため桂馬を取りつつ上部での詰め上がりとなりました。終盤で駒不足になりがちの場合はこの桂馬を取るパターンで詰み上がる事もあるので、ある程度将棋に慣れてきた方も忘れずに覚えておくことをおすすめします…!
その言葉を告げた面影が、かつて尊敬していた人と重なった。
「麗奈……」
暗く狭い箱の中に光を灯して息苦しさが無くなる。忘れようと記憶から消し去っていた言葉が鮮明に、鮮明に戻っていく。
どれだけ無謀だと蔑まされても、どれだけ小さな可能性でも。麗奈は決して潰えない希望の目を見せて笑った。
できるできない、じゃない。──やってやると、口にした。
「一輝だって、──そうでしょ?」
それは彼女から自分への、核心的な問いかけに等しかった。
「……」
水面の奥底に沈んでいた鼓動がドクンと跳ねがる。失っていた全身の神経が沸き立つように感情を揺さぶり、氷の様に固まっていた口元を容赦なく溶かしていく。
霞んでいた海の色が、赤く鮮明に光った。
「……なんで、こんな簡単なことを忘れていたんだろうな」
震えた手で触れた胸は、確かな鼓動を持っていた。
「──人間、だからかな」
俺はその大敗に意味を持とうとしていた、ただの負けだと思いたくなかった。今まで負け続けていた自分が成長したのだから、今度は勝って主役になれると。辛勝や惜敗はあっても、大敗することはないと慢心していた。
それはきっと心のどこかで勝機があって、その可能性に縋っていたに違いない。今の自分なら負けないはずだと、勘違いをしていたんだ。
そんな俺を明確に突き落としにかかった龍牙のおかげで、俺の心は粉々に砕け散った。
怖かった、諦めた。絶望を通り越して心が折れた、これ以上ないほどトラウマを覚えた。それほど鮮明に刻みつけられたから、それほどの痛恨を心に突きつけられたから。
だから俺は、あいつの指し手を覚えている。
嫌だった手も、罠に嵌められた手も、全て覚えている。それほどあいつの手は痛く、忘れられないほどに苦痛で、夢にまで出てくるほどの印象を刻み込まれてしまったから。
だから俺は、全部覚えているんだ。たった一度の戦いで、感想戦すらやってない対局でだ。
これ以上の手札を得て、何を怖気づいているのだろうか。
凝り固まっていた右手に、ようやく指し手の感触を思い出す。あれだけの恐怖で震えなかった手が、今や興奮で震えている。
その手を強く握り締め、砂浜に重く拳を下ろした。
「……可能性はゼロだ」
そう、可能性はゼロ。限りなくゼロじゃない、間違いなくゼロだ。
「そうね。きっと可能性なんてハナから無くて、不可能なのかもしれない」
だが、その不可能に挑戦することをどうして愚かと揶揄されようか。蛮勇と指摘する賢者は、その者が真に答えを知った探求者だとなぜ気づかないのか。
勝利から得られるものは常に喜びと成長へのモチベーションだが、敗北から得られるものなんて小さな糧と悔しさくらいしかない。
──それはもう、計り知れないほどの悔しさだけが得られるんだ。
その苦痛に涙する心は勝利からじゃ絶対に得られない、惜敗からも得られない。それは完膚なきまでに負けた惨敗からのみ得られる体験だ。
その気持ちを背負わない者に、勝者が名乗れるはずがない。
いつの時代だって勝鬨を上げられるのはチャレンジャーだ。何かを破り、何かを為した者だけがその拳を天に突き出せる。
プロ棋士にはなれないって? 可能性がゼロだって──?
「……ゼロも、あるじゃないか」
そこにはちゃんと不可能という可能性がある。無ではない、不可能だという事実だ。
これが選択肢に入っている時点で、答えは決まったも同然じゃないのか。
それこそ絶好の機会だ。誰も達成できてない不可能への挑戦なんて、プロという凱旋を通るならちょうどいい称号となるに違いない。
「……ひとつだけ、誰にも負けない特技がある」
「聞かせて?」
麗奈は俺の言葉を静かに待ち続ける。
大きく息を吸って頭に酸素を送る。20秒、30秒。……沈黙して呼吸を整える。
目を瞑り、波の音が聞こえてくるほどにゆっくりと視野を広げた。
「……続けることだ」
呪いでも口にするかのように、重く告げた。
そう、ずっとずっと続けてきた。眠くなれば寝るように、お腹が空けば食事をとるように、暇さえあれば無限に将棋を指し続けていた。
あれだけ負けていたのに、あれだけ勝機が見えなかったのに、それでも俺は将棋を指してきた。
それしかやることがなかったわけでも、それ以外の人生を封殺されたわけでもない。己の意思で、弛まぬ一歩を永遠と繰り出し続けていた。
それが努力でもなければ、嫌々やっているわけでもないことを知っている。なぜなら、俺は苦痛が大っ嫌いだからだ、それが嫌な事なら挑戦すらしない男だからだ。
なら、どうして続けてたかって──。
「ああ、そうだよ。簡単なことだったじゃないか」
いい加減目を覚ませよ天竜一輝、お前が将棋を続ける理由なんて分かりきってることじゃないか。
天才という簡略的な単語に憧れて、戦略という抽象的な印象に惹かれて。そんな稀有な挑戦を表現できる純然たる競技があったから、知略と頭脳を以て戦う、頭が悪くてもゲームみたいに楽しく勝ち負けを決められる『将棋』という存在があったから……!
だから縋る思いで、この魔物が潜むボードゲームを骨も残さずしゃぶりつくしたんじゃないか。幼稚な身でありながら、その全てを手に入れようと足掻いたんじゃないか。
次々とやめていく将棋仲間を見送りながら、何年も何年も、こんな歳になるまで続けて、孤独な道をたった一人で歩み続けて。
大会で負けた日も将棋を指して、たまたま勝った日も嬉しくて将棋を指して、何もない日も指して、指して、指し続けて──。
そして龍牙に心を折られた今も、また指したいって思ってる──!
「──なんだ、師匠はもう持ってたんじゃない」
期待の眼差しを向ける麗奈。その表情に何が映っているのか、今の俺がどんな表情をしているのか、それは俺ですら分からない。この場で麗奈だけが見えている。
鮮烈に燃え滾る闘志に赤い影が一瞬走駆する。かつて慕っていた彼の影が、ぼんやりと浮かび上がった。
『一輝君、君は──将棋が好きかい?』
あの日問いかけられた言葉が頭の中を反芻する。意味なんて無いと思っていた一言一句に、自ら勝手に意味を見出す。
そうして彼が言っていた言葉の真意に、俺はようやく気づくことが出来た。それは多分遅かった返事かもしれない、だけど──。
「────」
滔々と過去を振り返る。
幾度も負けた、幾度も諦めかけた。無謀に挑戦することを心のどこかで嘲笑い、突き付けられた現実の勝敗に心を折られた。紛い物の覚悟だと棘を突き刺された。
だけど、それでも、それでも感情が必死に自分へと訴えかけたんだ。
戦えと囁かず立ち上がれと鼓舞し、前に進めと言わず強い一歩を踏み出せと叫ぶ。今、俺はその感情を吐き出しそうなほど苦しんでる。
諦める気持ちが潰えるほど、無駄だって思う自分を押しのけるほど、どうしようもないほどだ。どうしようもないほど、俺はその手に寂しさを覚える。
あれだけ苦悩させられたのに、あれだけ痛めつけられたのに、それでもこの手は熱気を求める。新たな一局を求めようと前に出る。
きっとそれが将棋指しとしての性で、今の自分が本当にしたいことだから。憚らず、戦慄を凌ぎ、再び天へと駆け抜けたいから。
だから、あれだけ負けても続けてたんじゃないのか──。
だから、今も指したいって思ってるんじゃないのか──。
将棋が、何よりも、誰よりも──『好き』だから──。
「──そう、だったな」
鮮明な飛翔、小波に消えかかる淡い竜の影が浮かぶ。束の間、影は粉微塵になって消え去り海を揺らした。
麗奈の足元を覆うほどの潮が満ち、強めの風と共に波の音が大きくなる。待ちくたびれた黎明の鐘が鳴り響く。
聞こえる者は場所を問わず人を選び霹靂を放ち、そして刹那に昇竜を感じ取った。
「俺が今したいことは、将棋から逃げることでも将棋と向き合うことでもない。1分1秒でも多く将棋を指すことだ。プロを目指すから将棋を指すんじゃない、将棋を指したいからプロを目指すんだ」
麗奈の隣に並び、正しい想いを口にする、魂からの本音を証明する。
そして右手を強く握りしめ、麗奈の前へと突き出した。
「ありがとう麗奈。おかげで決心がついた」
「別に気にすることないわ。──相棒なんだから」
互いの拳が強くぶつかり合う。
今まで小さく見えた華奢なその手は、誰よりも強い意志が込められている事に気づく。
「目にもの見せてやるわよ、全てはここから始めるんだから」
「ああ、やってやるか。俺達凡人が天才を下す幕開けを──」
沈む夕日が見せる眩い輝きが、二人を逆光で照らし影を生む。
「「プロ棋士になる」」
誰も知らないたった二人だけの決意と誓いが今、ここに立てられた。
それは生半可な覚悟では進み行けない世界への挑戦。変わらないとされた統計に風穴を開け、天才達に抗うことを決めた瞬間。
負けてもいい、挫けてもいい。ただ挑むことをやめない覚悟を誓った。
その影は地を見ることなく天上を見つめ飛翔する。どこまでも、永遠に。そして煌めく星々を前に、これ以上ない宣戦布告を叩きつけた。
彼らはたった一人の小さな男の覚悟など気にも留めない、たった一人の小さな少女の決意など耳にも入らない。
だが、確かに今この瞬間始まった。全ての将棋指しに対する挑戦が──。
見えぬ震撼に波が揺れ、感じぬ影に雲が割れる。沈む夕日の中で落ち行く赤い陽とは対極に、赤き影が昇り行く。竜の将棋は芽を開花させ、勝負師としてのその瞳に正しき心情を映す。
二人は向かい合って目線を交わすと、海に背を向け進みだした。
──これが、不可能に対する証明開始の瞬間である。