第五十五手「唯一は棋士の定跡」
ep13【詰み形へ(2)】
正解は
▲2一角成△同玉▲1一飛打△同玉▲2三桂打△2一玉▲3一金打。または▲2一角成△同玉▲1一飛打△同玉▲2三桂打△同飛▲1二金打です!
どうでしたか? 7手詰め、案外解けるものでしょう。形さえ覚えれば詰将棋とはこんなにも簡単に解けるようになるのです。
この問題は『吊るし桂』と呼ばれる桂馬の特殊な挙動を活かした詰みが特徴的ですね。桂馬はひとつ飛び越えて利きを発生させるため、将棋に置いて合駒が利かない唯一無二の駒でもあります。
そして今回はそんな唯一無二のお話です。
我々は皆決まって同じ手を指すが、その手は唯一無二のものに等しい。指し方も使う時間も込められた思いも全て人によって違う。指された一手は定跡であっても、その手は決して重なりはしない。
また我々が挑む相手は機械ではない、人間である。
機械が強さを定めるというのなら、陸上競技は並外れた高機能を持つ機械が走ればいい。野球も機械が投げ、打てばいい。性能という面においてはそれが最も最適解であることに間違いはないのだから。
だがそれは人類にとって非常に無意味な抗争だ、スポーツという一種の競技を剥奪するような真似をしている。
故に我々は人と競い、戦っていく。
機械に勝つためではない、人に勝つために。機械を越えるためではなく、人を越えていくために。
だがそれでも、きっと世論は常に進化を求める。人々のみが高みを目指す競技においても、彼らは最適解を編み出そうと進歩してしまう。
今や機械が人を学習し、人がその学習した機械を利用しているというのは言うまでもないことだ。
だが常々忘れないで欲しい、早計に答えを求めないで欲しい。人は機械に、AIに勝てない。──本当にそうなのかと。
正解に最も近しい存在であるAIは『四角い円』を作り出すことはできない。だが我々人間は『四角い円』に最も近しい論理を構築することができる。それは曖昧で間違いな解答だが、妥協と納得が得られる答えであるだろう。
AIにはその曖昧な概念を納得することはできない、その答えを導くすべはない。何故なら、人の考え方は常に絶対なる正解を求めていないからだ。
AIが100の最善手を読むのなら、我々は20の最善手と1の妙手を読むだろう。
AIが勝利の方程式を見つけたのなら、我々は千日手の解を編み出すだろう。
AIにもAIの弱点がある、天才にも天才の弱点がある。
我々がAIと1000局指せば1000局負け、1万局指せば1万局負けるのは言うまでもない結論だ。
──だが、次の1局もAIが勝つと思うのなら、それは間違いである。
AIが指す将棋は常に99点と言われ、対し我々が指す将棋は良くて70点と言われている。だが、AIが逃したその1点を我々は常に解き明かしている、AIが解けなかった問題を我々は常に正解し続けてきた。
それを見越さずして凡人が神に敵わないなどと、早計も甚だしい。
奴らは神ではない、神に最も近しいだけの紛い物だ。だから絶対に勝てないと決まったわけではない、絶対に越えられないと決まったわけではない。
将棋という魔物が10の220乗という広大な盤面を繰り広げた。我々が束になったところでその欠片ほども解き明かすには至らないが、AIはその1割を理解することが可能だろう。
ならば残り9割はどうなる? 残りの手は誰が発見する?
それはAIの力をもってしても見つけられなかった一手だ、到底自分達に発見することなど不可能だと思うだろう。
しかし、将棋における全ての手は万人に指す権利が与えられている。例えそれがAIにすら発見できない神の一手だったとしても、我々に指せないと決まったわけではない。
天文学的確率を越えた途方もない確率の果てに、その一手必ず眠っている。実力だけでは指せない、奇跡が起こってもまだ足りない。
だが、素人でも指せる簡単な一手──。
それが将棋の最大の魅力であり、将棋が美たる証左でもある。
目の前の一手をただの一手にするな、目の前の棋譜を己が全てと完結するな。棋士の本領とは、唯一無二の手を常に指し続けられることである。一見平凡に見えるその定跡から、計り知れないほどの未知を込めて指せること。それが棋士の本領であり、棋士にとっての真なる定跡の結果である。
だから私は、この言葉を残して未来ある者達へと希望を託そう。
──『唯一は棋士の定跡』と。
◇◇◇
稀代の才能を得た者だけが登れる階段。それ以外は階段があることにすら気づかず、趣味という娯楽の一環として将棋を享受する。
的皪として光り輝くその海は、惨めな自分との対比に見えたのかもしれない。
「──いいえ、決してバカげてなんていないわ」
麗奈は俺が浮かべた諦めの色を塗りつぶすようにこちらを見た。
「天才が苦戦してるからと言って、私達凡人が辿り着けないと決まったわけじゃない。天才だけがこのゲームの主権を握ってるわけじゃないのよ。さっきも言ったけど、神の一手は誰にでも指せる」
怒っているわけではない、目を覚ましてほしいと訴えかけているのだろう。心の中に柵を作り現実を寄せ付けていないから、その柵から出て欲しいと。
だが、その柵の鍵は内側にも外側にも付いていない。
「……その哲学は逃げてる」
神の一手が誰にでも指せるはずがない、それは理想論だ。
「そう? 私はそうは思わないわ。だってこれは経験談だもの」
「経験談……?」
「師匠と初めて戦った時、あの横歩取りを目の前にして私は感じたのよ。『答えはあったんだ、不可能じゃなかったんだ』って。どん詰まりしていた私の壁に穴を開けてくれたのは他でもない、師匠だったんだから」
些か愕然として舌を巻く。
「俺が……?」
確かに初めて麗奈と会った時、麗奈は平常心を欠いていた。余裕がないのが見て取れ、今にも爆発しそうなほどに焦っていた。
だけど、麗奈はあれから一度たりとも焦燥を浮かべたことはなかった。何かの道を切り開いたかのように進歩と模索に時間を費やし、日々を充実しているようだった。
それはもしかしたら、今の俺にはなくて、麗奈は見つけられた答えなのかもしれない。
「師匠が見せてくれたその域を、私は辿りつけない場所だとは感じなかったわ」
「……神の一手は誰にでも指せるから、か」
「ええ。でもそれはきっと簡単じゃない。だからその穴埋めが課題ね」
「麗奈は難しいことを考えているな……」
それは論理的に紐解いていくか、感覚的に紐解いていくかである。
直感か思考か、それとも両立か。少なくとも将棋はひとつの道には繋がっていない、だから麗奈は己の在り方を述べたのだろう。
「本当は師匠も分かってるのよ。この負けは大した一敗じゃないって。相手は県代表なんだから負けるのは当然、仕方のないこと。でも敗北したことによって、今の実力の限界がその一試合で定まってしまったような気がして悔しい。だから負けたことを帳消しにはできないって」
視界に映る黄昏がその心情を反射するように、麗奈は俺の心意を知っているような口ぶりだった。
「また立ち上がればいいって思いたいけど自分には時間がない。時間がないから焦りが募る。あれだけ特訓したのに、あれだけ苦労したのに、地区大会を勝ち切ることもできないようじゃプロなんて目指せない、間に合う気がしない。間に合う気がしないから希望がない。しかもそんな状態で、"お前はプロになんてなれない"という正論を常日頃から自他ともに浴びせられている。そんな状況で1回でも負けてしまったら心が折れるわよね」
なんでそんなに分かるんだ。なんでそんなに分かったような気でいるんだ──。そう答える前に、麗奈が言葉を続けた。
「分かるわよ。だって私も今の師匠と同じ立場なんだもん。──でしょ?」
「……!」
忌憚ある問答に意味なんてない。隔靴掻痒の気持ちを弾け飛ばすように、麗奈はついにその本音を漏らした。
「そうよね、プロなんて目指せるわけないわ。現実的に考えてそれが当たり前だもの。その考えに陥ったら、モチベーションもやる気も全部失われていくわよね」
当たり前の正論を鼻で笑うかのように、麗奈はそう告げた。俺の言った言葉をなぞり、反復し、逃げ場を無くす。不羈を諭すように、馳騁縦横を促すように。
プロになんてなれるわけがない。現実を見ればそんなもの誰だってわかる──。
「──だから、私は現実なんて見てないわ」
「え?」
麗奈はその稚拙な考えを一蹴するかの如く、両断した。
「私は現実なんて見てない。一生死ぬまで夢を見る、夢を見て生きていく」
「それは、現実から逃げるってことか……?」
「ええそうね、逃げるわ。でもそれの何がいけないの?」
狼狽する俺に、あたかもそれが正しい結論であるかのように己が哲学を叩きつける。
現実逃避。それが正鵠を得るなどと、ただの中学生の考える結論じゃ──。
「私達は正気じゃない。泥沼のような狂気の世界に進んでいる。だから現実を見て項垂れるくらいなら夢を見て突き進んだ方が幾分マシなのよ。だって統計的に見たら女性のプロ棋士は過去0人。この歳で奨励会も入らずプロになった人も過去0人よ? おまけに私は研修会員ですらないし、県大会を優勝した実績もない。プロを目指すのなら、大前提として私の年齢で既に全国大会を優勝するくらいの天才でなければならないもの。今の私にプロになれる要素なんか欠片も、たとえ奇跡が起こったとしても1%も残っちゃいないわ」
麗奈は自分がプロになれる確率が皆無であることを理解している。理解した上で、その現実から目をそらし夢を追いかけると口にした。
「そこまで分かってるなら、そこまで理解してるのなら、だったら……!」
「だからこそ知ったことじゃないのよ。そんな情報もそんな統計も、全部知ったことじゃない。──だって私は、プロ棋士になるのだから」
「……!」
賢人が競い合うボードゲームでこの回答、この結論。神が居たら三度笑うだろう。
──プロ棋士になる。
幾度も聞き、口にした言葉。何度も心に決め、貫こうと固めてきた単語。しかしその重みは自分のとは全く異なっていた、比にならなかった。
「目を背けるなって? 現実を見ろって? 人生の答えを決めろって? ああもうそんな客観的思考、正論なんて飽きるほど聞いた。これは私がなると決めた私のための物語なのよ。主役は私で読者も私、私自身がその先を見たいから描くのよ。それのなにがいけないわけ?」
その口ぶりからは、何度も否定の言葉を言われたことを物語っている。既に幾度も考え悩み抜き、そして今の結論に至った意志の強固さを表している。
麗奈は最後まで決して折れなかった。自尊でも意固地でも自己中心的な考えでも、その考えを捨てることはなかった。
そして、現実を見て夢を追いかける必要なんてないと気づいたのだ──。
「だから何度だって言ってやるし、何度だって吠えてみせる。私はプロ棋士になるって。夢を見て、現実から逃げて、それでも強くなるって。私達は天才じゃないのだから才能で勝負しなくたっていいのよ。全力で学び、全力で挑めばいい。その未来は決して明るくないわ、道だって間違えてるかもしれない。だけど後悔だけは死んでもしてやらない、してやるものか」
衝撃だった。
夢とは、目標とは、僅かでも可能性があるから挑戦するものだと思っていた。無謀な事は避け、社会に身を置き、分相応の人生を送るものだと。
ここはフィクションの世界じゃない、現実だ。その現実で不可能を破れると言い切れるのは、どれだけ気が狂っているのか想像に難くない。
だが麗奈はその選択を鼻で笑った。なぜ挑むのかと訝しむ者達を嘲笑った、不可能を前にして挫折していく凡人を置き去りにして這い上がった。
──何故なら、できると思っているからだ。
他人に否定されようと、統計的に指摘されようと。それは彼らの世界で結論づいた答えに過ぎない。現実はいつだって奇怪で、不可思議で、常識なんて通用しないことがよく起こる。
なら、自分の為すべきことがどうして他人に不可能だと決めつけられるのか。この玉石混交の競争社会で選別が既に終わっているなどと、どうして分かった気でいられるのか。
そんなものは人の可能性というものをあまりにも閉ざしている、成長の限界を見限っているようなものだ。
不可能ならば、可能にしてしまえばいい。夢が叶わないと言うのなら、夢を現実にしてしまえばいい。
口にすると大言壮語も甚だしいだろう。
だが、たった一人の中学生がこの考えに至ったのだ。これだけ現実を突きつけた俺に対して、自らの狂言を口にしてみせたのだ。
屹立を前に膝を折るくらいなら、目を閉じて登ってやると。
「……」
波の音で、埋もれていた心臓の鼓動が耳に入る。施錠無き柵が本当は脆いことに、心のどこかで分かっていたんじゃないと頷かされる。
不可能なんて知ったことじゃない。堂々と歩み、自信をもって闊歩すればいいと。
「人生の後悔なんて、墓場ですればいいものじゃない?」
まるで当然のように、麗奈は言い放った。
蹉躓にあうことを一切恐れず、ここまで突き進むことを豪語できるなんて、果断を越えて英断だ。
そんな麗奈の堅牢なまでの強固な意志に、思わず切望が漏れた。
「……俺は、プロ棋士になれると思うか」
「ええ、思うわ」
「龍牙を越えて、他のどんな相手にも勝てるようになれると思うか」
「もちろん」
麗奈の返答は、あの時から一切変わっていなかった。
「無理だと思ってもいい、出来ないと思ってもいい。逃げてもいいし、努力だって身の丈にあったものでもいいのよ。ただ全力で目指していく、満足するまで諦めない。だから統計的根拠で否定されようと、大勢の人が無理だと思おうと、私だけは絶対に諦めてやらないわ。だから有段者までこれたのよ」
自らの傲慢を踏みつけて、正道に足跡を残す。決して自分を追い詰めず、程度にあった満足する努力をして頂点を目指す。
周りが時間を削り命を削り誰よりも先にと強くなっている最中、麗奈は自身の最大パフォーマンス以上の努力をしてこなかった。
それが正解なわけがない、そんなことをしたってプロになれると思う人はいない。
だが、彼女の人生はまだ終わっていないのだ。最後の最後まで結果は分からない、例え予測できる結果であったとしても、まだ開かれていない箱の中身を当てることなんて誰にもできはしない。
だから、その手法を貫いてみせた。唯一無二の考えを、こんなにも若い少女が持っていた。
「私達は彼らみたいな天才にはなれないけれど、彼らだって私達には絶対になれない」
麗奈は波打ち際に立ち、両手を広げて夕暮れの風を浴びる。
誰よりもその辛さを知っているからこそ、誰よりも諦める道を選ばなかった。
「自分が誰かの下位互換だなんて誰が決めたのよ? 自分は唯一無二の存在だってどうしてそう思わないのよ?」
それを為そうとしているのは稀代の天才でも、時代の寵児でもない。どこにでもいるたった一人の小さな女の子だ。
「私がそうであったように、師匠にも決して他に劣らない武器がある。それを極め続ける限り永遠の敗北なんて無い。無限の挫折なんてありえない。今回は負けたかもしれないけど、次も負けるとは限らない。今は壁にぶつかっているかもしれないけど、明日になったら突破できるかもしれないじゃない」
まだ実績もなく、誰の目にも価値ある原石と思われていない。華奢で、小柄で、まだまだ子供に見えるのに。それでも影は凛々しさを帯びている。
だというのに──。
「──私達が、その唯一になればいいのよ」
まるで絵に描いた解語の花のような美しさを醸し、ひらりと舞う蝶のように身を羽ばたかせる。光り輝く海の前でその輝点を影にする。
そんな小さき少女は、俺の考えへ向けてこれでもかと笑みをぶつけた。
「だって──『唯一は棋士の定跡』なんだから!」