第五十四手「将棋という魔物」
ep12【詰み形へ】
正解は
▲1一飛打△同玉▲2三桂打△2一玉▲3一金打。または▲1一飛打△同玉▲2三桂打△同飛▲1二金打です!
5手詰めと中級者向けの問題でしたが前回の問題が解けていれば簡単に解けたと思います。これは詰将棋の基礎を教える時によく使う手法で、いきなり手数の長い詰将棋を解かせるのではなく、その途中図から解かせることで最終的に手数の長い詰将棋を解けるようになるというものです。
もし子供や生徒に教える機会があれば是非こういう出題の仕方をしてみてください。
嫌なことを全部忘れるくらい、体を動かした気がする。嫌なことを全部忘れるくらい、笑った気がする。
「ふー……」
遊んで遊んで、遊びまくって──。気づけば夕日が沈んでいる。そうして息が上がるころ、俺は海辺に腰を下ろして首を重く下げた。
「……ありがとな」
「楽しめたなら良かったわ」
隣に麗奈が座り肩を並べる。夕暮れが砂辺を照らし、二人の小さな背中に影を作る。その美しい光景に身を浸りながら、俺は小さくため息をついて頭を落とした。
「ああ、楽しかった、本当に楽しかったよ。──こんな日が毎日続けばいいのにって、そう思えるくらい凄く楽しかった」
溜まった息を海へと吐き捨てる、同時に笑いが溢れる。そして、スッキリしたようなその笑みは、苦笑のような、諦めがかった笑みへと変わった。
「だけど楽しい時間ってのは決して長くは続かない。いつか終わりが来て夢から覚める、現実へと引き戻される。そうしてまた辛い日々が始まるんだ、何もない明日が必ずやってくる」
そんなことは言わなくても分かる。だけど、分かっていても口に出るものだった。
「現実なんてクソくらえよね」
「ははっ、全く同感だ」
麗奈から漏れた意外な言葉に思わず笑いを零した。
「……」
それから数十秒、長い沈黙が波の音で包まれた。その場から動かない俺達に、グエンさんや周りの人達も空気を読んで立ち去っていく。
麗奈は俺の答えを求めている。ここに来る前に問答したあのやり取りの続きを、俺の出した答えを聞きたがっている。
それは分かっているつもりだ、分かっているつもりなんだ。……でも、簡単に決められるほど俺は剛毅果断じゃない。まだ、答えは出そうもない。
ただ、それでもこの景色は綺麗だった。
情景は人の心を動かすなんて言うが、蜃気楼のように二分されて、影を作り落ちていく夕日の美しさに思わず口元が緩まった。
「……負けることには慣れたはずだったのにな。勝てないって、分かり切ってたはずなのにな」
吐いた言葉に溜め息が混ざった。諦めも、乾いた笑いだって出た。渦巻く感情が複雑に絡み合って、考えることすら面倒くさくなってくる。
麗奈は無言で海の方を眺めていた。
「……うまく言葉に表せないけどさ、納得だけはできてないんだ」
「うん」
「まだ中途半端、だからかもしれない。……でもそれは最後までやり切っても無駄に終わる気がするんだ、無意味な徒労として後で絶対後悔すると思うんだよ」
「……うん」
それは酷い後ろ向きな発言だった。やらずに後悔するんじゃなくて、やりきって後悔することを恐れている。まるで初めから逃げることを前提とした考え方だ、叱責されても文句は言えない。
しかし、麗奈はそれでも前を向く言葉を口にした。
「……でも、師匠は必ず勝てるって私は思ってる」
無意味な堕落には無意味な向上をぶつけるように、同じ視線で言葉を被せる。上からでも下からでもなく、同じ目線で。
「ああ、勝てるなら勝ちたい。気合や根性で勝ち抜けるなら俺は今すぐにでも立ち上がるし、努力や知識だけで乗り越えられるならいくらでもその苦痛を耐え抜こうとも。……だけど、そんな甘い世界じゃないんだって改めて痛感した」
たった一度の敗北で、全ての夢を壊されたような顔をするなんてあまりに滑稽。おかしいだろう、子供に見えるだろう。だけど俺にとってそれは一度の敗北じゃない。今まで体験してきた無数の敗北の中のひとつだ。
そしてその敗北は、ある程度の気持ちで挑んだ負けと、全力で挑んで負けたものの違いだった。
「どんなに行き詰っても答えは提示してくれない、正解はない。あるとすれば納得と妥協。それをせずに前に進めるのは幸運に恵まれた者だけ、だから正解なんてものはない」
そう、最終的には納得するしかない。前に進むのか、ここで終わるのか。突き詰めれば単純な二択になる。
だけど、人はそんなに簡潔な存在ではないんだ。たった一度きりの人生をやるかやらないかの二択で決められるほど、俺にその度胸は備わっていない。
プロ棋士になれなかった者は皆、その後の再就職が困難になるのをよく聞く。
今まで将棋に全霊を捧げていたのもあって、学歴や実績のないその者達が日の目を見るのは希有とされる。
それが例えプロ棋士になる一歩手前、奨励会の三段であっても同じだ。四段になることが出来ればプロ、目の前に迫った輝かしい未来。だがそのたった一つの段位の差で全てを失い、他の失敗者と同じ道を歩むことになる。
毎年何人の将棋棋士たちがそうなってきたのか、考えたくもない。
「……」
人の人生は、そんな簡単な二択で決められるほど甘くはないんだ。
「……ないんだよ、正解なんて」
泡沫に消えてなくなりそうな声で、掠れるように吐き出した。
頭を抱えて目を閉じる。
中学生相手に何言ってんだろ。自分自身のことなのに、どうしてか口がよく滑る。人生相談なんて家族にもしたことがなかったのに、心情の表裏がかけ離れすぎて自分でもよくわからない。
「……ごめんなさい、今師匠が悩んでることに私から告げられる助言は無いわ。だってそれ、最終的には私が決めるものじゃなくて、師匠自身が決めることでしょう?」
麗奈は少し悩んで、そう答えた。
「そう、だよな……」
耳が痛かった、視界が歪んだ。
聞きたくもない正論を正面からぶつけられて、ほんのわずかの慰めを期待した自分をバッサリと切り捨てるように結論を叩きつけた。
しかし、麗奈はこう続けた。
「だからね、これは師匠と"同じ"悩みを抱えてた私の答え」
立ち上がり、風が吹く海の方へと足を向ける。
「仮に今、私自身が大きな選択肢を目の前にして、それがやっても無理なことが分かってて、それでもやるかって問われたら、私は迷わずやらないって答えるわね。だって出来ないって分かってるんだから、それを避けて自分ができる道を探すわ」
己がその問いに立たされた時の判断がまるで出来ているかのように、麗奈はキッパリと言い切る。
いや、それとも既に──。
「でもそれが夢や目標だったときに人は悩む。やっても無理なことが分かってるけど、それが夢だったら、目標だったら。……やらないなんて結論は簡単には出せないわよね。かと言ってやるとも言えない、たった一度の人生を棒に振ってまでそんなことをしていいのかって」
「──だから」
「だから正解はなかった。突き詰めればそれはやるかやらないかの二択だったから、だからどちらを選んでも納得することでしか解決には至らなかった、そうよね?」
麗奈は言いたいことを全部言ってくれる、まるで本当に俺の心でも読んでいるかのように。
事実、その通りだ。
ここまで来たことは所詮ノリと勢いに任せた結果に過ぎない。モチベーションが繋がっていたのも、あれだけ努力できたのも、新鮮な環境と稀な状況下における一時的なものでしかなかった。
でも、だからってここで諦めたくはない。そんなことで、自分が培ってきた将棋人生を上塗りしたくない。
全てはこの時の為に頑張ってきたんだって、たったそれだけの結論を出して終わりにするなんて冗談じゃない。この時の為ではなく、これからの未来で夢を掴むために頑張ってきたはずなんだ。
ゴールを目指して走っていたのに、その途中で楽になれる方法があるからって離脱するのか? その妥協で後の人生は満足できるのか?
分からない、分からないから自問だけが尽きない。だけど答えは誰も教えてなんてくれない。
夕日に別れを告げられるようにただ遠い景色を儚く眺める。それを見つめているだけで、自分の惨めさがより鮮明になってくる。
だから俺はダメなんだ、いつまで経っても中途半端な決意しか抱けない。誰もが無我夢中で挑む世界に、弱音を吐きながら足をつけるなんて失礼極まりない。
こんな調子じゃ、プロなんて到底──。
「まずは一旦そこから降りましょう?」
下を向いていた俺の顔を、麗奈は優しく持ち上げた。
「え……?」
至近距離で麗奈と目が合う。──その表情に濁りはない。
ごちゃごちゃになっていた感情を洗い流すかのように、俺の視線は暗い地面から夕日の光が差し込む明るさに向けられた。
「降りる……?」
「そう、降りる。師匠は深読みしすぎなのよ」
冷静な者ほど見解に柔軟で大局観が広い。逆に焦っている者ほど選択を狭め、目の前に落ちている簡単な物すら見えずに取りこぼす。
自分達はその大局観を誰よりも用いて戦う競技をしているんじゃないのかと、そう麗奈は暗に諭す。
「確かに人生に正解なんてないわ。──でも、"将棋"にはあるんじゃない?」
眉がピクリと動く。
いつだったか、誰かが言った既視感のあるセリフが木霊する。
「将棋の正解が何なのかは誰にもわからない、それは将棋の神のみぞ知るものだから。でも、正解は確かにあるのよ。プロでもAIでも見つけられてない最善手がまだ沢山隠れてる、私達じゃそれを見つけ出すのは到底不可能かもしれないけど、その手を指すことは決して不可能じゃない」
人生という難題を一度切り離し、麗奈は将棋の真理を突く。
俺が躓いているのはそんな巨大なものではなく、もっと小さなものであると。
「81マスという小さくも広大な盤面に、私達の望む最善手は必ず隠されてる。そしてその手は決して人を選ばない、力も、知恵も、知識も、技術も、読みも、才能も、何も関係ないのよ。全ての人にその手を指す権利はある。誰も見つけられていないだけで、その手は確かに存在しているのよ」
平安時代から約1000年以上、ルール確立から400年以上続いてきた将棋という古きボードゲームは、未だにその答えが解明されていない。
AIが発達し、理論上の全てを計算し尽くすスーパーコンピューターが生まれた現代ですら、結論に行き着くことは叶わなかった。
だが将棋には答えが、正解が確かに存在している。
「その正解の着手を、神の一手を。──最後まで指し続ける」
「……それができたら、文字通りの将棋の神だな」
「ええ、きっと世界中のどんな相手にも勝てるわ」
将棋の全ては10の220乗に詰まっていると言われている。つまりその10の220乗の盤面を完全に網羅すれば、不敗の将棋棋士の誕生だ。
では10の220乗とは一体どれくらい多い数字のか、万か? 億か? 兆か?
それは、一般的な数学上で表せる最高桁である無量大数より152桁も多い馬鹿げた値。簡単に言えば0が220個である、ペンで書いたら指がつりそうな桁数だ。
仮に地球が滅ぶまでAIに計算させたとしても、この解を得ることはできない。最低でも太陽系が終焉を迎えるほどの莫大な時間を費やさないと、この答えに行き着くことは不可能だと言われている。
だが、そんな途方もない数の盤面を全て把握することができれば、どんな相手にも絶対に勝てると、人類はそう仮定した。
これこそが将棋における本当の必勝法。現代の最新コンピューターですら辿り着けないと言われている必勝法、人間に出来るものじゃない。
「このボードゲームはただのボードゲームじゃない。幾多もの天才達を挫折させてきた競技、ゲームの皮を被った魔物そのものよ」
こんなものを誰が考え、誰が作り出したのかは分からない。ただ今の将棋は、長年の研究の末導き出された答えをもって、ようやく化けの皮を剥がしたところと言えるだろう。
自分達が挑んできた知の集合体が如何に桁違いの存在だったのか、それをようやく理解した段階だ。
あのチェスですら10の120乗だというのに、将棋はそれを容易く上回る。
かつて国宝と呼ばれるほどの偉業を達成した将棋の大天才は、素人だらけの取材陣の中でお手上げの表情を浮かべてこう答えた。
──私なんて将棋の1%も理解できてないと。
それを聞いた取材陣はほんの僅かの動揺を浮かべたあと、その言葉を一蹴するかのように鼻で笑った。「またまた、ご冗談を」と。
だが彼は謙遜などしていない、事実を口にしたまでだ。我々はその1%未満の知識で勝負を繰り広げているに過ぎないことを外野は知らない、将棋という魔物の本質を理解できていない。
理解できていないだけならまだいい。だがそれを理解してしまったアマチュア棋士は、それでも立ち上がることを強要される。
折れてしまえばそこで夢は途絶える。前に進むのなら、この難題を常に解き続ける覚悟を持たなければならない。
それは、プロを目指す一般人にはあまりにも重すぎる荷だった。
「そんな天才すら苦戦する世界に、俺達一般人が割り込んでのし上がろうなんて、馬鹿げていたのかもな」
才能がモノを言う世界で凡人が何かを為せるはずもないと、再び俺は項垂れる。
「……」
しかし、海の方を向いていた麗奈はこちらへと向き直り、表情を変えた。
話す相手の目を逸らさず海辺の風に揺れる髪だけがその威圧感を表現し、自信のない目の揺らぎを咎めるように俺を睨んだ。
「──いいえ、決してバカげてなんていないわ」