第四十一手「敗北の後に笑う者と平常な者」
第三章『急襲・昇竜編』開幕
波乱で始まった地区大会は、様々なイレギュラーの登場によりこれでもかと場を搔き乱され、そして台風のように時間とともに過ぎ去っていった。
そんな彼らの戦いは公式戦の記録に残ることもなく、各々の記憶の中だけで生き続ける。
所詮はひとつの地区大会。どれだけの物語が交錯しようとも、それらを身近に体験しない第三者にとっては話のネタにもなりはしない。
幾多もの強豪を退け優勝と書かれた杯を手にした聖夜も、今日ばかりは笑顔を見せることはなかった。
そして他の選手達もまた、聖夜が優勝すると最初から思っていたはずだったのに、その予想を裏切られたかのような顔をして会場を去っていく。
結果だけ見れば鉄板とも言える堅い順位だった、だがその中身は誰の予想にも当てはまらなかった。
「おおー! 鈴木のおっちゃんだ~ひさしぶり~!」
会場を後にしようとしていた鈴木哲郎へと声を掛ける者が一人。びしゃびしゃの厚着を着た少女、その顔は濡れた髪で覆われて見えなくなっている。
少女は自分のずぶ濡れを屁とも思わず、ハイテンションで階段を駆け上がる。
「おや、珍しいお客さんだ。だけどもう地区大会は終わっているよ」
「誰が勝ったんだ~?」
「君もよく知っている成田聖夜君だよ、まぁ妥当な結果だろうね」
当然とも言える鉄板の結果に少女は一瞬他愛もない反応を見せるが、ふと奥の会場を一瞥するとその反応をガラリと変える。
既に試合は終わり、表彰式を行っている会場内から流れ出る僅かな雰囲気を少女は機敏に感じ取る。そして今までにない変化があったことを知り、不敵な笑みを浮かべた。
「そうなのか~。──でも"過程"はそうは見えないぞ?」
その笑みに釣られるように、鈴木哲郎は僅かに口角を上げる。
それに伴って反射し光る眼鏡、その奥にある本心の眼を少女だけは看破する。
「まーた何か企んでそうだねぇ、委員会のおっちゃんたちが黙ってないぞ~?」
「そういう君も中々鼻が利くじゃないか、いつもはこんな小さな大会なんかに顔を出すことはないだろう? ──青薔薇君」
ニシシ、と子供らしく笑う少女を、鈴木哲郎はただの子供と認識することはない。彼女もまた、別地区に住む将棋指しの一人、その雰囲気から選手の姿を察することは難しいだろう。
少女は呆れるように両手を広げてこの大会のおおよその結末を確信し、そして未来に訪れるであろう互いの衝突も結論付けたように導き出した。
「どうせ最後に勝つのは青峰龍牙なんだし、結果自体に興味はないんだがなー? ただ今まで『傍観』してた鈴木のおっちゃんが動いてるって知って、ちょっとだけ興味が湧いたのだ~!」
そう言って子供のようにクルクルと回り出す。しかしその奥で何を考えているのかは、老成した鈴木哲郎の思考をもってしても安易に読み取れるものではなかった。
無言のまま返事をしない鈴木哲郎。しかし、これでは行き掛けの駄賃にもならないと思った少女は、期待を含む口調で二度、同じことを呟いた。
「……どうせ、変わらないんだし。ね?」
「ふふ。面白い挑発だ、乗ってあげよう」
鈴木哲郎は将棋盤の入った大きな荷物を倉庫へと置き、振り返りざまにポケットから小さな紙を取り出す。
──その紙には、次の大会の情報が載っていた。
「君達が変わらないと蔑むその変化とやらは"今"起きている、現状維持という名の怠慢に胡坐を掻いていたその世界に亀裂は入っているのだよ。稀代の天才も、時代の寵児も、今のうちに好きなだけ祝されるといい、いずれ自らの危機を理解する時が来るだろう」
そこに書かれていたのは、今回と同じ地区大会の参加項目と日付が書かれた紙。しかし最後の項目には『上位3名は地区代表として県大会への参加権利を得る』と書かれていた。
「それに私は傍観などしていないよ。……待ってたのさ」
機会は遅く、だが確実に訪れた。天明が功を与えることもなく終わったとしても、手を伸ばし続けた者が自ら掴み取った瞬間が必ずやってくる、それが今の時代の変化そのものなのだと。
この内容は県大会への切符を手にする地区大会、用意されているのは玉座ではなく上に登る金色の梯子。
鈴木哲郎はその時期が来たと言わんばかりに準備を進め、次の大会を県大会へ繋がる重要な地区大会にするつもりだった。
少女は目の前に掲げられた紙をまじまじと読み進め、その内容を理解すると僅かに表情が真剣になる。
そう、この内容の提示は別地区に住む少女に対しての明確な宣戦布告だった。こちらが選抜する最強の3名をぶつけさせると、完全な対立を示したものだった。
「──ほう」
それを見せられ一瞬、少女は威圧を含む低い声でそう呟く。そこから垣間見えるのは、外見にそぐわない貫禄と畏怖、そして隔離された中身から滲み出る驚嘆と悦を笑みと共に溢れさせた。
そして束の間に笑顔は無邪気な子供へと戻り──。
「それは楽しみにしてるのだー!」
そう呟いた後、顔を上げ元気よく手を振って帰っていった。
「……結局何しにきたのかね」
非常にかっこいい退場をする少女を空虚な目で見送って、ただ一人困惑する鈴木哲郎であった。
◇◇◇
──長い、夢を見ていたような気がする。
希望に満ちた活路を自信気に闊歩する。当たり前の世界に当たり前じゃない自分を投影して、これでもかと旋風を巻き起こして。
そうして全てを払った後には、自分を越えるだけの力を持った怪物が佇んでいた。
井の中の蛙大海を知らずと言うことなのだろう、所詮は輪の中で奮っていた力に過ぎない。外に出れば、同じような者は巨万と跋扈していた。
……それでも立ち上がり、彼らに牙を剥くその姿は否定しようのない主人公だ。
それは今までのどんな自分よりもかっこよく、そして魅力的に映っていたことだろう。燻った闘争心に火をつけ、秘めていた勝負師の感性を最大限に活かして、どんな窮地に陥っても折れず諦めず延々と挑み続ける。
そんな、長い夢を見ていた──。
だけど現実は違った、ただの一度も牙を見せられなかった。何もできず、何も見いだせなかった。
ただそれだけが心残りで──。
「……朝か」
いつの間に寝ていたのだろうか、そもそもいつ帰って来たのだろうか。その記憶すら曖昧だ。
見慣れた天井と押し寄せる不安感、今日も一日というものが始まろうとしていた。茶色のカーテンから射し込む陽の光に瞼を薄め、体を横に向けて二度寝の体勢を取る。
「……寝れないな」
瞳を閉じてもう一度微睡の世界に入ろうとするも、覚め切った頭は夢の続きを見させてはくれない。視界が暗くなるたび、あの光景が思い浮かぶ。
どうやっても抗えない、どう頑張っても先に進まない。歩くことが死を意味し、進んだ分だけ絶望を押し付けられる。
望んでいない敗北に縋って、叶わない勝利に手を伸ばして、そうして失ってきた自分の惨めなプライドをただ振り返り続ける。
ああ、どうして忘れていたんだろう。──自分はただの一般人なのだと、ただの敗者に過ぎないのだと。
気怠い体を起き上がらせてベッドから立ち上がる。静まり返った部屋はどこか懐かしく、寂しい感じがした。
「……まぁ、誰もいないよな」
当然だ、あれだけかっこ悪い姿を見せてしまったんだからいるはずがない。
「おはよう、ご飯できてるわよ」
「……え?」
そこには、いつものようにエプロンを着て料理をする麗奈が立っていた。