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第四十手「真実は棋譜に」

 

 突如として訪れた波乱の地区大会。いつもは活気と策略によってさまざまな心理戦が飛び交う会場は、どこからともなく現れた一陣の強風によって跡形もなく吹き飛んだ。

 それは、玉座を目指して這いつくばる者達を前に、唐突と天井を突き破って現れた男がその席を奪い去っていくようなものだ。


 納得はいかない、憎らしいとも思うだろう。だがそれ以上に、彼に対して実力で勝てない自分自身の不甲斐なさが何よりも悔しい。

 この場にいる誰もがそう思っていた。


 あれだけ強かった天竜の完敗を間近に見て、かけ離れていた本来の実力の差も明確となった。これ以上の見定めは不要だと選手たちは視線を下げる。


「所詮お前の実力はそんなもんだ、理解したか? まァ理解なんてしなくてもどうせこのまま落ちぶれていくだけだろうから関係ねぇか、ハッハッハッハ!」


 椅子に座ったまま項垂れる天竜を見て満足したのか、首を鳴らして席を立つ龍牙。そして勝ち残った他の選手を一瞥して品定めすると、ため息をついて会場の出口へと向かう。

 そのとき放った一言は、選手達の心根を怒り奮い立たせた。


「──飽きた、帰るわ」

「……なんだと?」


 ここまで目下好調に勝ち残って来た聖夜が、龍牙の言葉を受けてキレ気味に席を立つ。他の選手達の表情も僅かに歪んだ。

 しかしそんな行為には目もくれず、龍牙は選手たちを前に背を見せ退場しようとしていた。


「ちょ、ちょっと待ちなさいそこの君! まだ準決勝が残っていますよ!」

「じゃあ棄権するわ。目当ての奴は潰したし、これ以上底辺の雑魚共と戦っても意味がねぇって言ってんだよ、分かるか?」


 その言葉に反論の声は上がらない。これだけ馬鹿にされて、これだけ挑発されて──それでもここは実力主義なのだ。

 なまじ知力の高い集団だからこそ、感情的になって殴りかかったり暴言を吐いて言い返す事の無意味さを理解している。その言葉が彼に勝てない自分へと返ってくる恐怖を知っている。


 ──知とは、諸刃でもあるのだ。

 龍牙は駆け寄る審判員の制止も無視し、軽い足取りで会場を去っていく。最後の最後まで、彼にその旨を言い返す者は現れなかった。


「俺は天竜以下だってか……? クソッ!」


 いつもヘラヘラと笑う聖夜が珍しく机を叩いて怒鳴り声を上げる。優勝候補と言われていた自分が、一切の眼中に止まらなかったことと、自分を下したあの天竜が何もできずに負けたという二重の点において怒りを募らせていた。


 ◇◇◇


 ──午後2時。いよいよ大会も終盤戦、準決勝が始まろうとしていた。


「そろそろこの大会も終わりが来るね」


 過ぎ去った台風も何のその、余計な選手が二人もいなくなってほっとしたと、心底安堵する決勝リーグの選手達。

 空いた玉座だろうと優勝は優勝だ、その杯を手にした者だけがこの大会における"最強"を名乗れる。


 会場は再び熱気に包まれ、選手たちの静かな闘気が伝わってくる。そんな中、たった一人だけは拳を握りしめ涙を流していた。


「……て」


 天竜と龍牙が戦った席を睨み、無情にも過ぎ去った一局を脳内で振り返りながら眩んだ自分の思考を叩き起こす。

 どこにも間違いはなかったのに、全てが間違っていた試合だった。


「ん?」

「どうしてっ! 師匠は勝てるって、あんたはそう言ったじゃない……!」


 八つ当たりをするように鈴木会長へと感情をぶつける。それが無意味とわかっても、納得することはできなかった。


「ああ、勝つとも、いずれ必ずね。これはその為の小さな敗北みたいなものさ」

「小さな敗北ですって……? こんな大きな負け方をして、それでも小さな敗北だっていうの!?」


 怒鳴った声は、近くにいた観戦者の気を引くほどに真剣さを表す。


「ねぇ!?」


 対局後、自分達に声すら掛けず重い足取りで帰っていったあの姿を見てもなお、この男は小さな敗北だと、そういうのだろうか。

 絶望したあの顔を見ても、そんな言葉が出てくるのだろうか。


「たかが地区大会だって、たかが一局だって、そういうことなの……?」


 項垂れ、拳の力を抜き、これから自分達が挑もうとする高みと比較する。


「……」


 プロ棋士になる、そんな高みの目標と比べてしまえばこの敗北は小さなものだろう。だがそれはあまりにもメンタル面を軽視している、あまりにも非情すぎる。


「確かにこの一局が天竜君に与えたものは大きいよ、だけど小さな敗北だ」

「そんなことはっ! ……そんなこと……っ」


 消沈するよう俯き沈黙する。

 ただの一回も夢をみせてあげられなかった自分の不甲斐なさと、たった一回で全てを失ってしまったような傷を負った彼と、それでもたった一回の小さな敗北だと前を向く鈴木会長。

 どれが正解かなんて、考える余裕もなかった。


「──私はね麗奈君、彼に最も足りなかったものを知って欲しかったんだよ」


 胸に両手を当てて俯く自分とは対極に、これが正解だと胸を張る鈴木会長はこの状況下でもなお口角を上げていた。


「天竜君に最も足りなかったものは刺激さ。本来味わうべき勝った時の喜び、そして本気で負けた時の悔しさ、この二つが今までの彼には全くなかった。どうせ勝てない、負けるのが当たり前だから負けても仕方がない、そう考えていた。だからこの大会では、彼にその刺激を学んで欲しかったんだよ」


 理路整然とそう言う鈴木会長は前というよりも先を、遥か先を見ているようだった。


「会長、こちらです」

「ご苦労」


 そんな鈴木会長に係員が何かの紙を渡す。


「それは……?」

「さっきの天竜君と龍牙君の対局の棋譜さ。──うん、こうしてみるとやっぱり龍牙君の指し回しは完璧に近いね、さすが県代表なだけはある」


 当然だ、県代表とはいわば全国クラス。悪手や最善手の比率は地区大会の選手達とは比べ物にならないほど正確なもの、それこそ手も足も出ないような存在だ。

 しかし、鈴木会長は師匠の棋譜を遡って見ていくと、やはりと言った感じで期待に胸を膨らませる。


「かつてこんなことを言った人がいてね。──棋譜にはその人の全てが映ると」

「人の全て……?」


 どこかで聞いたことのある言葉に、ふとデジャブを感じながらその意味を問う。この男は私が知らない何かを知っている様子だった。


「天竜君は最後こそ首を差し出して投了したけど、そこに至るまでの棋譜は決して嘘をついていない。気迫も闘気も全部投げだしてるかのように見えたけど、私には分かるよ」

「え……?」


 鈴木会長は中盤戦の部分に指を当て、終盤戦までなぞるように指を滑らせる。


「棒銀が失敗し、龍牙君にカウンターを浴びせられてから天竜君は一切攻めに行っていない。本来なら形勢が不利になると、それを取り戻そうと無理攻めを行ったりするのが人間としての性だ、実際そうした方が勝率も高くなる。なのに天竜君は最後の最後まで攻めなかった、これはどうしてだい?」


 確かにそこは疑問点だった。

 普通の感覚なら状況の打開を模索して無理攻めをする、その方が戦況に紛れも生じて勝ちやすくもなるだろう。

 しかし彼はそんな普通のことすらしなかった。つまりその時には、もう戦意を喪失していたからなのだと……。


「それは、もう諦めてたから……」

「違うね、諦めてたなら中盤の局面で穴熊まで作って潜りにいくはずがない。自分より格上の相手に押されている状況下で、穴熊なんて悠長に作って守りを固めるなんて到底おかしなことだよ」


 方々に散らばる大会の痕跡、その盤面を一瞥して鈴木会長は否定する。


「ならどうして……!」

「簡単なことさ。天竜君の、彼の潜在意識は決して諦めてなんていなかった。相手の喉元を噛みちぎるために、虎視眈々と最後までその隙を窺っていた。隙を見せた瞬間で一気に巻き返すためにね」

「師匠が……?」


 そんなことはあるはずがない。あれだけ完封されたのだ、あれだけ圧倒されていたのだ。

 誰の目から見ても天竜の完敗、龍牙の圧勝と言える試合。だが、鈴木会長は何かを確信している様子だった。


「本人たちの表情と結果だけ見れば確かに完封負けだろうけど、この棋譜はそうは言っていない」


 常人には分からない思考で棋譜から局面と記録以外の何かを読み取る鈴木会長。

 いつもとは違う真剣な眼差しで一手一手の細部まで確認し、もう一度頷くと私に向かって信じられない言葉を放った。


「本当に追い込まれていたのは龍牙君の方だったんじゃないかな?」

「なっ……そんわけないでしょう……!? あり得ないわ!」

「あり得るとも」


 あの圧倒的とも言える完封負けの試合から、実は勝敗が危うかった。なんて判断するなど狂言に等しい。

 でもそれは決して彼を擁護しているようには見えない、中立な立場から判断を下してなおそう言っているように聞こえる。

 そしてその目には、何か人の奥底を覗くような慧眼に近いもの感じた。


「私はこの棋譜を見てワクワクが止まらないよ。 飛車先を制圧されて、攻撃という最大の勝因手段を封じられてるというのに、彼はその場で自棄にならずに王様を固めた。反発して攻めた方が局面が紛れるかもしれないのに、それをじっと我慢して敗北の可能性を低めにいった」


 鈴木会長は天を見るように顔を上げ、会場の天井を突き破り見える大空の霹靂が実は青天だったのだと真相を灯す。

 あのとき、天竜と龍牙の対局に少なからずいた有段者の観戦者が、なぜ溜め息を吐いてその場を去っていったのか。


 天竜一輝が負けたから? 青峰龍牙が想像以上に強かったから?

 違う、全くもって違う。彼らの溜め息は天竜の敗北を擁護するものではない。龍牙の勝利を悔やむものではない。

 ──天竜一輝という"存在"が現れたことに対する溜め息だ。


「勝つ可能性が増える手より負ける可能性を減らす手を指す。自分は一切の隙を見せずに耐え続け、相手の見せた隙に強烈な一撃を叩き込もうとする。……私はこういう鬼神(きじん)のような指し方をする人達を知っているよ」


 そんなまさかと、目を見開く。ありえないと首を振る。だってそれは、こんな完封負けの試合からは到底導き出せない結論で、常人には絶対に有り得ない考え方といってもいい。

 最も遠かったはずの頂きが、遠ざかったはずの希望が、限りなく近づいた瞬間に他ならない──。


「──これはまるで、()()()()みたいな指し方だ」


 吐き捨てられた一言とともに、全ての靄が払拭された。 自らの経験則と絶対的な確信をもって、鈴木会長は言い切った。


「うそ……」


 不可解な手が理を通す、この場にいるごく一部の強者だけがそれを分かっていた。分かっていたからこそ、恐るべきライバルの誕生に溜め息をついた。

 天竜が負けて残念だった、などと誰が思うだろうか? これは勝負なのだ。


 ここは実力主義の残酷な世界、決して仲間などいない。己を極め競い合うからこそ互いの成長を伸ばしていける。

 そんな世界で溜め息を吐く時があるのだとすれば、それは目の前に新たな壁が出来た時だけだ。


「龍牙君は、本当に彼を潰せたと思っているのかね?」


 鈴木会長は弧を描くように口元をあげ眼鏡を外す。


「思っているのだとしたら、それはあまりに私の見立てた天竜君を舐めすぎだ」


 地へと突き刺した勝因の旗と共に、逆襲の狼煙がゆっくりとあがる。霞んでいた好転の光は一筋どころではなく、数多煌めく星々のように流星となって降り注ぐ。

 鈴木会長は繰り返すように、最後までその言葉を言い切った。


「だから君の質問に私の答えは変わらないよ、天竜君は勝つ。──"必ず"ね」


 ただ一人、この男だけは全てを見切っていた。期待も希望も夢も押し付けることなく、ただ冷静に指し手の実力を見極めていた。

 そして、敗北の結果を見て笑ったのだ。

 これほど恐ろしい男がいるだろうか?

 私は鈴木会長の力の一端を垣間見て、心底敵方にいなくてよかったと安堵した。


「さてと」


 鈴木会長は読んでいた棋譜を懐にしまい手持ちの物を持つと、背を見せ会場を去ろうとする。


「どこにいくのよ……?」

「今後の準備だよ。──我々の得意分野は先々を読むことだろう?」


 そう言ってその場を去っていく。老風とも思っていたその背中には、確かに衰えない闘志と確固たる信念が浮かんでいた。

 あれだけ意気揚々とした鈴木会長は初めて見た。


「……はぁ、私もやることが山積みね」


 同時に私も席を立ち、荷物を纏める。今回の大会で学んだことは本当に多かった。龍牙の参戦で今まで以上にヒートアップし、これまでにない高レベルな戦いが繰り広げられた。

 実際その実力差は圧倒的で、私の実力ではほとんど手を読み切れなかった。


「……だけど、そうね。こんなところで終わったら面白い冗談よ」


 本当の戦いはまだ終わってない、始まってすらいない。将棋の勝ち負けを結果と一緒くたにする必要なんてどこにもないんだ。その一局からどれだけの学びを得て次に活かせるのか、それが最も重要なポイントだ。

 そしてそれこそが、先を読み先見の明を表す自分達の土俵そのものなのだと改めて思う。


「はぁ、本当に、全く…」


 私は緊張が解けると同時に深い溜め息を吐き、やれやれと言った感じで会場を後にする。

 ニヤリと僅かにあがった口元には夢や希望が先程までの胡乱とは違い、その目には確かに誰かと似た本物の勝負師としての炎が灯され始めた。


「──これだから将棋はやめられないのよ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] これだから将棋はやめられない! いい言葉です! 王より飛車を大事にする将棋でも! やったもん勝ち! なんてったって将棋指し! 天竜かっこいい!
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