第四手「天竜顕現」
日間ランキング3位……?幻でも見ているのでしょうか……。
さて前回の問題の答え合わせです。
この局面で先手どうするかでしたね。
正解は──3四銀!
平凡に見えるこの一手が強烈な一撃です!
同銀は4一飛成で金と飛車の両取りがあるのです。
後手はこの銀を取ることが出来ず、我慢して4二銀と引くがそこで1六角が急所の角。
次の4四歩打や4三銀成まで間に合ってしまうと後手陣崩壊!
また、筋が良いように見える6五角は3一飛と躱されてなんともない。
割り打ちの4一角も飛車を躱された後に4七歩打、同飛、3八角が非常に厄介になってしまう。
無事5分以内に解けた方は棋力2級以上、しっかりと盤面を見ている証拠ですね!
俺の初手は決まっている。考える必要はない。
──▲2六歩だ。
将棋の初手は大きく分けて3種類ある。飛車先を突く▲2六歩、角道を空ける▲7六歩、そしてゴキゲン中飛車を示す▲5六歩。
十数年前までは大体この3種類が初手の候補だった。
だが近年では飛躍したコンピュータの演算能力により、初手の重要性はほとんど無いということが分かっている。
まぁつまるところ、最初はどんな手を指しても大して差はないということだ。
だが俺は常に居飛車を指す『居飛車党』。▲2六歩は必然の一手だ。
俺の手を見て、麗奈もノータイムで切り返す。
△3四歩、▲7六歩。
この時点で既に嫌な予感がした。
大抵の居飛車好きなら初手は△8五歩とする。勿論絶対じゃない、だが迷いなく初手△3四歩を指すこの手付きは何度も経験してきた、何度も味わってきた。
麗奈の腕が動く。その一瞬の行動に俺は緊迫しながら必死に祈った。
頼む、振らないでくれ。居飛車で来てくれ、振り飛車にしないでくれ。
俺は相居飛車しかまともに受けられない。振り飛車で来られたら今日の大会の二の舞いだ。
そうなったらまたボコボコにされてしまうのがオチ──。
目の前の生意気な少女に対してさえ懇願する程の棋力の差。それほど俺は弱く、惨めで、滑稽だ。
麗奈が右手が盤上へと動く。
──そしてその手が飛車を掴んだ時、俺は静かに目を瞑った。
△4二飛。──振り飛車だ。
俺達の局面はよくある対抗型となった。
悠々とした表情で飛車を振った麗奈の目つきは、まるで自分より大きな獲物を射貫こうとしているかのようだった。
唇を噛み締めながら俺は次の手を指す。
既に負けているんだよ、その手を指された時点で。俺は既に負けている。
麗奈の戦法は角道オープン型の四間飛車と呼ばれる戦法だ。四筋に飛車を振ることから単に四間飛車とも呼ばれる。
本来なら角道を止めてから四間飛車に組むのが古来からある振り飛車の基本だが、最近のアマチュア界隈では角道をオープンしたまま指すのが主流らしい。
仮にこれを咎めようとして▲2五歩と催促すると──。
△6二玉で一旦待機され。
▲2四歩、△同歩、▲同飛と進行し。
△8八角成で一気に決まる。以下▲同銀に──。
この△3三角でよく見る飛車と銀の両取りが掛かる。
これは誰が見ても先手不利、つまり俺の方が負ける局面だ。
これに▲2一飛成とする手は、△8八角成から△2二馬で角桂と飛銀の交換が成立してしまう。やはり先手不利だ。
逆にじっと▲2八飛と引けば飛車も銀も助かるように見えるが、そこで手筋一発。
△2六歩打、これが教科書通りの手筋。
取れば△8八角成、何もしなくても△2七歩成から▲同飛、△8八角成とやはり先手不満のある展開だ。
ここから先手が頑張れば色々といざこざはあるものの、基本的にアマ同士がこの局面になって先手勝てるとは思わない方がいいだろう。少なくとも好んでこの変化に進む人はいない。
だがこれは先手が▲2六歩と突いたための開戦だ。▲2五歩までは許容範囲でむしろ最善手、次善手である▲4八銀の待機手と大差無い。
だから俺はじっと▲2五歩と突いた。対戦相手を見下している彼女なら次に▲2六と突いてくる手を咎めようと△6二玉とするだろう、実際それが最善手でもあるのだから。
しかし麗奈は△6二玉ではなく──。
△8八角成。
彼女はあくまで自分の戦法を作り上げる方向を重視した。
これで戦型は角交換四間飛車の基本筋へと合流してしまった。
麗奈は俺の手を見逃したわけじゃないが、後々咎められるかもしれない俺の緩手を見向きもせずに指し返したのだ。
彼女より棋力が劣る俺が言うセリフじゃないが、麗奈の手は甘かった。
将棋は体を動かす競技じゃない。そのためわずかながらも心理戦が介入する。麗奈は終始、その心理戦を放棄するかのような指しまわしが多かった。
しかしそれが何だって言うのか。上から目線で言っておいて、俺の手が強くなったわけじゃない。
その後も麗奈は向かい飛車へと組み、俺は腰掛け銀模様で対抗。俺達の攻防は長く、そして対等に続くかに思われてた。
自信を失っても勝つ見込みがなくなったわけじゃない、そう思いながら吐き出しそうな胸の苦しみを必死に飲み込み目の前の少女へ対抗していた。
そして対局開始からわずか数分、事態は動いた。
「……負けました」
「ありがとうざいました」
将棋でお互いが挨拶を交わすのはたったの2回。始める時と、終わる時だ。
その当たり前にもなった行為をまたこうなるのかと噛み締めながら、俺は麗奈に向かって先に頭を下げた。
……俺と麗奈の対局は、わずか10分で終わってしまった。
それも俺の完全敗北。あまりにも早々と負けた勝負に、言葉すら出なかった。
終局以下は▲同玉の一手に△7八銀打、どこに逃げても△8七金打までの簡単な5手詰だ。
麗奈はこの勝負で時間を2分も使っていない。俺だけが長考し、長考しても敵わないと悟り、せめてプライドだけは守ろうと読みを切り上げたのが更なる仇となって敗勢に繋がった。
傍から見れば、俺が麗奈に指導対局をさせてもらっているように見えただろう。
実際、麗奈の美濃囲いは綺麗な形を保ったまま一切崩れていない。俺は一回も攻めることが出来なかった。
この対局はそれほど大差のある敗北。そしてこの対局を横から見ていた鈴木会長は、まるでこうなる結果を分かっていたかのような感じだった。
「どうだったかね、麗奈君」
「どうって、見たまんまよ。相手にならないわ」
俺は拳を強く握りしめた。
悔しかった、本当に悔しかった。
相手が子供だからと侮っていたわけじゃない、慢心していたわけでも無い。
最初から全力で勝ちに行って負けたんだ。こんな小さな子供に馬鹿にされながら、俺は自分の将棋を否定されたんだ。
ここまで捧げてきた10年という将棋人生を真っ向から潰された感じがした。今まで積み重ねてきた全ての経験を、彼女の言葉一つで崩された感じがした。
「はっきり言ってこの男一級も無いわね、というより2枚落ちで丁度いいんじゃないかしら?」
立ち上がり見下すように言い放つ麗奈、これには鈴木会長も苦笑している。
2枚落ち、2枚落ちか……はは、哀れだな、俺も。
将棋の要の駒である『飛車』と『角』を落としたハンデでも俺に勝てる見込みがあるわけだ。
戦ってみて分かったが彼女の棋力は二段、いいや三段はある。2枚落ちで丁度良いというのも実際その通りなのかもしれない。
歴然とした結果に、こんな小さな子供にすら俺は何も言い返せなかった。
「……」
そんな俺を見て、鈴木会長はある言葉を放った。
「ふむ。じゃあ天竜君、横歩取りで指して貰ってもいいかな?」
──その言葉を聞いた時、俺は目を見開いて静止した。
「……え?」
震えていた右手がピタリと止み、焦っていた感情が一気に冷静になる。
弱りきっていた淡い瞳は、まるで新たな命を灯すかのように別物へと変わった。
「まさかの戦型指定? はっ、そうよね。これは指導対局だものね。私があんたに指導する指導対局。いいわ、好きにしたら? まぁこの程度の棋力じゃ横歩取りなんて実力がはっきりと出る戦型をまともに指せるとは思えないけどね」
煽り挑発する麗奈には目もくれず、俺は正気を疑う目で鈴木会長の方を向いた。
「……本当に、横歩取りを指しても良いんですか?」
「あぁもちろんだとも、ただの戦型指定だ。ルール違反をしているわけじゃない」
鈴木会長の含みのある言い方に目から光を失った俺は、おもむろに立ち上がって近くのタンスから扇子を取り出した。
そして再び正座をすると、俺は死んだような目つきで駒を並べ始める。
麗奈の視界に映った俺は、人の身に何かが宿ったような──異様な光景だった。
「な、何よコイツ……」
生気すら感じられない、無表情な俺の表情をみて麗奈は固まる。
まるで狩られたはずの獲物が突然動き出したかのような緊迫感。先程まで弱者だったはずのそれが、突然強者へと襲い掛かり喉元を食いちぎろうとしている。
さっきまでとはまるで違う生き物が、淡い炎で揺れ動く麗奈の目に映った。
「……」
俺は一言も言葉を発さない。
その度に鋭く針を突き刺される寒気が麗奈の全身を襲う。
「では、二戦目だ。準備はいいかい二人とも」
息を呑む麗奈を外目に、鈴木会長はある確信を持っていた。
天竜一輝という人物の背後に昇竜する白銀の影。
あの時、永世名人を頭から食いちぎった怪物の一片が姿を見せたことに。
「お願いします」
「お願いします」
俺と麗奈の、二戦目が始まった。