第三十九手「夢から覚めるとき」
呼吸が薄くなり、それでも心拍数を上げ続ける胸に小さな拳を当てる。
戦っているのは師匠のはずなのに、そんな彼よりも私は息を切らしていた。
△7六銀。
龍牙は自分の時間をほとんど使うことなく手を指す。局面は未だ劣勢、師匠が攻める姿勢を見せないことをいいことに、龍牙の鈍足な攻めが師匠の左辺を圧迫し始める。
▲8八銀、△4二玉、▲7七歩打、△6五銀。
師匠の陣形は完全な棺桶状態、動くことも出る事も出来ない。手番を重ねれば重ねるほど龍牙の形勢が良くなっていくのが目に見えて分かる。
それでも指し続ける意味に、勝利への鍵を掴んだのかと問うことも出来ず……。
▲9六歩、△8四歩、▲9七銀、△8五歩、▲8八玉、△5二金、▲9八香。
進み行く手順で再び訪れる膠着、盤面で変化があったのは師匠の方だった。
「穴熊……? この中盤で……!?」
師匠が▲9八香と上がり穴熊をみせたところで、観戦者達の目付きが変わる。それは驚きというより疑惑の反応だった。
到底信じられない、理解の出来ない疑問手に近い。
鎬を削る中盤戦において、師匠が指した手は攻めの一手でも守りの一手でもなく、機を窺う囲いの一手だった。
それも穴熊、完成まで最長の手数を用いるリスクの高い囲い、序盤ですら警戒を高めながら作っていく囲いをこの中盤で為していく危険性。
それは根性や度胸で成り立つような問題ではない、その手が選択肢として浮かぶことがそもそもありえない。ましてやメンタルに左右されやすい彼が、この局面でリスクを恐れず穴熊を目指していること自体に違和感があった。
「何を考えてるの、師匠……」
龍牙もその手に僅かな疑問の反応を見せるが、それでも自分のペースを崩すことなく手を進めていく。
△7三桂、▲9九玉、△9四歩、▲8八銀、△7四銀。
「……」
なぜ穴熊を作りに行ったのか、どうして一発に賭けた攻めをして場を紛らわせようとしなかったのか、分からない、何も分からない。
自分の師が一体何を考えているのか、理解するにはその背があまりにも遠く感じた。
▲5六歩、△7五銀、▲5五歩、△4三角、▲5七金。
「……」
師匠は黙ったまま一言も喋ろうとはしない、反応も見せない、背後からではその表情すらも分からない。
先方からの攻めは皆無、受け手も龍牙によって全て看破されている状態、抵抗の術はなく逆転の兆候も盤面からは読み取れない。
ただジリジリと命を削っていく龍牙の堅実で確実な指し回しに、地区大会レベルの観戦者はついていくことすらもやっとの状態。
その盤面で何が行われているのか、どんな手が読まれ互の意思が交差しているのか、それは全くと言っていいほど読み取れない。
しかし、盤面は進み続けても形勢は一切変わることはない。
ただ時間だけが過ぎていくように感じる、無為な指し手が続いているように感じる。緊張の糸は張ったまま切れも伸びもせずそのまんまだ。
本当に、地獄のような時間……。
△8六歩。
「そんじゃ、そろそろ終わらせるとするかァ」
今までジリジリと攻めの形を整えていた龍牙が、ついに動いた。
△8六歩──これが単なる歩突き、というわけではもちろんない。穴熊の弱点となる8七地点の攻撃、銀と角の効きを生かした端攻めの強襲、そして後方から睨みを働かせる桂馬の圧迫感。
それは最硬の囲い、穴熊を壊滅させるには十分な戦力だった。
「黙っちまっては反応すらも楽しめねぇからな、俺ァ飽きた」
傲慢で満心的な態度とは裏腹に、作り上げた手順は完璧そのもの。
龍牙の口から放たれた言葉のひとつひとつに、今までのようなハッタリを含むものはなく、本当に終わらせることを意味する手を盤面から証明している。
仕留めるとは、勝利の宣言とは。──まさにこういうことを言うのだろう。
▲同歩、△9五歩、▲同歩、△8六銀、▲8七歩打。
▲同歩に△同銀と手順に取らず、龍牙は△9五歩と先に効かせ、後の展開で端に歩を叩けるように準備をする。
外れない、間違えない。彼は級位者や低段者などが苦悩して考え導き出す手を、まるで出来て当然のように素早く指しこなす。
それがどれだけの悔しさを周りに知らしめているのか、龍牙は知っていながら喜々として指す。横暴で粗暴な自分が、知能という賢者の立ち位置でこの場の誰よりも上回っていることを証明する。
そして指す度に告げている。
──お前たちは、俺よりも"頭が悪い"のだと。
△9七歩打。
ついに龍牙の攻めが師匠の玉型に迫る。▲同銀は△8七銀成から▲同金△同角成と角を成り込まれて敗勢、▲同桂は△9六歩打から香車を走られて敗勢。龍牙ほどの棋力なら、△6五桂から殺到する手順も恐らく読んでいるはず。
よって残された手は自然と──。
▲同香。
手順にこうなってしまう。そして彼はその手を当然読み切っており、その上で攻めたということは──。
△8五桂。
龍牙は考える仕草すら見せず一瞬で指し返す。
全てを読み切って勝利を確信した瞳だ。
局面はいつの間にか終盤になっている。あれだけ遅く進んでいたはずの時の針が、まるで風を置いていくかのように進んで行く。
未だ一片の傷も受けていない龍牙の陣地とは裏腹に、師匠の玉型は包囲され、攻撃陣も圧迫され、攻め手がひとつも形作っていない。穴熊に時間を掛けた分両辺とも攻め負けている状態。
当然、局面は変わらず大差のままだ。
そう。大差の、まま──。
「──あ、れ……?」
呆然と、目を見開いた。
唖然と、言葉が漏れた。
時を忘れて運んできた盤面は緩やかながらも着実に歩みを進め、やがては結果へと向かい始める。
それは勝負の世界において決して逃れることのできないもので、決して戻っていくものではない。ただ前に進み続け、進めば必ず二つの答えに分かれてくる。
勝つか、負けるか。──勝敗の時間が訪れる。
逃れることはできず振り返る余裕すらもなく、そこで永久に立ち止まることすら許されない審判の戦い。引き分けなんてものはなく、受け入れなければならない紅白だ。
そんな刻々と近づいてくる勝敗の結末に、私は自然と首を横に振っていた。
自分の師は──いつ、逆転するのだろうか……?
……不意に、血の気が引いた。
猛獣を前にしたような錯乱が脳内で狂う。
時間とは残酷なもので、望んでもいない徒然と焦燥を同時に与えてくる。願い、祈り、信じたものもいずれ真実として答えが出てくる。
将棋に待ったはなく、時を戻す力なんてものは用意されていない。挑む全ての人間が主人公であり、最後に杯を手にする者以外は全て脇役と成り果てる。
それはあまりにも残酷だ、あまりにも無力だ。
私にとっての彼はこんなところで負けるような人じゃない。例え自分が敵わない相手でも勝ってくれる、ピンチになっても巻き返してくれる、絶体絶命になっても逆転してくれる、そんな夢を見せてくれる相手。
──それが"願望"の押し付けなのだと、今になって気づかされた。
これは物語ではない、彼は主人公などではない、そう現実に突きつけられる。才能の開花を目前として見えていたはずのあの威風は、まるで幻想の一部だったかのように常闇に消え去っていた。
「そろそろ寄せだね」
「あ、ああ……」
込み上がる熱、抑えていた感情が溢れ出るように吐露する。
まだ終わってない、まだ師匠は実力を発揮していない──。
このまま終わっていいなんて、そんなことあるはずがない──。
「ち、ちが……」
「違わないさ」
非情にも鈴木会長はその言葉を否定した。
「ここから、逆転が……」
「現実は簡単に奇跡が起こったりはしない」
視界が濁り、歪み、潤う。
目元が熱くなり、息が荒くなる。
「だって、私にはそれが見えて……」
「ああ、そうだとも。だがこれは"実力"の世界だ」
いつも冷静でいたはずの頬から雫が伝っていくのを感じる。
自責も叱責もどうでも良くなるくらいに、思い描いたひとつの夢をいとも簡単に砕かれる。虚ろな大局観が、明確に明瞭に明細に現実を突きつけてくる。
「──彼は"主役"じゃない」
現実に引き戻されるような冷たい一言に、私の涙は止まらなくなる。
それに追い打ちをかけるように盤面は更に動きを見せる。震えもしない師匠の手が盤面へと向き、龍牙の銀を取って歩を進める。
▲8六歩。
「し、しょう……?」
不意に突きだされた一手に、私の頭は真っ白になる。何かを悟った有段者は目を瞑り、その対局から離れていく。
当然私にもその手の意味が何を示しているのかなんて、考えるまでもなかった。……考えたくもなかった。
ただ漏れ出た言葉に疑問なんてもう無い。そう知りながら心の中で否定を続ける。
△2七歩成。
龍牙は首を鳴らしながら、囲いとは反対の右辺へと攻めを決める。
形勢は劣勢から敗勢へ、そして敗着へと進んでいく。燃え盛る勝負師としての目が、一瞬にして冷徹な霧に覆われ食い殺されたのを感じた。
▲同銀。
ノータイムでと金を取るその手には枯れ果てた戦慄だけが表れていた。
「し、師匠……っ!」
やめて、冗談って言って、まだ間に合うから、まだ間に合うから──。
だから、"形作り"を指さないで──。
△同飛成。
自ら首を差し出そうとする師匠の手に、私はいつの間にか足を一歩前へと突き出している。
▲同飛。
「ま、まって──!」
「麗奈君!」
上げようとしていた声を鈴木会長にとっさに抑えられる。対局者に話しかけてはいけない、頭でそれを分かっていても動かずにはいられなかった。
だってこれは、こんなのは──!
「……ッ」
師匠の背中へとしがみつくように伸ばした手は、やがて目線と共に段々と落ちていき、俯く。打ちひしがれる現実を受け入れられない自分に、酷く憎しみを覚えた。
「はっ、負け犬らしく諦めたか。最初からそうしておけばいいんだよお前は」
絶体絶命で、もう挽回不可能、逆転だってもうできないって理解した。
だけど、だけど……それでも最後まで、諦めて欲しくなかった。最後の最後まで勝利へと手を伸ばしてほしかった。
──でも、そう思ってしまうのが、自分の傲慢だと言うことに気づいてしまい。私はただ何も出来ずに茫然と椅子に座ってしまった。
こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ……。
△9八銀打。
「──……負けました」
虚しい敗北宣言が空気を伝って皆の耳に入る。
最後の最後まで投了せずに詰まされて終わる将棋となり、それは有段者が集う一般クラスでは珍しい終局図となった。
「そん、な……」
全身の力が抜けて天井を眺める。
結果だけ見ればまさに予想通りだった、県の代表者が地区大会で負けるわけがない。なのに周りの観戦者達はみな、その結果に納得のいっている様子はなかった。
それは私達が師匠を、天竜一輝を信じすぎていたから。
彼ならやってくれるかもしれないと言う希望が、願いが、この結果の違和感に対する真意だろう。
天竜一輝は強かった、この短期間で大幅に成長した。だからこそ理屈を越えた力が発揮されると、そう信じていた。現実味のない幻想に、私達は縋りついていたのだ。
その結果がこれだ──。
「……ッ」
私は拳を握りしめ、堪えきれない思いをかみ殺した。観戦者達は軽い溜め息を零して一人、また一人とその場から去っていく。
所詮は他人の将棋、所詮は一局だ。しかし当事者にとってはその一言で済ませていい問題ではない、とても大きな、抱えきれないほどの傷を負った一局となってしまった。
決勝戦第一試合は、龍牙の勝利で幕を閉じた。