第三十八手「灯火の予感」
激しい競り合いから一転した展開、互いの攻防は本来の将棋の基盤など関係なくするような気怠さ。もう何度も感じた胸の苦しみに、今度は自分じゃなく他人の為になっていると思うと余計辛さが増してくる。
──あれから、師匠の勢いが増すことはなかった。それどころか手を指すごとに気迫が無くなり、駒を掴む手付きも芯が籠っているようには感じられない。
「……っ」
辛そうな表情、きっと打開への道を必死に模索してる、正解手を探してる。でもそれを見つけるのは人の時間じゃかなわない、たった数分で出来る事じゃない。
もう残り時間も差し迫っているこの局面でどんな策を考えているのか、今の彼の頭の中はきっと誰にも読み取れるものではない。
……だけど私には分かってしまった。それがどれだけ苦痛で苦悩を帯びているのか、知ってはならない感情が流れるように伝わってくる。
後ろ姿に表情は映らない。師匠が、天竜一輝がどんな顔をして考えているのか、この観戦席からは到底分かるはずがない、分かるはずがないのだ。
だからこの想いは偽物だ、勘違いだ、知った気になっているだけだ。一緒に居る時間が長かったから、勝手に彼の考えを分かった気になっているだけに過ぎない。
──まだ大丈夫、大丈夫だから……。
「お、おい。固まったぞ……」
「天竜のやつ、どうしちまったんだ……?」
大丈夫、大丈夫よ。信じる、信じなさい麗奈。きっと逆転の手が思いついて思考を張り巡らせているに違いない、どんな局面だろうと絶対に勝てない将棋なんて無いんだから。
「……」
傍らで見ていた鈴木会長の表情が強張る。それを感じ取れば嫌なことばかり察してしまい、私の表情まで歪んでくる。
縋りたい勝利への執念を、現実が捻じ曲げるように襲ってくる。希望を否定するように、この空気が知らせてくる。
──今の彼の顔を見るようにと、私の本能が叫んでいる。
ただただ時間が過ぎ行く残酷な空間、局面に変化はない。時計は30秒を切っており、秒読みに入ろうとしている。
この大会で、私はいかなる状況下になろうとも決して師匠への信頼を忘れたことはなかった。そしてそれはただの盲信じゃなく、実績に基づいた信念でもあった。
なのに、ここにきてその気持ちが揺らごうとしている。
あれだけ密集していた観戦者がひとり、またひとりとその場を立ち去っていく。もう結果は分かっている、まるで一方的にいたぶられて遊ばれているような将棋だ、見るに堪えない、そう暗に訴えるように。
「あ、諦め、ないで……」
そんな不意に出た言葉を、鈴木会長は一瞥してすぐに対局の方へと視線を戻した。
「それは酷な祈りだ」
顔を上げキッと鈴木会長を睨む。
まだ終わってない、形勢だって絶望的じゃない。私の実力ではここから逆転する手は浮かんでこないけど、師匠ならきっと巻き返す手を見せてくれる。今までだってそうやって局面を覆してきた。
それを信じて、何が悪いって言うの……。
──ピッ。
「ついに天竜君の持ち時間が無くなったか」
師匠の時計は0:00から0:30に変わり、ここから秒読み1手30秒の状態に入った。
局面は硬直したまま、師匠はさきほどから一切の動きを見せていない。時計を見ていないのか、あるいはもう──。
「……ッ」
胸の服を強く握りしめて声にならない苦渋を噛み殺す。
信じたくはない、認めたくもない。だけど、感じ取った彼の背中に気迫は一片も宿っていなかった、勝負師としての強さを表してはいなかった。
それを理解してしまっている自分が、誰よりも彼を応援し信じ続けなければならない自分が、こんな感情を抱いてしまうことに酷く憎しみを覚える。
他の誰が彼の勝利を諦めたとしても、私だけは信じてあげなきゃいけないのに……。
「……がんばって、師匠……っ」
自分に投げかけるように言ったその言葉は、どこか空虚で、無意味な応援にすら聞こえていた。
今日の為に着てきた私服に皴ができるほど強く握りしめ、それでも足りなくて涙すら零れそうになっていた。
「その苦しみは、とても大事なことだ」
「私なんかより、師匠の方がずっと苦しんでる……!」
「そうだね、彼は今苦しんでいる。決して、勝利への手を掴んだわけじゃない」
「……っ!」
夢を壊すかのようにその男は告げる。今の天竜一輝では青峰龍牙に勝てないと、そう断言するかのように、希望を絶つ。
それが何よりも辛くて、誰よりもこの場から逃げたかった。私は今でも彼の勝利を心の底から願っている、そうなって欲しいとただ祈りだけを念じている。
──対局が動いたのは、秒読みが10秒を切った辺りだった。
警笛と共に秒数の音を響かせる音で正気に戻ったのか、師匠は慌てたように自玉を引いて時計を押した。
▲7九玉。
長い膠着状態から出された一手は、良いとも悪いとも言えない凡手だった。意図は自玉の安全確保と駒の動けるスペースを増やすための手、それ以上でもそれ以下でもない手渡しのような一手だ。
そこに今後へつながる狙いが含まれているようには到底思えず……。
「まさか、さっきのって……」
「どうやら考えてたんじゃなくてフリーズしていたようだね。久々の連戦もあってか、疲労困憊して脳が限界を迎えているのかもしれない」
「それって意識を失ってたってことじゃ……悪い冗談よね……?」
その問いに鈴木会長が頷くことはなかった。
いくら本将棋が脳のリソースを大量に使うからと言っても限度がある。それをなし得るのは、明らかな異常空間でしか起こりえない悪夢だ。
そんな悪夢が今起こっていると、それを認めるなど簡単にできるわけがない。それを認め、冷静な分析で対局を見続ける鈴木会長には不気味さすら感じる。
「勝ちは諦めていないが、勝てる手段が思いつかない。それを利用してうまい具合に限界まで考えさせ相手を倒れさせる。──さっきの試合で倒れた選手はこういうやり方をされたってことだろうね」
人である以上、勝負が始まれば誰しも無意識に勝ちを目指そうとする。負けることを嫌い、認めず、出来る限りの最善を尽くそうとする。
それは勝つか負けるか、明確な勝敗がつくまでは永遠と続くに等しい。その勝敗の分かれ目が非常に曖昧なグラデーション状になっている将棋では、最後の最後まで何が起こるか分からない、分からないからこそ最初から最後まで全力を振り絞る。
後半になってガス欠になるはずの思考能力も、秒読みが始まれば強制的に動かされる、動かさないとその瞬間に敗北を突きつけられてしまうのだから。
龍牙はその点を理解し、自らが優勢となってもジリジリとした確実で堅実な一手を振るう。踏み込めば大体勝てるだろうという局面で先走ることはなく、相手を追い詰めながら自らの優勢も崩さない大差の将棋を好む。
だからこそ、やられる側は生殺しの状態に陥ってしまう。明確な負けは存在しないのに勝ち筋が見えない、反撃の妙手が浮かんでこない、だけどもう少し考えれば見えてくるかもしれないと。
そんな思考が無意識に行われ、それが脳のリソースの限界を超える思考へと繋がってしまうのだ。
「……だが、彼はルールを破っているわけではない、ましてや暴力や脅しもしていない。天竜君が自分で考え自分で思考のリソースを使って倒れるのは、中立な視線から捉えれば単なる自業自得だ。それ以上考えずに思考を放棄するという選択肢は常に残されているのだからね」
言葉にすればその正当性は保たれるものの、目で見て感じる自分の不快感を拭うことは出来ない。
それを自在にしている、目的としている目の前の巨悪の根源に対して私はただ小さく呟く。
「……最悪な奴」
「まぁ、同感だね。だがそれもまた勝負というものだ、理不尽なことも受け入れなければならない。そしてそういう理不尽な体験というのは、周りから見ればただの試合にしか見えないのさ。本人たちの激烈な争いは本人達にしか感じ取ることはできない、将棋ならなおさらね」
観戦者に時間切れのシステムはない、緊張もなければ束縛もない。常に余裕のある状態で思考できるのが、対局している者達との大きな違いでもある。
「この対局を見続けている者はみな、天竜君の逆転を待っている。願い、祈り、期待している。──それはとても良いことだ」
天竜一輝という人物が、地区大会で格好の餌にされていたのは本人からの話でもよくわかる。それが、ここまで期待される存在になったのは本当に良いことなのだろう。
だからこそ、その"期待"が将棋という残酷な世界で生み出されたものでなかったのならと、そう思うばかりだ。
「──」
静まり返った会場で立てられる物音は限られる。離席した椅子の引きずる音と、無言に耐えかねた咳払いの濁音。それ以外は一切聞こえない、一切許容されない。
そんな中で天竜もまた、静かに相手の手を待っている。
確かに覚えた違和感は、珍しく彼の手が震えていないこと、それでも形勢は悪いこと。──逆転の手が存在しないこと。
希望と現実が入り混じったような局面に、それでも彼が勝つと夢を見るか、勝てるわけが無いと常識を見るか。
背後に浮かぶ青天の靄。一切の闘気が感じられない彼の目とは裏腹に紛い物とは違う威風が密かに浮き出る。
韜晦していたものが決壊して溢れるように、触れる事無く伝わる確かな熱気。
進み続ける敗勢の盤面に、この場に集う強者だけが目の色を変えた。