第三十七手「残滓のような勢いで」
会場の屋根に雨粒が落ち跳ね上がる音。遠方で轟くような落雷が起きてゴロゴロと唸り声をあげている、吹き荒れる風が窓を何度も叩きつけ去っていく。
自然の音、自然の声。──それ以外は何も聞こえてこなかった。
「なぁ天竜、なんで俺が飛車先の歩を突かなかったか分かるか? なんで俺がパスをしたか分かるか? なんでお前の棒銀をこの形で防いだか分かるか? なァ? ハハハハッ!」
ようやく合点がいったと観戦者は渋々納得させられる。
この男のしたかったことは今、この男の筋書き通りに為されてしまったのだ。
パスと豪語して攻める姿勢を持ってこなかったのも、居飛車を謳っておきながら飛車先を一切突いてこなかったのも、全部、全部──。
「ぜーんぶこの形に持ってこさせるための前準備をしてたからだよ~、掛かったなァ天竜ちゃ~ん?」
その時初めて見せた龍牙の陽気な表情に、俺と観戦者達の顔が歪む。──そう、龍牙は最初から全てを読んでいたのだ。
俺が棒銀を仕掛けることも、囲いを作らずバランス型で攻めることも、全部読み切った上でカウンターを最大限に放った。
この瞬間を、この男はずっと待ってたんだ。
「おやおやァ? 顔色が青ざめてるなァ天竜ちゃん? もしかしてトイレかな~?」
意識が混濁している俺の耳には龍牙のくぐもった声だけが反響する。
会場はピシリと亀裂が入ったように、どこまでも残酷に凍てついていた。
「お前は振り飛車が苦手なんだろ? でもこの試合の初型は相居飛車だ、つまりお前は振り飛車に負けながら形式上は相居飛車で負けたことになる。自身が得意とした戦術を真っ向から否定された気分はどうだ? 俺は感じたことないからその気分がどんなものか知りたいねぇ?」
この形は確かに向かい飛車──振り飛車だ。
しかし将棋の戦型は序盤で決定づけされる。駒がぶつかり中盤に入った時点で飛車を振ったとしても、それは記録上振り飛車として定義されない。
つまり、記録上の龍牙の戦法は居飛車のままなのだ。
「これでお前は振り飛車に敗れながら相居飛車で負けたことになる、面白れぇ策だろ? まさかこうも上手く嵌るとは思わなかったがな~、ハハハハッ!!」
龍牙はあくまで俺に居飛車での敗北を押し付ける気だ。俺が振り飛車嫌いなのを分かった上でこの男は振り飛車を指し、居飛車という縋り所すら無くさせるよう企んでいた。
どこまでも俺を潰すために──。
「ッ……!」
▲4九角打。
迫力の無い防衛策に血の滲むような苦しみを覚える。
こんな、こんな手を指したいわけじゃないのに。まとまらない考えばかりが頭を過ぎって焦っていく。
攻めを一つ増やされたから守りを一つ増やすとか、こんな級位者みたいな考え方じゃコイツに勝てるわけがないのに……っ。
「……」
項垂れた頭を引きずるようにあげ、直視された現実を見て微かに笑った。
級位者みたいな、だって……? 何を言ってんだ、俺は級位者じゃないか、元からこんな手しか指せないような弱者だったじゃないか。
ははっ、そうだよ。俺は一体何を意気込んでたんだ……今まで何様のつもりで胸張って指してたんだ。
俺は段位を持ってる有段者じゃない、ただの級位者だ。
地区大会ばかりで県大会の世界すら見たこともないし、全国大会なんてどこで開催されてるのかすら知らない。
そんなちっぽけな存在だった俺が県大会の代表者を打ち負かす……? 何を馬鹿な考え方してたんだ、そんなこと出来るわけないじゃないか。
ほんのちょっと勢いをつけたからって調子に乗って、たった一回聖夜に勝ったからって自信つけて、そうやって夢見た結果がこれだ。
相手より努力も勉強も劣ってるのにどうして勝てると思ったんだ。勝てるわけがない、勝っていいわけがない。才能を、偶然を、奇跡を頼って勝ち抜いた結果に実力なんて伴わなかった。
ああ、ダメだ。もう手が見えない、一方通行のような手順しか浮かんでこない。
順当や妥当から外して相手の思考を騙す手を考えなきゃいけないのに、浮かんでくる手はどれも単純で分かりやすくて対処しやすい手ばかり。
いや、敢えてそういう選択肢だけを残すように龍牙が誘導したんだ。俺がどんな反撃を見せても対処できるように、分かりやすい局面へと持ち込んだ。
複雑な劣勢ならいくらでも巻き返せる。だけどこれは単純な劣勢、どんな手を講じようと全ていなされるのが目に見えてる、見えてしまっているんだ。
「これでお前はもう何もできない、あとはゆっくりじっくり煮るように攻めてやるよ」
△7五歩。
龍牙は右辺を膠着させたまま、左辺からの攻めを狙いに来た。恐らく狙いは銀交換からの△2七銀打だ。以下▲同銀△同歩成▲同角△同角成▲同飛△同飛成で攻め潰される。
これは2七の地点に利いている駒が同じだから起こる数の攻めだ。
龍牙の場合は飛車、角、歩の3枚が2七の地点に利いている。同様に俺も飛車、角、銀の3枚が2七の地点に利いている。今拮抗を保っているのは、俺も龍牙も同じ枚数だけ同じ地点に駒を利かせているからだ。
つまり龍牙がもう一枚駒を2七地点に足せば、その時点で俺の右辺は壊滅することになる。ここに銀を打たれてしまえば一巻の終わりだ。だから銀を取りに、交換しにいくために俺の銀がある左辺の方に攻めたんだ。
▲同歩。
△同銀。
されるがままに平凡な手で応じてしまう。▲同歩以外にもあったかもしれないのに、ただ目の前の一手に機敏な対応をすることすら怠ってしまう。
「……っ」
ダメだ、ダメだダメだ……。もう打つ手がない、対応のしようがない。次の△7六銀からの銀交換が避けづらいし、躱しても△7三桂から桂馬を飛ばれて、7七地点を殺到されれば玉頭周辺を壊滅させられる。しかも龍牙の角が8七地点にまで利きがあるせいで、守りの金銀を下手に動かすことも出来ない。
どのパターンを何手読んでも、全部龍牙が勝つ道にしか繋がっていないんだ。諦めちゃいけないのに、麗奈の為にも勝たなきゃいけないのに……。
「もう抵抗する気力も無くなったのか、案外脆かったな」
龍牙の言葉に反応する気概すら失い、ただ進み行く時間を死んだような目で見つめる。
持ち時間が1分を切り秒読みへと差し迫る、対する龍牙はまだ5分以上の時間を残して悠々とあくびをしている。
時間勝負すら勝てず、心理戦すらできず、盤面での実力差も歴然としている。
これが級位者と有段者の覆せない差、どれだけ足掻いても届かない高みの地。所詮はルーキー、底辺で燻ってた新人のようなものだ、ほんの少し運と勢いが良かっただけでその場を乗り切っていたに過ぎない。
勝てるなら勝ちたい、諦めたくもない。全力だって出してる。
なのにもう、先読みが出来てない。頭がバグったようにノイズがかかって何も浮かんでこない、盤面が目の前の現実から動かない。
もう限界だ、気が遠くなってくる。今すぐこの苦しみから解放されたい、逃げ出したい。
……それでも。
「……まだ、終わってない……!」
「ほう?」
それでも考えるんだ。唇を噛み締めて考えろ、脳が焼き切れるまで考えろ……! 振り飛車の大局観が思考を壊しても読みの模索を中断するな、選択肢が無くても無理矢理作って考えろ。100手でも200手でも300手でも……逆転の手が見つかるまで探し続けるんだ……!
きっと見つかる。打開の手は必ずある、必ず──!
だから──!!
「…………ぁ」
その異常は、自分でも気づけないほど反射的に出てしまったものだった。
小さく唸った声が口から漏れ出る。掠れたような、生気の灯ってない声。それが魂ごと抜けていくように口から吐露した。
「……師匠?」
異変に気付いたのか、麗奈が不安そうにこちらを見つめる。周りの音が無音に変わり、不快な耳鳴りと自分の心臓の音だけが激しく聞こえてくる。
直前まで頭の中に思い描いていた様々な候補手と最後の欠片が蒸発したように消え去り、プツンと音を立ててその考えごと真っ白に──。
──ピッ。
「……え?」
時計が秒読みに入ったことを知らせる合図が耳に入るが、脳が一切反応しなかった。それどころか今起きている事象に理解が追い付いていなかった。
俺は目を見開いたまま瞬きをするのすら忘れ、漠然と自分の手を見つめていた。
あれ、今……何指そうとしていたんだっけ……。