第三十六手「青き龍の向かい飛車」
龍牙がその手を指した瞬間、観戦者たちの血の気が引いた。
それは理解というより、衝撃だった。
△3三金。
軽く滑らせるように指した龍牙の手付きは、もう勝負に対する熱意など微塵も感じない。勝負を開始した時に感じた覇気など一切纏っていない。
角換わり棒銀の定跡手△3三金。それは初めて見る人にとっては一瞬目を疑う手だ。
一見素通しに見える飛車先は、実は何も素通しになどなっていない。2二の地点は龍牙の飛車の横利きが利いており、2一の地点は5四の角のラインが見事に守っている。
2筋がこれだけガラリと開いているにも関わらず、天竜の飛車は一切成り込むことができないのだ。
上級者ほど見えづらい手を指す、そしてそれが見えた時には既に手遅れ。大会に"待った"は通用しない。
「……っ」
▲2六飛。
天竜はじっと飛車を引くが、その手番が変わっても会場のどよめきは未だ止まらない。この飛車引きが安全なものになるのなら、龍牙の手でここまで空気が変わることはなかった。
龍牙の放った△3三金が一体どれだけ状況を一変させた手なのか、それは実力がある者ほど早く気づいていく。
この△3三金は想像以上に上部に手厚く、天竜の飛車は下がる場所がほとんどない。攻めていた天竜の飛車を、龍牙は自陣の守りの駒まで使って捕らえに行ったのだ。
天竜の飛車は逃げ道が限られている。本来なら一番安全とされている最後尾、根本まで下がり過ぎると龍牙の角の利きに利用されて飛車の頭を押さえられてしまう。
だからこの▲2六飛は天竜にとっても苦渋の判断だった。
「いいのか? そんな凡手で、そんな弱気で。──お前が一体誰に挑んでるのか、よく顔を上げて見てみろよ」
△3五銀打。
強烈な銀打ちが天竜の飛車を襲う。手持ちの駒を的確な場面で躊躇せずに使い切る、まさに高段者による容赦ない反撃だ。
銀を打ち込まれた天竜の顔色は段々と変わっていく、同時に麗奈の視線が落ちていく。否定したい現実に、受け入れたい夢のような幻想に、縋る希望はみな満場一致だ。
だが、龍牙は容赦なく次々とそれらを壊していく。
「師匠っ……」
祈る様に両手を重ね強く握る麗奈。
まだ中盤、きっとまだ互角、致命的なミスはまだ何も起きていない。ここから、ここから天竜が反撃を見せてくれると、ただ強く祈り続ける。
▲2八飛。
俯く天竜の顔は周りに見えることはない。ただ沈黙と共に十数秒考え、静かに指す。その手は震えていない。
まだ何か秘策があると言うのか、ここまでの手引きは全て研究通りだとでもいうのか。
強い緊張感が大きな波となって観戦者たちを襲う。時の流れが遅く感じ、時間を刻む時計の数字が止まって見える。
そうだ、彼ならきっと奇跡を起こしてくれる──。
夢の様な逆転劇を、主人公のような常識外の手を、彼ならきっと指してくれる。今までだってそうだった。初戦で見せた聖夜との対局、銀損という壊滅的な状況から逆転し文句のつけどころがない勝利をしてみせた。
二戦目も、中飛車を使ってきた相手に最新型で挑み完封してみせた。
今回だって何か凄い策を秘めているに違いない、劇的な一手を見せてくれるに違いない。彼はこの大会でダークホースとなったのだから、旋風を巻き起こした期待の新人なのだから。
だからきっと、彼にはまだその一手が残されて──。
「そんなものがあるほど、これは甘くないからね。──そうだろう、天竜君」
ただ一人。冷静沈着に盤面状況を把握していたその男だけは、俯く天竜の様子に気が付いていた。
◇◇◇
それは、まるで心臓だけを体から引き抜かれたような感覚だった。
痛くも苦しくもない。ただぽっかりと穴が開いた胸に手を当て、服を強く握りしめる。
どうしてこうなった? どうして見えなかった?
唖然とした表情で盤面を見つめる、あれだけあった龍牙に対する怒りの感情が沈静化していく。
龍牙の指す反撃の一手一手に重い一撃が入っていく。抗う気も起きない、胸に風穴が空いたような心地よさすら感じる。
──俺の腕は、恐怖に震える事すらなかった。
「……っ」
表情から感情が抜け落ちていく。
絶息しそうな調子で、口から出たのは声というより呻きだった。
「必死に隠そうとしてる動揺が丸見えだなァ、ククク……」
それをさも満足げに龍牙は嬉々とする。
そして笑いを堪えるように歩を持ち、親指で弾くように指の中へと押し込める。その手付きは指すと言うより、叩くだった。
△2六歩打。
駒が浮くほどの力で盤面に歩を叩きつける龍牙。
絶対に間違えない、研鑽を積んだ高段者の一手だ。俺が最も嫌がる手を、この男は百発百中で当てに来る。
口からどれだけ戯言を並べようと、この域は才能だけでたどり着ける場所じゃない。単純に、龍牙の勉強が俺より上なんだ──。
「足りない、足りないねぇ……。たかが数千時間の努力で勤勉にでもなった気かよ、俺はその十倍は盤面を見続けて来たんだが? お前は語る単位を間違えてる」
以前に放った言葉を最も形勢が決まった局面で返す。文句があるなら対局でと俺が言った言葉を、龍牙はそのまま有言実行している。
対する俺は、完全に戦意を捥がれていた。それはなまじ形勢が見えてしまったが故の自信の喪失だった。
ほんの少しだけ顔を上げ、死んだような目で周りを見渡す。
周りの観戦者のほとんどはこの対局を注目していて、決まり切ったはずの龍牙の勝利を否定するかのように熱い視線が俺に向けられている。
俺なら、天竜一輝ならここから盛り返せると期待が込められている。
それは初めて感じた、弱い者を見る目じゃない目だった。期待に胸を膨らませた、強き者に向けられる目だった。
……うれしかった。だけど、同時に悔しかった。
無尽蔵に広がった盤面へと乗せた思いは淡く消え、幻のような勝ち筋は粉々に崩れきった。
ここから逆転できる手を俺は持っていない。彼らの期待に応えられる妙手を、俺は発見できていない。
せっかく向けられた期待の眼差しに、初めて向けられた誰かの思いに、俺は目の前に差し出されたチャンスすら掴み取る事が出来なかった。
ただ単純に諦めてるわけじゃない、今も必死に考えてる。
だが、どれだけ読みを進めても、ここから巻き返せる一手が何も思い浮かばないんだ。
──ピッ。
「──!」
時計の音、もう5分を切ったのか──。ダメだ、とにかく指さないと。次の2七歩成を許すわけにはいかない、苦しいけど我慢してここは耐え抜く。
いつか訪れるチャンスを待って、龍牙の手番の時にもっと考えよう。
麗奈にも学んだんだ、勝負が終わるまでは諦めなければきっとチャンスは訪れるって。そのチャンスを掴み取る準備を常にしておけって。
だからまずはこの一手、龍牙のミスを誘発させるまで耐え抜く──!
▲3八銀打。
僅かに残った戦意を手綱に精一杯の力強い一手で銀を打ち込む。
棒銀で攻めていたはずの2筋は、龍牙の反撃で一瞬にして逆転された。突破したはずのその飛車先は、今や小駒によって制圧されている。
たった数手の出来事だったはずなのに、まるで天地がひっくり返ったような形勢になっている。
これが高段の実力、これが県のトップ。
だけど、ここで負けるわけにはいかない。ここで負けたら何のための特訓だったんだ。まだ勝てないと決まったわけじゃない、まだ敗勢となってるわけじゃない。
聖夜の時のように、ここから限界を越えて指し続ければきっと──ッ!!
「──どこまでも本当に想像通りだな天竜、だからお前はいつまでたっても地区大会すら勝てねぇんだよ」
不気味な笑みがほんの一瞬垣間見え、その視線は戦いが起こっている2筋とは全く反対側の8筋へと向けられていった。
俺の集中はそこでプツンと弾けたようにちぎれ、地獄の底から感じるような悪寒に全身を苛まれる。
観衆が目を見開き、麗奈がぎゅっと目を瞑り、会場でただ一人だけ俺を見て嗤った。
△2二飛。
真横にスライドさせて引っ張って来た大砲は、俺の陣地を完全に射程圏内に捉えた。
その駒に全ての観戦者の視線が行ったに違いない。首を締めあげられたような息苦しさに悶える暇もなく、俺は自然と言葉を漏らした。
「振り、飛車………」
僅かに高鳴っていた胸の鼓動が一瞬巨大に脈打ち、そして静かに消える。
絶望が、目に浮かんだ──。
「クハハハッ! そうだ、その顔が見たかった、ハハハハッ! あぁ面白れぇ、その欺瞞にやられたような表情はまさに傑作だ……ククク、ウハハハハッ!」
思考が壊される、考えていたはずの手が次々と消えていく、頭の中が真っ白になる。龍牙の笑い声が頭の中で反響し、克服したはずのトラウマが猛烈に蘇った。
思い出さないよう必死に閉じ込めていた記憶が、自分の意思など無視して無理矢理こじ開けられていく。
『君、もう横歩取り指さない方がいいよ』
尊敬していた人達の口から放たれた呪縛の言葉。
『おーい! ここに振り飛車のカモがいるぞー! ギャハハハ!』
夢見た世界で踏み潰された迫害の自分が。
「や、やめ──」
必死に取り繕っていた平常心が剥がされ、見ないようにしていた現実を直視される。着飾っていたものが全部消えていき、目の前には俺が最も嫌い避けていた悪魔の様な対極の飛車がそこにはあった。
右側にあるはずもない俺の心臓を尽く撃ち抜き、恨みさえも忘れさせられる無情で理不尽な存在。
──振り飛車の代名詞、"向かい飛車"。
しかもこちらの棒銀を逆手に取った逆棒銀。戦況はまるで盤面を180度回転させたような展開に移り、棒銀で攻めていたはずの2筋は、向かい飛車での逆棒銀を喰らい攻められる局面へと一変した。
龍牙の飛車からは麗奈との対局では感じなかった威圧ある大駒の睨みが映し出され、俺に風穴をあけようと不気味に笑う。
まるで龍牙自身を投影したかのような、そんな笑いが聞こえてきた。
「さァて、攻守交代だ。俺の逆棒銀は潰れるだけじゃ済まねぇぞ?」