第三十五手「天地がひっくり返る瞬間」
将棋がなぜ先を読む競技と言われているのか、それには明確な理由がある。
それは将棋プレイヤーなら誰もが知る最も基礎的で簡単な理屈のひとつ。将棋は『失わせて得をする』ものであるからだ。
目先の利益ではなく、後の利益を考えて指す。これが将棋には非常に顕著に表れている。
そもそも将棋にはある一定以上の棋力を持つ者同士が戦う場合、相手の駒をタダで取るor取らせる行為は発生しない。
例えば初手から歩を前進し続けていけば、いずれ相手の歩に衝突しタダで取られる事になってしまう。将棋は交互に指すターン制なのだから、こちらからぶつかってしまえば間違いなく取られるのだ、それは目先のことだけを考えれば明らかな損になる。
だからこそ将棋は相手に駒をぶつける前に必ず『後に取り返せる』もしくは『その隙に攻め入れる』という策を組み込まなければならない。これこそが先を読む、という行為に当たる。
それは天竜の仕掛ける棒銀も同様の理屈だった。
△同歩。
龍牙は2四歩と天竜の突いた歩を取って手持ちにする。
こちらから歩をぶつけにいくのだから相手の手番になれば取られるのは当然。しかし将棋は先を見据える、先見の明があってこそ成り立つものだ。
▲同銀。
△同銀。
▲同飛。
二人の手番は迷いなく交互に進み、それを見る選手達もまたこの流れに疑問は持たない。
原始棒銀の炸裂、天竜の攻めはしっかりと通った。
先に突いた天竜の歩は龍牙に取られてしまったものの、次に天竜は自身の銀でその歩を取り返し、またその銀を龍牙が自身の銀で取り返し、そして天竜がその銀を飛車で取り返した。
将棋は常に、駒を取られても取り返すというのを念頭において戦わなければならない。そのため、いかなる状況下であってもタダで取られるなんてことは起こり得ない。
そして天竜の棒銀が通ったこの局面、歩と銀が両者の手元に渡っただけで一見ただの交換にも見える。しかしそれは間違い、両者には決定的な違いがあった。
龍牙の銀は"玉を守っていた銀"、天竜の銀は"相手を攻めていた銀"。
これが二人の決定的な違いである。
龍牙の銀は、元々玉周辺やその場所を守っていた自陣の銀。つまり交換が終わったこの局面、龍牙は今すぐ持ち駒の銀を使って、同じ場所にもう一度銀を打ちなおして守りを固めたい。
対する天竜側の銀は元々2筋を攻めるためのものだったため、それが持ち駒に移ったとなれば損どころか得をしたことになる。持ち駒になれば今度は好きな場所に打てるのだから、盤上にいた攻めの銀より遥かにパワーアップしたと捉えても良い。
つまり、一見ただの交換に見えたこのやり取りは天竜が大いに得をした形となっている。これこそが棒銀の利点であり、棒銀が優秀たる所以でもあった。
「……」
会場は静けさを取り戻しつつあるが、各々の思いはまさに絶頂期とも言えるほどたった一つの対局に釘付けだ。
二人の周りを囲うように観戦している選手達は顔色一つ変えないが、天竜があの龍牙に勝てるかもしれないと言う信じられない光景に固唾をのんでいる。
まだ中盤の競り合いが始まったばかりのこの局面、何もしていない龍牙と比較しても天竜はしっかりと囲いを作って飛車先の攻めを成功させている。
間違いなく優勢だ。
龍牙にどれほど未知の力があるのかは分からない、しかし県大会優勝というアドバンテージは、ここから奇跡の逆転劇を見せるのには十分すぎる経歴だ。
だが、それは天竜とて同じこと、イレギュラーは常にその常識を塗り替える。連戦連勝と獅子奮迅の如き勢いを見せる彼に、今さら敗北の二文字は浮かんでこない。
龍牙が圧倒するかに思えたその対局は、今この瞬間こそ天竜に分がある。
これは、もしかしたら、とんでもない下克上があるのかもしれない。そう二人の対局を見ている観戦者たちは、誰もがその可能性に希望を乗せていた。
ただ一人、静かに冷や汗を浮かべる麗奈を除いて──。
「──呆れた」
その一言が全ての流れを壊した。
「……は?」
熱気に包まれた観戦者たちに背筋が凍るほどの冷気が流れる。
龍牙は天竜の背後、観戦席で佇む鈴木会長に視線を向けた。
「鈴木哲郎──。かつて鬼才と呼ばれたあの指導者が手に掛ける昇竜ってのがどんなものかと思えば、ただの杞憂だったか。卵から孵化すらしてない、とんだ期待外れの新人だ」
ため息交じりに呟いた龍牙は、予想通りとでも言わんばかりの表情だった。
心底つまらなそうに肘を机に乗せ、盤面から目を離す。
「お前、さっきプロを目指すとか豪語してたな」
龍牙は少しだけ間を置いた後、馬鹿にするような声色で告げる。
「──話にならねぇ。その夢は諦めて大人しくバイトでもしてろ」
突き刺さるような発言に、周りは耳を疑った。
「……」
沈黙する天竜、拳を握りしめる麗奈。
龍牙は首を軽く鳴らし、己の盤面など見向きもせずに天竜を見下す。
「聞こえなかったか? 地区大会すら勝てないような男なんだから、今さらプロを目指すなんてやめろって、な?」
自分の盤面の形勢などまるで無関係のように、龍牙は審判に聞こえない程度の声で天竜を馬鹿にし続ける。
龍牙の時計は既に10分を切っており、時間的にも形勢的にも余裕がなくなってくる頃合いだ。だというのに龍牙は既に勝ち誇った表情を見せていた。
その相反した行為に、観戦者達は彼の不気味さを感じ取る。
「……せよ」
「あ?」
先程から沈黙し顔を俯かせていた天竜が口を開く。
余裕綽々の龍牙は、それを聞いてやろうと耳を近づける。
「早く指せよ」
静かにそう呟く。
龍牙の挑発がどれほど効いているのかは分からないものの、天竜は落ち着いた様子で自分の盤面を見つめていた。
そう、そうだ、これはただの心理戦。自分の形勢が危ういから、悪足掻きをして相手のペースを崩そうとする龍牙の作戦に違いない。
観戦者たちはきっとそういうことだろうと考え、龍牙がただの遠吠えを放っているのだと再び盤面に目を向ける。
天竜の棒銀が成功したこの局面で、龍牙が勝利を確信するわけがない。天竜が優勢となったはずのこの局面で、そんな天地がひっくり返るような都合のいい手などあるはずがない。
「そうか、そうだな。──じゃあ、お前がもう勝てないと思える一手を見せてやるよ」
そんな、幻想を崩すかのような発言に、希望が打ちひしがれるような目に、観戦者たちは驚き、そして──自分の目を疑った。
龍牙は駒を掴むこともなく滑らせるように押し、スッと金を上げる。
期待と緊張に胸を躍らせていた会場内からは、心臓の鼓動など一切聞こえてこない。無音に襲われ、外から豪雨とも呼べる雫が屋根を打ち付ける雨音のみが響く。
小説の様な物語はまるで現実を帯びた残酷な世界に投げ込まれたかのように、そんな世界は最初から無かったと告げられた時のように。
誰かの夢が崩れていく音だけが彼らの耳に届いた。
△3三金。