第三十四手「ハンデの終わり」
将棋を始めたてのころ、誰もが最初に教わる最も基礎的な戦法がある。
それは"攻め"という分野の理屈を最大限に生かした単純明快な攻撃手段、誰もが知る基礎中の基礎の攻め。
──"棒銀"である。
棒銀の攻めは至って単純であり、その名の通り銀が飛車筋を直通しながら棒のように真っ直ぐに繰り上がって行く攻め方である。
将棋の攻め駒は"飛車、角、銀、桂"と言われており、棒銀はその飛車と銀を使った初心者にも分かりやすい攻めのひとつだ。
しかし、逆に言えば"攻める"という事が丸見えの状態での戦法な為、対策もされやすく上級者向けではない。
例えば、ナイフを持った男が切っ先をこちらに向け走ってくるとしたらどうだろう。相手はこちらに向ける殺意が明確であるため、戦う、逃げる、武器を落とすなど様々な選択肢が取れるはずだ。
だがナイフを懐に隠したまま近づかれ、直前で突き刺して来たら対処のしようがない。
将棋の戦法も同様、明らかにここから攻めると見え見えの戦術を取っていれば、誰だって防ごうと事前に対処を行うだろう。
だが逆に、霧に隠すように見えづらい攻めの拠点を用意することで、その攻めを看破されずに仕掛けが成立することもあるのだ。
故に上級者ほど細かく、見えづらい攻めを仕掛けてくる。単調な攻めではなく、いくつも重ねた複雑で難解な攻めを使ってくる。
棒銀は確かに攻めの理想である、しかしその単純さ故に対策もされやすい。
では、もしその理想の攻めと言われる棒銀を指して、それが相手に気づかれないことがあれば。いや、相手が対処を一切してこなかった場合があったのなら……。
それはもう、攻め勝ちと言ってもいい局面ではないのだろうか?
「棒銀が……成功した……?」
「天竜があの青峰龍牙相手に優勢だ……!」
観戦者は自分達が見ている現実が信じられないかのようにざわつく。
局面を見れば唖然。一切攻めの形を完成させていない龍牙に対して、天竜は守りと攻めの両方を完璧に完成させた布陣を築いていた。
棒銀の銀は、盤面の五段目まで持っていくとほぼ確実に攻めが成功すると言われている。
そして天竜の銀はしっかりと五段目まで登り切り、棒銀の本領と言ってもいい次の▲2四歩の仕掛けは絶対に受からない。この局面は誰が見ても天竜の優勢だった。
「……師匠」
呟く麗奈の声は観衆のざわめきに掻き消される。不安に身を包んだ声色が、麗奈の悲哀な表情を照らし出す。
天竜もまた、同じだった──。
「天竜一輝、俺が居飛車一本のお前に訃報を下してやる。二度と将棋が出来なくなるくらいにな」
対する龍牙は局面とは正反対の表情。余裕に満ち、腕を組んで一切の思考を巡らせない。もはや考える必要すらないと言った表情を浮かべている。
確かに局面だけ見れば間違いなく天竜の優勢。このままいけば、県大会優勝者に勝利する一騎当千も大いにあり得る、あり得るハズなのだ。
この局面が……龍牙の設けたハンデでさえなければ。
◇◇◇
天竜が棒銀を決める数分前、局面は龍牙の傲慢なパスが続いていた。
「……」
地区大会と言えど、対局の熱気は他のどのスポーツにも負けず劣らずだ。
まるで予選は肩慣らしだと言わんばかりに、決勝リーグ戦に上り詰めた8名の選手は燃え上がる。真剣な表情で相手の策謀を完封させようと、ありとあらゆる知恵を巡らせる。
そんな中でも、この二人の対局は一段と火花が散っていた。
「さて、どうしたものか。──どうしたらその強張った顔面を粉々に崩せるのか、悩みどころだなァ?」
△7四歩。
龍牙は天竜の気迫に動じる様子はなく、マイペースに飛車先のコビンを突く。
そして時計を押すのを確認すると、対する天竜は素早く銀を上げた。
▲2七銀。
その手は棒銀を目指す一手。角換わりと言えば『腰掛け銀』や『早繰り銀』などが有名どころだが、天竜の指した手は最も古く典型である『原始棒銀』だった。
「ほぉ、棒銀か? 反対に俺を挑発しているのか、それともそれがお前の得意戦法とやらか?」
龍牙はその棒銀を目指す手に反応する。
原始棒銀、通称棒銀は最も単純で理想的な攻めだからこそ簡単に受けられやすい。それを県大会の優勝者に浴びせるなど、前代未聞だ。
「飛車先を突いていないのが敗因だ」
「敗因とは大きく出たな? 反撃手段がなければ攻めを防がれないとでも思ってるのか、居飛車一辺倒さんよ?」
それ以上の問答はしない、その会話の続きは盤上ですればいい。天竜は麗奈から新しく貰ったお茶を飲み、盤上全てを見渡す。
あれだけ攻め手をパスした龍牙に反撃の手段は残っていない、ならばこちらから一方的に攻められる戦術を取るだけだと。
△7三銀。
龍牙の攻めの銀も三段目に辿り着き、ようやく動き始める。だが飛車先を一切ついていないせいで、天竜との攻めの速度には大きな差が生まれている。もう天竜から攻めの主導権を取り返すのは不可能だ。
龍牙自身から申し出たとはいえ、そのあまりに大きなハンデに、その価値が分かる選手はみな苦渋の表情を浮かべる。
例え差があれど、もしこれほどのハンデで勝ってしまうようなことがあれば、将棋に対する恐怖が芽生えてしまう。そんなことはあってはならない。
▲2六銀。
天竜も龍牙との攻めの時差を理解し、最速で攻撃しに銀を前進させる。一般的な通説では、銀が五段目までたどり着くことが出来れば棒銀戦法は成功とされている。
現在天竜の銀は自陣から見て四段目、あとひとつだ。ここから次に▲1五銀と出れば間違いなく成功だろう。しかし、龍牙はそれを防ぐために△1四歩と端歩を突いてくることが予想出来る。
だがその手には▲1六歩と突き返す手があり、次の▲1五歩からの端攻めが成功する。
龍牙の陣地は非常に不安定な形をしており、まともに籠城もしていない。対する天竜の構成は表面上棒銀と見せかけて、実は端からの攻めも用意してあるのだ。
これに龍牙は知ってか知らずか、端を突くことなく銀を上げた。
△6四銀。
指せば指すほど龍牙の手は悪くなっていくように見える。△7二飛と事前に袖飛車へ組んでいれば△7五歩からのカウンターも決められるが、序盤に与えたハンデのせいで攻めるための手番が足りていない。
角で攻めようにも天竜の3七の地点である飛車のコビンが空いてないため、角打ちからのカウンターも狙えない。
局面は誰の目から見ても天竜の優勢だった。
▲1五銀。
天竜はもはや龍牙の手を確認することなく銀を繰り出す。そして、無駄なく最短手順で上り詰めた銀はついに盤上の五段目に入り──。
「棒銀が……成功した……?」
「天竜があの青峰龍牙相手に優勢だ……!」
天竜が仕掛けた棒銀が成功したことを盤上で示した。
「……これもハンデなのか?」
「お前が仕掛けるまで俺は一切攻めないと言っただろう? だがまあ、受け身くらいはとらせてもらおうか」
△5四角打。
この手は棒銀に対する受けの定跡とされている。このあと天竜が棒銀で攻めようと▲2四歩△同歩▲同銀と進行した場合、同銀の時に△2七歩打とされ飛車先を遮断されてしまう。
その手に対し飛車が逃げれば△2四銀と天竜の銀をタダで取られてしまい、棒銀は失敗に終わる。
つまりこの角打ちは、天竜の飛車の頭を抑えるためのものである。であるならば──。
▲2六飛。
天竜は龍牙を一瞥した後、その手は知っているぞと飛車を浮かせる。頭を抑えられるというのなら、抑えられる前に浮遊すれば何も問題はない。
これで龍牙の打った角は天竜の飛車を空振りし、その利き筋に一切の駒が無い状態となる。もはや天竜の攻めを止められることはなくなった。
更にこの飛車浮きはそれだけに留まらず、同時に後手の攻め筋だった7六の歩も守っている。
多くのアマチュア棋士はその利便性故に飛車を"縦"に使いがちだが、それはあくまで攻めに使う場合だ。本来の飛車の本領は縦とその"横"利きにある。
「これが、アイツの本当の力なのか……」
「相居飛車が強いと言う噂は本当みたいだな……」
今まで振り飛車で天竜を下してきた選手たちが驚きの声を発する。
実際に天竜の相居飛車を受けたことがない者も周りの流れから、天竜相手には常に振り飛車を指すような風習が出回っていた。
そのせいで天竜の相居飛車がどの程度の実力なのか、その実態を知らない選手はかなり多い。
「相居飛車は見慣れている」
「みたいだな、だがこの程度でドヤ顔されちゃあ困る」
天竜と龍牙の目線は度々衝突し、幾度も火花を散らせる。
交戦が始まる前から水面下で白熱した冷戦が繰り広げられ、その読みは互いに一歩も引けを取らないものだった。
しかし龍牙はここで思いもよらない一手を放った。
△1四歩。
天竜の棒銀を自ら誘い込む1手を指したのだ。
「──正気じゃねぇ」
影から一瞥していた聖夜が小さくその言葉を漏らす。
天竜の棒銀は成功間近だ、それを龍牙はパスとも思える一手で棒銀をして来いと誘ったのだ。
しかしこの手は同時に、天竜の次の一手を確定づけるものでもある。
現状この歩突きで銀は逃げることが出来ない、次の一手は棒銀成功となる2四歩の一手に絞られたのだ。
攻めが成功すると考えればそれはいいように思えるが、逆に言えば龍牙は天竜に棒銀の攻めを無理矢理させる一手に換えたとも捉えられる。
「……ああ、そこまで言うならいってやる。いってやるよ──!」
天竜は飛車先の歩を持ち上げ、大きく振りかぶる。相手は県代表、そんな怪物に古来からある理想の攻めをぶつけるのだ。
将棋は受けより攻めの方が失敗しにくく、攻めが決まればたとえ実力差があったとしても勝てる可能性は大いに飛躍する。
そんな迫力の地力勝負は、天竜と龍牙の相居飛車からついに激突した。
▲2四歩。
叩きつけられたその歩は直前まで握られた天竜の意志が籠った強い一手、俯瞰する天竜の目に晒され目の前の隘路を断罪する希望への礎になる。
長かった序盤の競り合いは終わりを迎え、龍牙の誘いに乗るようにして突いたこの一手で局面は熾烈を極める中盤へと移行した。
「……突いたな? そんじゃあハンデは終わりだ」
不気味に嗤って突かれたその歩をむしり取る龍牙。
攻められるまで一切仕掛けない、そう言っていた龍牙のハンデは天竜の歩突きによって解消され、ついに龍牙自身も攻めを見せようと首を鳴らす。
そうはいっても龍牙の陣地はほとんどばらけており、飛車先も一切ついていない状態。少なくとも龍牙自身から攻撃を仕掛けるにはあまりにも手数がかかってしまい、その間に天竜に攻め込まれるのが見て取れる。
周りの観戦者もその結末しか想像が出来なかった。
「出来ないと思ってんのか? ──舐めんなよ、お前らとは地力がちげぇんだよ」
龍牙の敗勢を悟った観戦者にギラリと目を光らせ、零れる笑みを抑えるように喉を鳴らして時計を押す。
まだ勝つ秘策があるかのように、逆転の手が残されているのをこの場でただ一人知っているかのように、龍牙は不気味な笑みを浮かべる。
「天竜一輝、俺が居飛車一本のお前に訃報を下してやる。──二度と将棋が指せなくなるくらいにな」
一変した龍牙の手付きは先程までのやる気のない指し回しとは打って変わり、盤上の駒を淘汰するかの如く剣呑な風格に様変わりしていた。
かつては県大会だけではなく、地方ブロックでも敵無しと言われるほど席巻していたその実力。それは生半可な才能と努力だけでは成し得ない領域だ。
どんな性格であろうと、そこまでしてきた努力の過程は決して消える事はない。
鈴木会長は、龍牙の背後に浮かぶ青き昇竜の姿を脅威として目に焼き付ける。棒銀は単純故に受けやすく、単純故に攻めが決まれば受けづらい。
事実上の優勢とも言えるこの局面をどう返してくるのか、それに対して彼はどう動くのか。そんな本人たちの熾烈な戦いに、鈴木会長は中指で眼鏡を上げ、沈んだ空気の中でただ一人静かに笑った。
「──これは面白くなりそうだ」