第三十三手「動き出す者達」
大会は終盤を迎え、敗れた選手たちは次々と会場を後にする。
そんな中、二人の選手が話をしていた。
「なぁ、さっきの試合どうだった?」
「ああ、天竜一輝と青峰龍牙のだろ。──あれは予想外だったな」
「だよなぁ。まさか最後あんなことになるなんて思いもしなかったよ、ありゃ前代未聞だ」
階段を降りながら先程の大会の内容を口ずさむ選手たち。他の選手も二人の対局について話題沸騰している様子だった。
「帰るのか?」
「まぁこれ以上会場にいてもしょうがないからな、誰が優勝するか分かり切ってるし」
「確かに、次の大会に期待するとするか~」
今回の大会は荒れに荒れた内容だった。それは今までで一番長い大会の一日と、そう呼べるほど濃厚な時間が会場では巻き起こった。
それは誰もが予想した通りであり、誰もが予想できないものでもあった。
「あっちゃー、大雨じゃねぇか」
「だなー、こんなことなら免許取っておけばよかった」
選手たちは会場の玄関付近まで来るも、肝心の外は嵐と見紛うほどの大雨にたじろいでいた。このまま会場を出ようにも、この雨の中外に出てしまえばずぶ濡れになってしまう、それほどの大雨だ。
車を持たない人や中高生達は数分その場で待機するが、このままここで待つのも退屈だろうと再び会場の方へと足を向け始める。
そんな中飛び込んでくる少女が一人──。
「おお~!? ここが西地区の大会かー!」
大雨の中から飛び出るように中に入って来たずぶ濡れの少女。
辺りをキョロキョロと見回し、大会の会場への階段を見つけると勢いよく飛びあがる。
「お、お嬢ちゃん、流石にその状態で会場には──あ、ちょっと……!?」
声を掛けた選手の言葉を無視して少女は階段を登る。ずぶ濡れになった季節相応の厚着は水分を多く取り込み、走ると同時に大量の水溜まりが少女の跡に続いていく。
「なんだったんだ今の……」
こんな会場には似つかない姿の子が雨の中から突然現れ、突然会場に走っていった。そのあまりに幼い見た目に選手たちは動揺する。
既に大会は予選を終え決勝リーグ戦が始まっている、子供の部は午前中で既に終了済みだ。恐らく大会の参加者ではないだろう。
大会に参加してる選手の娘か親戚の子だろうか?
「でもあの子どっかで見たような──?」
そんな疑問を浮かべながら、選手たちも同時に会場へと向かって行った。
◇◇◇
時は遡ること30分、大会の会場の方では火花が散るほどのピリついた雰囲気が漂っていた。
龍牙のハンデという提案を無視して攻め始める天竜。それでも囲いの差は歴然、組み上がり具合からも天竜の優勢は明らかだ。
問題は彼の精神的な問題だけで──。
「挑発に乗っちゃだめよ、師匠……」
その言葉を大声で叫びたい、だが対局者への話しかけは反則負けになる。
麗奈は誰にも聞こえない小声でそう呟くしかなかった。
「天竜君の判断は間違っているわけではない。もし龍牙君の誘いが嘘やハッタリだった場合、天竜君は穴熊を作る途中段階で攻められるかもしれないからね。挑発に乗っても相手の誘いに乗らないだけまだ冷静な方だろう」
鈴木会長は穴熊の危険性をよく知っていた。
穴熊は最強の囲いと言われるだけあって、完成するまでには幾多もの大きな隙を見せる事になる。その瞬間に攻められれば相手の思うツボ。
ましてやこの局面は相居飛車でお互い角を手持ちにした状態、駒を密集させ片方がガラ空きになる穴熊など危険なんてレベルではない。
本来穴熊とはお互いが硬直状態になり、攻める手立てがない場合に囲うものである。まだ始まって間もないこの局面から穴熊をするにはあまりにリスクが大きい。
天竜の判断は決して間違いというものでもなかった。ただ、それだと真っ向から龍牙と激突する羽目になるというだけで。
「師匠は相居飛車が得意、なのよね……? あの時私に見せた実力で戦ってくれるのよね……?」
不安そうな目で訴える。
もし、あの時みせた横歩取りのような完璧な読みができると言うのなら、龍牙との勝負も決して悪い結果にはならない。むしろ龍牙すらをも越える先読みの力があるはずだと。
だが、鈴木会長はその言葉にゆっくりと首を振る。
「彼が相居飛車を得意としているのは、研究対象である横歩取りの副産物でしかない。振り飛車よりは遥かに場数も踏んでいるだろうけど、横歩取りの時のような逸脱した先読みは出来ないだろうね」
現実はそんなに甘くない。天竜の潜在的な力は確かに高い、だがそれはあくまで天竜自身が真の実力を出し切った時の結果論だ。都合よく全ての状況下においてその力が発揮できるわけじゃない。
当時天竜がまだ大会で居飛車を繰り広げていた頃、予選は上がれないものの強豪選手を何人か倒すことはできていた。その棋力は1級以上初段未満というもので、相居飛車だけの彼の評価で言えば有段者に手を伸ばせるほどの力は秘めていた。
そう、今の天竜の元の居飛車の棋力は初段に届くかどうかだ。四段以上ある龍牙とはそもそも力の差が違い過ぎる。
「麗奈君、彼と相居飛車の特訓はしたかね?」
「……っ」
唇を噛み締め首を振る。
だってそうだ、今回の特訓はこの大会で天竜自身を戦術的に勝たせるためのもの。相手は天竜に対し振り飛車を仕掛けてくることが想定できた、だからこそ対振り飛車の対抗型を中心に特訓させたのだ。
相居飛車でいけば十分上位は取れる実力がある、なら不得意な対抗型を克服すれば優勝も目に見えるからだ。
まさか県大会の優勝者が現れて、しかも相居飛車を挑んでくるなんて思いもしない、想定できるわけがない。
「……もっと多く、師匠の得意な戦法にも付き合うべきだった」
想定外の出来事とは言え、万全の状態で挑ませてあげられなかったのは自分の指導不足だと、麗奈は悔しそうに自責する。
「いや、麗奈君は間違ってないさ。得意な事を伸ばすのはそれだけで戦いが出来る競技だけだからね。将棋は自分と相手で決めた戦法から始めて戦型が生まれるものだから、たった一つを特化させることは非効率で現実的じゃない。麗奈君の指導がなかったら彼はここまでこれていなかったと思うよ」
将棋の成長とはあまり表面上には出ないもので、いつ強くなったのかは自分自身や身近な人では感じにくい。
現に鈴木会長は前回の大会以来天竜の棋譜を見ておらず、今日この日初めて見た彼の棋譜は依然と比べて著しく成長を遂げていることを知った。
そしてそんな彼に、鈴木会長だけは期待を捨てることがなかった。
「それに問題ないよ。天竜君は必ず勝つと、私はそう思っているからね」
確固たる意志を持ってそう答える。
いくら鈴木会長と言えどこの対局の結末が予想出来るものなのだろうか? 本当に天竜がここから勝っていけるのだろうか?
それを聞くことは、自らの師を信じ切れていない証拠でもある。そう思った麗奈はただただ鈴木会長の言葉に小さく頷くだけだった。
「躓いたら視野を広くしてみる、選択肢が多い時は視野を狭くしてみる。何事も常に一定の視線で物事を見つめる必要はないのさ。彼にとって目指すべきゴールは1つしかないかもしれない、けどその場所に至るまでの道は決して1つじゃないんだ。……だからこの対局が終わったら麗奈君はそれを彼に伝えてあげなさい」
鈴木会長は麗奈の肩を軽く叩き、優しい笑みを浮かべてそう言った。
◇◇◇
「──ほぉ」
一方その頃。二人の対局は熱を増し、ついには天竜が戦法を繰り出すところまで進行していた。
天竜は宣言通り攻め形を作り、龍牙も宣言通り天竜が攻めてくるまで自ら攻めようとはしない。そんな滅茶苦茶な対局で決められた天竜の戦法は、あまりに驚くべきものだった。
「……これは」
最速で繰り出された銀は龍牙の裏の裏を掻い潜るほどに暴力的な単純手。その標的は、龍牙が押し付けたハンデを最大限に有効活用したとも言える策士的な戦術。
誰もが経験し、誰もが指したことのある戦法。しかしそれ故に対策されやすいとされている単純明快な攻め筋。
これをこの大会で使う者はせいぜい"子供の部"の選手だけだ。大人が大人を相手に使うような小難しい戦法ではない。だからこそ今この瞬間使われる事に周りの観戦者達は皆、驚愕の顔色を浮かべていた。
この戦法こそ、最も古い歴史の中で使われてたとされる将棋の根源的な攻め──。
「──げ、初心者の戦法!?」




