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第三十二手「将棋を凶器に使う男」

「は……?」

「パスってなんのことだ……?」

「龍牙のヤツ、ついにイカレちまったのか?」


 俺が▲6八玉と玉を囲いに行ったタイミングで放たれた龍牙の一言。それは会場中を巻き込んで、深いどん底に叩き落とした。

 目の前の男は一体何を言っているのか? それが全く分からないまま、龍牙は会場の注目を一点に引き寄せる。


「お前が仕掛けるまで俺は手を出さない、一手もだ。ここまで指して確信した、お前はあまりにも弱い、弱すぎる。このままやったところで俺が平凡に勝って終わりだ、それじゃつまらないだろ?」

「……なんだと?」

「だからいわゆるハンデってやつだ、お前が仕掛けるまで俺は待つ。俺からは絶対に手を出さない」



挿絵(By みてみん)


 △4四歩。龍牙は囲いの方の歩を突いて有言実行へと移す。

 パスとは、ハンデとは。──その真実を知る者はたった今、決勝リーグ第一試合で圧倒的優勢へと局面を持ち込み、勝利を目前としている聖夜だけだった。


「……最初から一切飛車先を突いてこなかった理由はそれか」


 聖夜は俺と龍牙の対局をチラチラと一瞥し、その局面を見ていた。


「パスって、舐めすぎだろ……」


 龍牙の言うパスとは、俗に言う手渡しではなく攻撃をしないというもの。将棋は攻撃手よりも防御手の方が数倍以上考える必要があるため、格下との対局においては相手側が攻めるまでひたすら駒組みをし続けると言うハンデが存在する。


 そしてこの"仕掛ける"と言う明確な基準は"歩突き"で決まる。


 "開戦は歩の突き捨てから"。

 将棋においての開戦の合図は、常に歩のぶつかり合いから始まる。序盤の飛車先交換による歩のぶつかり合いは例外だが、中盤においての歩の衝突は開戦の合図となる。


 龍牙はこの開戦を示す歩突きの主導権を、自ら放棄すると宣言したのだ。

 思えば疑問になる点は初めからあった。龍牙が対局が始まって初手に指した△4二金、これはどう見ても普通の初手ではない。


 この金は矢倉や雁木と言った相居飛車向けの囲いにするための金であり、相手が振り飛車をする場合は壁形の悪型として咎められてしまう事がある。

 壁形とは玉の逃げ道を自ら封鎖してしまう悪手のことを指し、終盤になるほど悪型として捉えられてしまう最悪の格好である。


 玉は将棋において絶対に戦ってはいけない駒であるため、いかに守りいかに逃がすかを考えなければならない。壁形になれば右から攻められているのに左から逃げ出せない、などという完全な密閉状態に陥る危険性がある。

 序盤の初手で指す分には厳密には大した差はないかもしれないが、後々解消しなければいけない壁形をわざわざ初手で指すにはあまりに勿体ないと感じる程度の一手ではある。


 ではなぜ龍牙が初手にそんな愚策のような手を指したのか、それは今になれば簡単な話。

 龍牙は初めから攻撃の形を作る気など無かった、攻める気など無かったのだ。早い話、最初からパスをするつもりで指していたのだ。


「大会を遊びか何かだと思ってやがんのか……」


 聖夜は小さな声でそう呟く。

 ここは鈴木会長が直々に主催する立派な大会である。心理戦で相手を貶める事はあれど、自らが不利になる戦い方をする人間などいるはずもない。


 相手は県を代表するトップの存在、地区とは比べ物にならない強さなのは誰もが重々承知だろう。だが龍牙の指し方は、将棋を侮辱するような真剣さの欠片もない手の応酬だった。


 二人の盤上は荒波のように激しく揺れ動く。

 既に龍牙の指し手は定跡を抜けており、序盤の形勢も微弱ながら俺の方へと傾いている。なのに龍牙の余裕な表情は崩れようとはしていなかった。



挿絵(By みてみん)


 ▲5八金。

 俺は幾度もその顔を顰め無難な手を指す。

 この男は一体何をやらかそうとしているのか、その目的は何なのか。先程の試合で龍牙が指したあの異常な終了図は何なのか。

 尽きない疑問はやがて恐怖となり、目の前の理解できない存在がより大きく巨大に見えてくる。



挿絵(By みてみん)


 △4一玉。

 龍牙は考える素振りもみせずに玉を寄ると、怪訝な表情を浮かべる天竜を見て怪しく笑った。


「聞きたそうな顔をしているな?」

「何……?」


 龍牙はテンポよく指していたその手を止め、経過する時間を無視して椅子に深く腰掛け腕を組む。

 今は対局中である、誇張するならば戦争中と言ってもいい。自分の持ち時間が過ぎていくのを許容できる慢心者などこの大会にいるはずがない。

 だが龍牙は時計になど一切気にかけず、俺の方へと目を移した。


「さっきの試合の意図をだよ。見たんだろ? あの笑える盤面をよォ」

「……あれは、あの局面は、まともにやって組みあがる形じゃない」

「ククク……!」


 足を組み、どこまでも狡猾に嘲笑い、誠実さの欠片もなくまるで人としての尊厳を弄ぶかのような態度を取る龍牙。

 しかしその口から放たれる言葉は決して脅しや恐喝などではなく、知恵を身に着けた悪魔のように恐ろしく強大なものだった。


「いいか? 将棋ってのはなァ、棋力が4つ以上離れてると()()ことができんだよ」

「……は?」


 耳を疑うような一言に、俺とその周りの観戦者は硬直する。常識を疑う言葉に二度見を繰り返す。

 龍牙の後方で対局していた予選通過の選手たちもまた、その自らの対局に被さる強者故の慢心的なノイズに耳を傾けるほかなかった。

 聖夜は小さく舌打ちをする。


「今、遊ぶって言ったのか……?」

「……チッ」


 将棋とはお互いの知識と知略をぶつけ合う戦争である。互いの実力がかけ離れていれば圧勝することは必然的に可能だ。

 そして圧勝が可能だと言うことはつまり、勝利を自在に操れるということでもある。

 龍牙は4つ以上の棋力差があればそれを可能だと口にした。早い話、先程の龍牙の相手は龍牙と約4級以上の差があったという事だろう。


「将棋は自分が負けだと確信した瞬間何をする? 投了だ。だが逆に言えば負けだと思わなければ人は投了しないんだよ、永遠にな」

「なに、を……」


 俺は何を言っているのかと一瞬考え、そして思い至ってはいけない結論に辿り着いてしまう。


「劣勢であれば考えることを放棄し、優勢であれば勝ちに結び付けようと考える。つまりだ、俺が劣勢で相手が優勢である限り、相手は絶対に投了しないんだよ。実力差なんか関係なくな」


 王様を取られて投了するのが初心者同士の将棋。王様を詰まされて投了するのが級位者同士の将棋。そして自分の負けが明白になったときに投了するのが有段者同士の将棋である。


 王様を取られるというのは、既に首を跳ねられた後。王様を詰まされるというのは何も出来ず、これから首を跳ねようとするところ。つまりはどちらも命がない状態での投了、相手に手を下された後である。

 だが有段者同士の将棋は自身に詰みが無くても投了することが多い、ここから逆転は不可能だと判断し自らの首を跳ねる意味での投了である。


 しかし逆に言えば、有段者でも負けが確定していなければ投了することはない。本当に絶望的な状況になるまで指すのが一般的だ。

 ましてやここは大会、少しでも勝つ可能性が残っているのなら誰しも最後まで奮闘し続けるだろう。

 つまりは──。


「まさかお前……!」

「クックック……そうだ。さっきの相手は見事に粘りやがった、俺が見せた"幻の拮抗"に縋って。まだ自分が勝てるものだと馬鹿らしくも本気で信じて、そして必死に考えた」


 喉を鳴らし、龍牙はしてやったという顔を浮かべる。


「考え考え、考え抜いた結果……倒れた。当然だなァ? 考えれば考えるほど形勢判断は自分が劣勢だと思い知らされる、しかしそんなことあるはずがないと再び考える。詰みもなく全駒もない、確実な負けが決まってないのだから逆転の可能性は消えていないと、そう何度も考え続ける。脳は限界の警告を鳴らしてるにも関わらずにな?」


 龍牙の不敵な笑みが会場を凍らせる。

 勝ちたいと言う欲求が上回れば脳はそのリソースを大量に使う、脳が諦めなければ人は倒れるまで一生抗い続ける。


「その精神状態はまさに極限だ、知恵熱なんてモンじゃねぇ。だから俺はスッと一息、相手に希望の手を差し伸べてやったのさ」

「希望だと……?」

「悪手だよ、俺はそいつに悪手を指したんだ」


 外道に塗れた声色が会場に響く。


「そしたらそいつ、食いつくように再び考え始めやがった。当然だよな? 形勢が拮抗すれば勝つ可能性は漠然と上がるんだからなァ? だが実力は俺の方が遥かに上だ、そこから数手も進めば再び形勢は俺の優勢になる。そして再び諦めようとする相手に悪手を指して逆転があると思わせ、考えさせる。これを何度も何度も繰り返すとどうなる? ──クク、クハハハッ! いやぁ……あの時は笑いを堪えるのが大変だったわ」

「お前……!」


 そう、人間はある程度思考の限界を迎えると、自動的にクリアされるようリミッターが働く。だが龍牙は悪手を指すことで相手に希望を持たせ、強制的に考えさせることで意図的にそのリミッターを解除させたのだ。

 人が持つべき"諦める"と言う考えに辿り着かないよう盤面の形勢を自在にコントロールし、相手を玩具同然に弄んでいたと、そう口にしたのだ。


「そうしてそいつは脳の限界を超え、ついには手を指す前に倒れた。クハハハッ、面白れぇもん見させて貰ったわ、たかがボードゲームで人が倒れるなんて前代未聞だと思わねぇか? まあ、俺の道場じゃ日常茶飯事なんだがな。自分の思考すら制御できないアマチュアが将棋なんてやる資格ねぇんだよ」


 龍牙は傲慢な顔で見下す。

 それは人を小馬鹿にするような聖夜の比ではない、人のする行為ではない、将棋の冒涜どころの話ではない。


 目の前の男は、コイツは、将棋を利用して意図的に人へ危害を加えていたのだ。そしてそれをあろうことか愉しみ、嘲笑っている。

 決して、許されることではない──。


「──ッ!」


 自然と持ちあがった拳が龍牙の目線と噛み合う、己の感情に身を任せて衝動的にその拳を振りかぶる。

 今にも殴りそうな勢いに、それを見ていた周りの観戦者が止めに入ろうとした。だが俺は寸でのところで自らその手を止める。


「何をしている? ここは盤上だ、文句があるなら対局の内容で言い返してみろよ?」


 殴られないことを分かり切っているかのように、龍牙は高を括る様に俺に向けニヤケ顔を飛ばす。

 手を出したらその時点でおしまいだ。将棋に暴力はない、感情論も受け付けない。ただ己が持つ知恵と知識と知能を駆使し、相手との格差を決める知略のゲーム。それが将棋であり、知将なる戦争の縮図そのものだ。



挿絵(By みてみん)


 ▲3八銀。

 俺は募る怒りを叩きつけるように銀を上がる。将棋に置いて攻めの要となる銀、それを動かすということは攻める意思を見せる事でもある。


 俺達の戦型は相居飛車の典型戦法とも言える角換わりとなり、ノーガードでの殴り合いが始まろうとしていた。

 龍牙はそんな俺の手を見て、煽るように首を傾げる。


「いいのか? そんな中途半端な囲いで、俺は"穴熊"まで待つぞ?」


 ──穴熊。それは将棋に置いて最硬の囲いと言われている鉄壁の要塞。



挿絵(By みてみん)


 最も端の(かど)である香車の場所に玉が入り、その近辺を金銀で密集させる。様々な囲いがある将棋において、唯一王手を掛けることができないゼット(絶対に詰まない)状態になることができる。

 その姿はまさに奥深い穴に入る熊、鉄壁の陣形で居飛車の理想形ともされている。龍牙はこの穴熊に組ませても良いと、それまで自分は手を出さないと豪語したのだ。


「……ふざけんな」


 俺の額に青筋が立つ。

 攻めることすらせず、囲いまで組ませ、その上でこの男は勝てると思っているのだろうか。

 ──あまりにも将棋を馬鹿にしすぎだ。


「居飛車は俺の唯一の得意分野だ、角換わりなら研究に何千時間も費やした。──お前程度に穴熊なんか必要ない」

()()()()()か──フッ、じゃあその勢いで頼むわ、精々俺を飽きさせんなよ?」


 二人の目線は幾度も衝突し、今にも火花が散る程に戦意を高めていた。


「いくぞ──」


 かたや地区大会すら勝てない落ちこぼれの級位者、かたや県を代表する格上の段位者。俺達の戦績は真逆であり、その実力差は計り知れない。


 だが俺はここまで幾度も勝ち続けてきた。敗者という枠組みから抜け出し、下克上を狙う官軍へとその手を伸ばしてきた。

 相手が県代表だからと言って、こんなところで燻るような存在じゃない。


「この対局の過程は誰にも予想できないものになるだろう。だがその上に出された結果は果たして意味のあるものになるのだろうかと、私はそう思うよ」


 鈴木会長は腰を下ろし椅子に座ると、未だ立ったまま対局を見ている麗奈に問いかける。


「……どういうこと」


 麗奈は不安そうに対局を見つめる。啖呵を切った自らの師を前に、一切変わることのない空気感が心臓の鼓動をより強く締め付ける。

 鈴木会長の問いかけにも、まるで上の空の様子だった。


「確かに龍牙君のやり方は非道だ。将棋指しの風上にもおけないマナー違反な行いだろう。だが彼はルールを破っているわけではない、将棋という競技の中でしっかりと自らの将棋を指しこなしている」


 将棋が戦争の縮図であるならば、戦争に美など不必要である。

 如何なるやり方を以てしても勝利へと導き、勝った記録こそが勝者の証となる。


「……言いたいことは分かるわ。でも、それがアイツを擁護する理由にはならない」

「そうだね、私も同意見だ。だからこそ彼の表面ばかりに気を取られず、天竜君にはその中身で勝負をしてほしい。今の天竜君なら彼にも十分届き得る力を持っている」


 火花の散る戦場を見ながら、麗奈はゆっくりと腰を下ろす。


「……師匠とて将棋の歴でいえば龍牙に引けを取らないわ」

「ああ、それにこれは将棋だ。二人零和有限確定完全情報ゲーム。それはいかなる状況下であっても必ず最善手は存在することを意味している。たとえ将棋を知らない素人だろうと、神の一手を繰り出せる可能性があるということに他ならない」


 鈴木会長の言葉に麗奈はすぐさま頷く。

 実力差があろうとも、最善手の比率が龍牙を上回ればその勝利も幻ではない。勝てないと断言する根拠は誰にも示すことができない。


「師匠……」


 穴熊を避け、自らの意思で角換わりを先行する自らの師と、未だに攻撃の意思を見せずに適当な手を指してパスをし続ける龍牙。

 その光景は果たして将棋と呼べるものなのだろうか。周りの観戦者は異形な物を見るような目で二人の対局を見つめている。

 ──会場の外では、未だ嵐が吹き荒れていた。

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