第三十一手「恐怖の自信」
お昼を過ぎて行われた決勝リーグ戦の第一試合、その開始合図が鳴ってから未だ数分。会場はたった一つの試合に釘付けだった。
親子連れの者から予選で落ちた選手達、観戦者や記者達さえも全員がその試合に目を向けている。
△3四歩。
龍牙がたった一手指すだけで全員が注目をする。
記者達はせめて記録だけでもと懐から紙とペンを用意し、棋譜を取り始めていた。
こんな小さな地区大会で行われる、まるで決勝戦のような雰囲気の試合。
俺も緊張していない訳ではない。周りから様々な視線を浴び、それでも集中を持続しようと真剣な表情で盤面に向き合ってる。
▲2五歩。
俺はワンテンポの思考をおいて、飛車先の歩を更に伸ばす。
次に▲2四歩と仕掛ける事が出来れば、飛車先の歩交換によりこちらが一歩手持ちになる。そうなれば互角ながらも指しやすい局面になるだろう。
△8八角成。
故に龍牙は角交換へと転じる。
将棋において直進できない駒は角と桂馬の2種類のみ。故に角の頭は狙われやすく、序盤から飛車先の歩を突く理由となる。
しかし、狙っていた角が自身の角と交換になってしまえば、飛車先の歩は標的を失う。
これはそのための角交換。いや、一般クラスに出る選手にとってこの程度のやり取りは考える必要のない常識の一手だ。
もはやそれはただの暗記であり、俺達の頭の中にはその手がどういった意味を持つのかは全て記憶されている。
▲同銀、△2二銀、▲7七銀、△3三銀。
そこから二人の手は軽快な駒音を立てテンポよく進んでいく。
△3三銀と上がられてしまえば俺は飛車先の歩交換をすることができなくなってしまう。事実、できないまま本譜は進んでいる。
しかし、この▲同銀、△2二銀、▲7七銀、△3三銀のいずれかの間に俺が飛車先を交換しに行くと反撃を喰らう。以下△同歩、▲同飛に△3五角打で飛車取りと角成が決まり龍牙が優勢となる。
簡単な話、俺は最初から飛車先の歩を交換できなかった。いや、龍牙が飛車先の歩を突かれるのが嫌だったからそれを防いだとも言える。
龍牙はそれを読み切った上で角交換をした、俺はそれを承知で飛車先の歩を突いた。まだ俺達二人は何一つ損をしていない、完全な互角の戦いだ。
序盤から両者譲らない手の応酬を繰り返しているにも関わらず、俺と龍牙の表情は一切変わることはない。
当然だ、前述した通りこの程度のやり取りは常識の範囲内。もっと言えばただの定跡だ、考える必要すらない。
「今のところは順調……」
麗奈も二人の局面を目離さないようにじっと見つめる。
オールラウンダーである自分がこの領域に及ぶのかどうか、最善の思考を尽くせているのかどうか。二人の対局はそれを測れるほどに貴重なものでもあった。
龍牙の角交換により、俺達の戦型は相居飛車特有の"角換わり"となった。
両者の角が手持ちになれば、その危険度は一気に増すと言ってもいい。将棋の序盤は玉を囲う、王様を固めるのがセオリーだ。
しかし自身の角が手持ちになれば、下手に囲いを築き上げるのはかえって危険になる。
金銀が玉へと密集すれば、その他のスペースががら空きになり、自陣に角を打たれてしまう危険性があるからだ。
反対に玉を囲わなければそれはそれで、相手の攻めを受けきれずに一気に崩壊する危険もある。
たった一手の角交換でこれだけの余裕がなくなってしまう、俺がしきりに角交換を嫌がっていた最もの理由がこれだ。
常に角打による反撃を警戒しなければならない、その上で囲いを築き上げなければならない。その間に相手の攻めを見極め、敵陣地の隙を見つけ、自分の攻めも形作って行く。
将棋はこれだけの大幅な作業を満遍なくこなさなくてはならない。一手の無駄さえ許されることはない。
▲7八金。
俺はほぼノータイムで金を上がる。相居飛車においてこの金上がりは絶対手と言ってもいいほど重要な手だ、居飛車の飛車筋の受けと囲いに効いた将来性のある重要な金となる。
そしてこの金が今後、玉を守る要と言ってもいい。
序盤から角交換の角換わりと激しい戦型になるものの、二人の形はほぼ同型。それどころか未だ飛車先を突き越せていない龍牙が手損の状態だ。
故に俺は言葉を漏らす──。
「……本当に居飛車なのか」
疑っていた。まだその可能性がある事を。
「あ?」
龍牙は伸ばそうとしている手を止め、俺の呟きに盤面を見返した。
そして大きく頷き、笑うように喉を鳴らす。
「ああ、ククク……確かにこの形なら疑うのも無理はねぇ」
龍牙は自陣にある飛車を持ち上げ、3筋と5筋の上を行き来させる。
「この状態なら四間や三間、中飛車の可能性も無くはない。俺が居飛車を指すと言ったのはブラフで、"陽動振り飛車"にするとでも思ってるのか?」
陽動振り飛車。それは直前まで居飛車の形を作り、絶好のタイミングで振り飛車に転換する奇襲の様な手。
序盤の手数はかかるものの、その奇抜な戦術性は相手の対居飛車囲いを完全に逆手取ることができる。あえて居飛車で来ると喜ばせて振り飛車にする、俺にとってそれは性格含め最悪と言ってもいい戦術だ。
この可能性が残る以上、居飛車の要となる飛車先を未だ突こうとしない龍牙に対し、俺は疑わざるを得なかった。
そんな可能性も含め、龍牙の手はまるで遊んでいるかのように甘い手付きを見せる。
指し手に真剣さは感じられるものの、気迫を感じられなかった。
「お前が指して欲しい一手ってのはこれか?」
龍牙はふと口元をニヤつかせ、攻め側の銀を持ち上げる。
△6二銀。
その一手は飛車の横利きを完全に遮断する一手。見れば一目瞭然、この銀上がりのせいで龍牙はもう振り飛車を指すことはできない。
何のためらいもなく相手の射程圏内へと入って行く戦闘狂、これが同じ将棋指しなのか。
俺は目の前の男が本当にこちらの得意戦法で勝負する気なのだと、相手の土俵で殴り合う気なのだと再度確信する。
そして、その理解できない龍牙の謎の自信に、俺は苦悶の表情を浮かべた。
「何度でも言ってやる、俺はお前の土俵で戦うってな」
圧倒的な、それも過剰とも取れる自信。
これは龍牙にとって確実な居飛車宣言であり、俺に対しての正当な挑戦状でもある。
「……上等だ」
投げられた手袋を拾うように、俺はその挑戦を受けた。
「師匠……」
後ろの観客席で麗奈が心配そうに見ていることにこの時の俺は気づかない、気づく余裕はない。
「とんでもないことになったね」
その心配そうな顔を知ってか、鈴木会長が麗奈の隣に並ぶ。
対する麗奈は目を合わせようとせず、試合に視線を向けたまま静かな声で呟いた。
「……これもあんたの仕業?」
「まさか、私も彼が参加してくるとは思わなかったよ。ましてやこんな小さな大会に出るなんてね、よほど酔狂な目的がありそうだ」
眼鏡を上げながらいつものトーンで返す鈴木会長。
嘘を吐いている様子はない。しかし、何かを隠している気はすると麗奈は悟る。
「彼の得意戦法、知ってるかしら」
「さぁ……麗奈君は知ってるのかね?」
鈴木会長の言葉に段々と表情を暗くしていく麗奈。
今この試合で居飛車を指そうとしているのだから、得意戦法は恐らく居飛車と考える。
それとも、居飛車が苦手なのに居飛車を指した狂人なのだろうか?
その答えはどちらとも間違っており、間違っている事実に落胆しながら麗奈は視線を落とす。
「──オールラウンダーよ」
「……」
麗奈の返事に今度は鈴木会長が沈黙する、聞いてはならない最悪の真実──。
オールラウンダー。それは居飛車、振り飛車ともにどんな戦法でも指しこなす万能型。
それは麗奈の最も得意とする武器であり、目の前の龍牙はその完全な上位互換だった。そのことに鈴木会長は苦笑いを浮かべる。
「それは、困ったね……」
圧倒的な自信と、その自信に見合うだけの実力が龍牙には備わっている。
たとえ相手の得意戦法が振り飛車だろうと、居飛車だろうと、他の戦法だろうと、龍牙は間違いなくその土俵に乗って戦うことを選ぶ。
どの戦法で来られても勝てる実力を備えているのだから当然だ。それこそがオールラウンダー最大の利点。
「……でも、それでも勝てる。勝てるわよ、師匠なら……!」
勢いよく首を振って最悪の結末を否定する。この大会は自分の師の華々しい復帰戦、そして逆襲戦。部外者とも言えるイレギュラーに、その白星を黒く塗りつぶされる訳には行かない。
「……そうだね」
鈴木会長も強く頷き、その場を立ち去ろうと会場に背を向けた。
──だが、すぐさま振り返った。
観戦者達が信じられないものを見るような目で試合を見る。他の対局者もまた、何が起きているのかと言った表情で龍牙の方へと目を向けている。
口元を抑え狼狽えている麗奈を外目に、鈴木会長は珍しく焦燥の表情を浮かべた。
「──あァつまんね、やっぱ指すのやめるわ、パスだパス」
「……は?」




