第二十六手「激戦の末に」
一瞬、視界が霞む。
ふと吐く溜め息は思ったよりも小さく、心臓の鼓動に連呼して外へと漏れ出す。
俺はゆっくりと項垂れた。
「……ようやく終わった」
対戦相手との感想戦が終わった後。俺はその場を立ち去る事無く、ただずっと将棋盤を眺めていた。
振り飛車相手にここまで綺麗に勝てた試合は、今回が初めてだろう。
思い切って指した超速は、砥いだその牙を最後まで剥くことなく決着を迎え、いわゆるカウンターでの勝利を収めた。
中盤まで激しい駒のぶつかり合いが少ない将棋では、例え先手だろうと後手だろうと攻めの手番は己が決める。
今回は相手が攻め、俺がその攻めを咎めた。アマチュア同士の戦いでは攻めた方が勝ちやすいと言われているが、実際はその攻めを咎め切れずに負けることが多いというのが真実だと思う。
どちらにしろ、あの飛車先の歩を突いたのは疑問手。同歩に同飛車と取ったのは完全な悪手だったことが分かる。
悪手や疑問手は結果から辿って見つけることが多く、先程の感想戦で相手もその悪手には気が付いていたようだった。
「……っ」
ふと視線が自身の利き手の方へと向き、そして久しく震えた右手を凝視する。対局の緊張が解け、安堵で震えているのだろう。
こんな弱々しい手で今まで駒を掴んでいたのだと、自分の未熟さを痛感した。
そして対局中にこの震えをよく我慢したと思っている。
俺は小刻みに震え続ける右手を左手で抑えようと手を伸ばした、すると同時に背後から来た者によってその手は優しく握られた。
「お疲れ様、おめでとう」
甘い香りが鼻腔を擽り、同時に手の震えが止まる。
振り向くと、麗奈が俺の手を握ってくれていた。
「……妥協点、取れたかな」
「十二分よ」
麗奈は満足そうな顔でそう言った。
予選通過という初めての結果にほんの少しだけ、自分の成長を感じられた気がする。
「はぁ、長い朝だった……」
初の地区大会予選突破だ。でもまだ、今の実力じゃプロには到底届かない。
だけど今はそれでいいんだ。少しずつ、少しずつ確実に強くなっていけばいい。
「お弁当作ってきたから、一緒に食べましょ?」
「ああ……え?」
呼応するように返事をしてしまったが、振り返ってお弁当という謎の存在に疑問を持つ。
「お弁当……?」
麗奈がお弁当を持っていたところなど今日一度も見ていない。
だが、三角巾包みのお弁当が前の前に出される。
「えっ、これ麗奈が作ったのか? 今朝は持ってなかったよな?」
「さっき師匠が戦ってる間に帰って作って来たのよ」
まさかあの少ない時間で作って来たというのか、麗奈は職人か?
しかしわざわざ帰って作ってこなくても、最初から持ってくればいいんじゃないかと俺は素直に質問した。
「なぜ出かける前に作っておかなかったんだ?」
「だって師匠が午前中の予選で負けたらお昼食べる必要ないじゃない? 作り損よ」
「うっ、確かに……」
ぐっと拳を握って胸を抑える。
いつもの辛辣な正論に胸が痛い、中々手厳しい事を言ってくれる。
「冗談よ、ちゃんと今朝材料を準備して置いてから家を出たのよ。出来るだけ温かいご飯を食べてほしいからね」
「麗奈……お前ほんといい子だな……うっ涙が……」
俺は手のひらを反すように右腕を目元に被せ、涙声で麗奈を褒める。
しかし麗奈はむっとした顔をした。
「下手なウソ泣き」
「麗奈にだけは言われたくねぇ!」
◇◇◇
『──それでは予選最後の3回戦目、始めてください』
係の人がマイクを持ち、予選最後のゴングを鳴らす。
同時にピーっと甲高い時計の音が響き渡り、会場は駒音だけが反響し始めた。
「始まったか……もぐもぐ……」
予選は最短で2回、最長で3回行われる。
予選通過するには2勝する必要がある、つまり1勝1敗の場合は3回戦目があるということだ。
しかし、今の俺は既に2連勝しているので3回戦を戦う必要がない。そして、逆に2連敗してしまった人も敗退のため戦う必要がない。
つまり、今対局している人達は皆、予選通過を賭けた最後の戦いを行っている。
今まで以上にピリピリとした空気が会場を包み、昼休憩で食事を取っている者達は一言も会話をせずに静観していた。
「そんなに頬張ると午後の試合に支障をきたすわよ?」
「いやだって美味い、もぐもぐ……美味いのが悪い。もぐもぐ……めちゃうま」
語彙力を無くしながら麗奈の作って来たお弁当を頬張る、ピリピリとした空気がこの場所だけ和む。
ここまで美味しいご飯を食べたのはいつぶりだろうか、予選を勝ち上がったという高揚感も含めて非常にご飯が美味い。
あっという間に食べ終わり、水を飲み込んで両手を合わせた。
「ご馳走様! いやー美味かった。それにしても麗奈の作るご飯はいつもながら美味いな」
「あら、ありがとう。いつも作ってるから師匠の好みも段々わかってきたわ」
麗奈がそういうと一部の周りから嫉妬の目線が飛んでくる。
その視線に俺は気づかないフリをして、バタバタと両手を振る。
「も、もしかして料理が趣味なのか?」
「趣味というよりルーティンの一環かしらね、お父さんの分をいつも作ってたの」
やばっ地雷踏んだ、これアカンやつ。
麗奈が一瞬空っぽの笑顔を見せた気がした。
「ああ、いや……悪い」
「いいのよ。最近腕が鈍ってきたところだったし、作る相手がいないとレパートリーも増えないしね。それに、どっかの誰かさんの家に毎日住み込みで家事全般こなしてるわけだし?」
「ぐっ……」
周りの視線が一斉にこちらに振り向き、今にも目で殺しそうなくらいの圧を畳みかけてくる。
いや住み込みを強制したのはお前の方だろうがっ。とは言えず、実際物凄い助かってるし、麗奈がいなくなったらコンビニ弁当通いになりそうなくらい感謝してるので肯定せざるを得ない。
「まぁ掃除洗濯家事全般を完璧にこなすんだからすごいよな~、将来麗奈を嫁に迎える人は羨ましいな~」
少し冗談っぽく言うと、麗奈は少し顔を赤らめながらもその冗談に付き合った。
「何それプロポーズ? 甘いわね師匠、私は最低でもプロ棋士くらい強くないと相手にしないわよ」
「よし言質取った」
「ふふっ、言ってなさい」
最初に来た頃とはまるで別人のように明るく、可愛らしい笑みを見せる麗奈。
そのあまりに可憐な表情に、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。




