第二十五手「目から火の出る王手飛車」
天竜の持ち時間は残り12分
対して、相手の持ち時間は残り3分を切った。
中盤の競り合いで飛車の鬼ごっことなった二人の将棋。これはいかにして飛車を詰ますか、逃がすかの戦いである。
△5五角。
相手は大胆にも角を切って飛車の逃げ場所を増やした。
それが悪手かどうかはともかく、飛車を逃がすことが何よりも優先されるこの状況、逆転するには多少の犠牲を覚悟しなければならない。
▲同銀。
△5七歩打。
嫌なところに飛ばす歩の手裏剣、その手で天竜の動きがわずかに止まる。
「狙いはこれか……」
最も価値の低い駒である歩は、逆に言えば最も使い道があるということでもある。
強い相手に歩を何枚も捨てられ、全部取っていたらいつの間にか負けていた。、なんてことも珍しくない。強い人ほど歩の使い方が上手いというのは、もはや定説となっている。
「おいおい、天竜のやつ、せっかく飛車を閉じ込めたのに逃げられてんじゃねぇか」
外野からそんな声が漏れる。
「それにあの歩、かなり効いてそうだ」
楔のように突き刺さった△5七歩の手裏剣、それは天竜の陣形にひびを入れる。
様々ある歩の活用法のひとつ、それは歩を捨てることで"相手の駒の位置を動かす"という捨て歩の手筋がある。
天竜の5八にいる金は6九の金、7八の玉と"連結"した状態にある。まさに取られても取り返せる状態、これを将棋では"ひもがついている"と呼称される。
玉を囲う際は、金銀のひもをつけながら囲うと攻められた時に損をしづらい。前回の聖夜が使っていたエルモ囲いがまさにその金銀の連結を生み出していた。
「相手は片美濃囲い、多少薄いが金銀に紐はついてる。対して天竜は銀不在の船囲いだ、しかもその囲いを担っている唯一の金の連結を外されようとしている」
そう、△5七歩打は天竜の囲いを担っている金のひもを外すための一手。▲同金と取れば金が5七に行ってしまい、6九の金との連結が保てなくなる。しかも玉の横がスカスカになり、相手に飛車を持たれた時に一気に崩れてしまう形。
逆に歩を取らずに▲6八金や▲5九金とすれば、一旦は連結を保ったまま囲いは維持できるが、それは5七に相手の歩の拠点を残すことになり非常に嫌な形になる。同様に▲4八金も歩の拠点が残り続け、展開が紛れる格好になる。
「これはさすがの天竜も紛れたか?」
「そうだな」
ただの歩でありながらここまでの意味を持つ、そしてその揺さぶりを相手は絶好のタイミングで仕掛けてくる。
ここは地区大会と言えど一般戦、凡人が集うお気楽な大会などではない。参加する選手は皆、何かしらの強さを持って挑んでいる。
パンチが一回入った程度で膝を着いてくれるような相手などいない。もとより簡単に勝てる勝負など──ありはしないのだ。
「……」
「……」
二人は黙って思考を巡らせる。
誰の目から見ても、形勢は天竜の優勢から互角へと戻ったかに思われた。
「──本当に、そうか?」
唯一、そう呟いた聖夜だけを除いて。
▲同金。
天竜は表情を変えずにその歩を取る。
取ることによるデメリットを知らなかったのではない、知った上で天竜はその歩を取った。
△3三桂。
相手は策にハマった者を見るような目つきですぐさま桂馬を飛ぶ。
「ノータイムの攻防だ……!」
さきほどの相手が打った△5七歩の狙いはここだった、次の△4五桂で金銀両取りかけられる。
「先打ちの歩、その狙いは"ふんどしの桂"か」
桂馬での両取り──ふんどしの桂。それは他の駒とは違い特殊な動きをする桂馬はだからこそ使われる手。
桂馬を使った両取りの手は将棋における基礎中の基礎。桂馬自体はそこまで強くない駒にもかかわらず、自分より格上の駒を常に切り裂いている。
次の△4五桂が決まれば差は一気に詰まる。かといってここで▲4八金と下がれば、再び△5七歩打と叩かれたり△5六歩と垂らされて天竜側が大幅な手損になってしまう。
相手は多種多様な攻め筋で天竜への手番を渡さない。
その全ては飛車を逃がすため、たったそれだけの生命線を生かすために相手は何手先も水面下で攻撃を仕掛けていた。
▲4六金。
そんな激しい攻撃の最中天竜が選んだ答えは、まさかの攻めに転じる事だった。
「強気な一手──!?」
「おいおい、金だぞ? 守りの駒だぞ?」
玉を守っていたはずの金がいつの間にか最前線へ。
それは今までの天竜が指すとは思えないほど見違えた強気な一手。攻められているというのに、自分も攻めに行く乱戦の思考。
その判断は紛れもない実力勝負、格下だった天竜が格上の存在に実力で挑もうと挑戦状をたたきつけている。
「チッ……」
対戦相手の舌打ちと同時に、時計の残り時間が3分を切った。
△2五飛。
さきほど△3三桂と飛んだ第二の狙いを相手は行使する。それはこの△2五飛と歩を取り、桂馬の利きを利用して更に飛車の逃げ道を作ること。
一次的とはいえ、互いの飛車がぶつかり合う。
ここで飛車交換をすれば、玉の腹がスカスカな状態の天竜は一方的に飛車の餌食にされる。
「つまりここは──」
▲2六銀。この一手に限られる。
「……」
何かに狙いを澄ましたかのように、天竜はさきほどから全く時間を使っていない。それどころか、表情すら何一つ変わっていなかった。
△2四飛。
▲2五歩打。
銀の上から被せるようにパチンと歩を打つ。
「アイツ、何か狙ってやがるな……」
天竜の手には全くと言っていいほど迷いがなかった。
先程の試合とは打って変わって、天竜の持ち時間は未だ11分を残している。
対する相手は1分を切った。
△1四飛。
この辺りで対戦相手は自らの危機感を感じ始める。
──先程から飛車の逃げる場所が"ひとつ"しか残されていない。
まるで捕獲への筋道を確立されたように、全ての誘導が終わりを迎えているかのように。
解消されない不安と、目の前でポーカーフェイスをし続ける天竜の姿に段々と表情が青ざめていく。
その感情は"負けるかもしれない"という恐怖心を含んだもの。天竜という元弱者を相手に、自身が積み上げてきた土台をひっくり返されるかもしれないという恐ろしさ。
それが絶え間なく相手を襲い続けていた。
「……おい、なんか」
「不気味な空気が──」
先ほどの聖夜と違い、今回は両者ともしっかりと囲いの端を突いている。攻め込まれても逃げる準備は整えられている。
それでもなにか、なにか大きな見落としをしているかのような未知の不安が、周りの選手達を取り囲んでいた。
彼はその隙を見逃さない──。
「……はっ、マジかよ」
右手の袖をまくり、麗奈から貰ったお茶を飲み干すと、天竜は滑らせるように銀を動かした。
▲1五銀。
「なっ──!」
対戦相手の驚いた声が漏れる。
「あっ!? ああっ……!?」
そして束の間に両手で頭を抱え始める。
「おい、これって……」
それが視えてしまった時の絶望はトラウマに匹敵するものだろう。
観戦者達もこの手で同時に気づき、そして天竜をまるで悪魔でも見るかのような畏怖を含んだ視線を向ける。
この一見タダとも言えるような銀捨ては──死神の手招きだ。
△同飛。
取る手しか残されていない。というよりも、この手を喰らってしまえば、もはやそれ以外の手についての思考回路が正常に紡がれない。
この時、対戦相手は天竜の背後に潜む赤き竜の姿を垣間見る。
「……っ!」
戦ってもいないのに冷や汗をかく聖夜と、その竜と対峙し全身から滝汗を流す対戦相手。
実力伯仲した者にしか見えないそれは、まさに天上の存在だった。
▲2六角打。
渾身の一撃が、決まった──。
盤上にある天竜の角から閃光が迸る、見えないはずの稲妻が走駆する。
見るも美しいグランドクロスが相手の"飛車"と"玉将"の首に死神の鎌を引っ掛けた。
"目から火の出る王手飛車"。
それは将棋に置いて最も重要な駒である玉と、大駒である飛車の両取り。さきほどの桂馬の両取りなんかとは比較にならない、将棋史上最強といわれる両取りだった。
「天竜はまさか、最初からこれを狙っていたのか……?」
「ウソだろおい……」
必殺とも呼べる長手数の読みの中、勝敗を決する紛れもない会心の一手が天竜から飛んでくる。
銀捨てからの角打ち。その場限りの駒の損得勘定を捨て、その先にある財宝を手にする。見つけた宝を奈落の底へと蹴り飛ばし、それで出来上がった橋を渡って財宝の在処へとたどり着く。
その一手は、今までの相手の全てを咎め切った一撃だった。
△8二玉、▲1五角。
王手飛車取り、それは事実上のKOである──。
玉を逃げれば飛車を取られ、飛車を逃げればゲームセット。
そして飛車を取られたこの局面、この盤面、もはや見るまでもない。
天竜は自陣にある飛車の横利きが絶大で、小駒で攻める隙が全く無い。対して相手は方美濃囲いで玉周辺は固いものの、左辺は空気が抜けていくほどスカスカだ。
大駒4枚をすべて手に入れた天竜と、手持ちの小駒を2枚しか持たない相手。
駒得という面ではそれほど差があるわけではないが、陣形差はもはや取り返しのつかいほど大いに傾いていた。
せめて相手に飛車や角の大駒一つでも手持ちにあれば、互角の勝負が出来ていただろう。
だがこの状況を作ったのも、そう指すよう誘導したのも天竜である。
天竜にはこの一手が、この一手に至るまでの手順が完全に見えていた。
「そうか、だから△5七歩打に▲同金と取れたのか。当然寄る一手とばかり思っていたが、取ることによって後の王手飛車の筋を狙える。そしてコイツは見逃さずにその手を捉え、理想通りに決めた……」
隣で見ていた聖夜は思わず感心の声を漏らす。
思えば、自身を倒した者が、自分より弱い相手に負けるはずがないと。そしてその結果はまさに予想を上回るほどの的確な読み筋で、盤上を制した。
「──アイツもこの手が見えていたってのか」
あの時戦いの途中で会場を去って行った麗奈は、恐らく同様の局面を思い浮かべ、天竜が勝利する未来が視えていたのだろう。
女性でありながら生粋のオールラウンダー、どんなまやかしの手を使っても通じなかった聖夜の天敵ともいえる相手。
その実力は、まさに今の天竜の成長に見合うほどの感性を秘めている。
「……負けました」
「ありがとうございました」
時間が秒読みに入り、この絶望的局面から更に秒読み30秒以内で戦い続けるのは無理と悟ったのか、対戦相手は潔く投了を選択した。
そして両者が頭を下げ深いため息をハモらせた後、静かに感想戦へと移っていった。
「……な、なんなんだよアイツ! あれは本当に天竜なのかよ……!?」
「おいおい、なんも対策取れてねぇぞ」
「四間飛車もゴキゲン中飛車も通じないとか、一体何を指せばいいんだ……」
既に予選を勝ち抜いた者達は、天竜というイレギュラーの誕生に頭を悩ませる。
振り飛車が完全に通じない、奇襲も通じない、かといって居飛車は天竜の土俵に入るようなもの。
もはやそれは、実力以外では天竜に勝つ方法が存在しないということである。
今までの天竜にはなかった"振り飛車の克服"という新たな特性が合わさって、付け入る隙が完全に失われている。
ここまで来れば、流石に大会の選手達も認識を変えざるを得ない。
これが今の天竜なのだと。紛れもない、彼の実力なのだと。
大会の予選結果はまさに波乱の一言。優勝候補である聖夜だけでも手一杯だというのに、天竜という進化を遂げた大物が地の底から這い上がって来た。
──2回戦勝利、予選2勝0敗。
これで天竜は無敗のまま2連勝を達成し、予選最後の3回戦へ挑むことなくそのまま最速での"予選通過"となった。