第二十四手「本当の実力差」
天竜一輝というダークホースの到来に、会場は今まで以上にざわついた空気をみせていた。
「……」
そんな中、観戦席に座る麗奈はおもむろにペットボトルの蓋を開け、まるで選手たちと同じように水分補給を行った。
「おや、麗奈君も読むのかい」
「当然よ、師匠の対局だもの」
額に小さな汗を滴らせ、長時間の思慮を慣れさせていく。勝負の世界に自らを投影する麗奈。
対局しているのはなにも大会参加者だけではない、それらを見ている観戦者達にとってもひとつの試合だ。
「それにここは情報のたまり場よ。今後を見据え、大会を控えている者達にとってはまたとない場所。今この大会に参加してなくても、今後の敵となり得る者はたくさんいるわ」
そう言って麗奈は辺りを一瞥する。
その中には、タブレットを片手に情報収集をしている男、本を読んでいる振りをしながら対局をじっと観察している女、弱点を探ろうと会場を歩き回っている学生などがいた。
「なかなかにピリついた雰囲気だ」
「あんたの大会でしょ」
「そうだね、でも緊張感はある程度あった方がいい」
不敵な笑みを浮かべながら、鈴木会長は目の前で行われている対局を凝視する。
「そしてこの緊張感を生んだのは、まぎれもなく彼自身だ」
かつて最弱と呼ばれた男に目を向けながら、そう呟く。
「皆揃って思い出したことだろう。大会は苦戦を強いられる場所、カモなど一匹もいないことに」
目の前で行われているのはただの地区大会、それも予選だ。
だがそこにいる者達は、まるで人生を賭けた試合をしているような、真剣な顔つきで盤面へと向かい合っている。
──あの男にだけは負けられないと。
緩んでいた空気が一気に引き締まり、水面下でのピリついた腹の探り合いが始まる。そこにはかつてあった弱者に向ける目などない。
狩らねばやられる、狩らねば襲われる、そんな対立的激情が渦巻いていた。
「……師匠」
向けられた視線に天竜は一瞬目を向けるが、すぐさま自分の対局へと集中を再開した。
「──動くぞ」
チラリと目を向けた聖夜の一言で、天竜は静寂を打ち破った。
▲6六銀。
ついに完成した二枚銀、6六銀と4六銀のふたつの銀が相手のゴキゲン中飛車を牽制する。
見るからに先手玉は薄く、守り駒は金2枚という脆い囲いになっている。しかしその分上部に手厚く、相手の攻め筋である5筋を完全に防いでいる格好になった。
「それにしても、あの天竜君が超速を指す日が来るとはね。麗奈君の入れ知恵は目を見張るものがあるね」
鈴木会長は感心した声色で呟く。
「定跡書は師匠の家に置いてあったし、私はそれを参考に教えたまでよ。指そうと決めたのは他でもない師匠なんだから」
謙遜する麗奈に鈴木会長はふと笑みを浮かべる。
「それでも麗奈君の助力があってこそだろう。彼は今までも幾度となく覚えようとして、そして覚えられなかった。その壁を破ったのは君の指導の賜物だ」
歴史が変わりゆく瞬間というのは、得てして誰の目にも止まらない時である。
鈴木会長にとってそれは今だった。
「──さて、作戦勝ちというには言葉が過ぎるかね」
「数値上はそうでしょうね」
片美濃囲いでバランスよく攻防手を指した相手と、完璧な陣形を築き上げた天竜。これがA級に在籍するプロ同士の戦いであれば、先手の作戦勝ちは揺るぎないだろう。
しかし、問題はここから。
形を組むまでは良い、誰でも出来る暗記の一種。
問題はここから超速の肝である攻め筋を活かしつつ、また同時に受けも成せるかが問題である。
「賽はまだ宙で舞っている最中だ、それを見極めるのは先手か後手か──」
相手の手は自然と伸びていき、整った自身の守備を活かした軽くしなやかな攻めを始める。
序盤の終結、中盤の始まり。その境目を通り過ぎたのは相手の方だった。
「──仕掛けた」
将棋の開戦は、いつだって歩のぶつかり合いから始まる。
△5六歩。
「「あ……」」
鈴木会長と麗奈が小さく声を漏らした。
その声は対局者には聞こえないものの、二人の間では同じことを思ったと目を合わせてしまう。
一体何が起こったのか、その手の意味とは。
まだ始まったばかりの勝負で、先行く未来を見据えた有段者たちはその場の決着を想定する。
△5六歩……相手が指した手は至って普通だった。
将棋において、飛車先の歩を突くことは基本中の基本と言えるべき手。それが悪手になることはまずないと言ってもいい。
"飛車先の歩交換三つの得あり"。
この格言通り、飛車先の歩を交換することでおおよそ3つの得をすることができると言われている。
1つ目は、歩を手持ちにできること。使い道の多い歩は盤上よりも駒台にいた方が活躍の幅が広くなる。
2つ目は、飛車が前方に進むことができ、相手陣に睨みを利かせていること。十字にどこまでも利きがある飛車はいわば大砲の様なもの、前方に味方の歩兵隊が居なくなれば好き放題打てるのと同じ理屈だ。
3つ目は、他の駒が飛車の利きを活かして前に進めること。攻めに活用できる駒は常に飛車と連携し、敵陣突破を戦略とするのが将棋の基本となっている。その際、飛車先の歩は攻め駒の進行の邪魔になることが多く、歩を交換する事でより攻めの幅を広げることが出来る。
以上の理由から、飛車先の歩を交換することは多くのメリットを生み出すことが出来る。
その重要性を分かっていればこそ、相手の飛車先の歩を交換しに行く△5六歩は何も間違っていないように感じる。
しかし、例外というのはどこにでも存在する──。
▲同歩、△同飛と手順に進む。
「ここで天竜君が▲5七歩と打てば一局の勝負だろう。いや、今までの天竜なら間違いなくそう指していた」
「だが、今のアイツは違う──」
同じグループに組み分けられた聖夜が、隣で対局している天竜を一瞥する。
さきほど天竜との熱戦を繰り広げ、全力でぶつかり合い、そして敗北を刻まれた。だが、そんな聖夜だからこそ理解していた。
──今の彼が、そんな凡手を指すはずもないと。
▲5五歩打。飛車を閉じ込める一手。
天竜はまるでその手を指して当然だと、考えるまでもないと、顔色一つ変えずに相手の手を咎めに行く。
──ここで、相手の表情が一瞬にして固まった。
それは前回、聖夜との対局でミスをした天竜と同じ表情、既に奈落の底へと足を滑らせた後の表情だった。
「……終わりね」
助かることはない、たった一手の大きなミス。
相手が悪手を指し、天竜がその手を咎めた。そう理解した麗奈は静かに目を瞑る。
この▲5五歩によって相手の飛車が行き場所を失う。
一歩も動けない牢獄に閉じ込められ、次の▲5七金で小駒と大駒の交換が成立してしまうのだ。
逃げようにも逃げられず、放っておいても捕まってしまう、まさに対処不可能な牢獄。そして牢獄に捕らえられている存在は、王に次ぐ力の持ち主。
相手は飛車先の歩を突くという至って自然なはず一手で、この勝敗を決するほどの惨状は引き起こされてしまった。
「中飛車にとって5筋は生命線だ、ここのやり取りは絶対に間違えてはいけない。ましてや序盤なら、そう……その牢獄は非常に堅固だ」
さきほどの聖夜と天竜の試合でもあったように、局面が序盤であればあるほど駒得というのは非常に大きな差に繋がる。
しかも今回はまだ開戦したばかりの状態。お互いの駒がまだ一度しかぶつかっていない、紛れを起こす事が出来ない状態。
この戦況は、まさに天竜の優勢と判断して相違ない結果だった。
「くそっ……!」
相手は唇を噛み締めながら次の一手を指す。
△同銀。
対戦相手は苦し紛れに銀を捨て、飛車の安全を確保しにいった。
こんな序盤で飛車が取られることは決してあってはならない、例え金銀との交換になったとしても避けるべき状況である。
それが聖夜を破るほどの実力を持つ者であるならばなおさら、飛車だけは逃がさなければならない。
▲同銀右、△3六飛、▲3七銀打、△3五飛。
「天竜君は完璧に捉えてるね」
「ええ」
天竜は如何に最良の手で飛車を詰ますか、対戦相手は如何に天竜の手から飛車を守り抜くか。
二人の局面は完全に飛車の鬼ごっことなった。
「──くっそー! やっぱ聖夜さん強いっす……」
「ったりめーよ」
そんな中、隣で対局していた聖夜とその対戦相手が言葉を交わす。
ここで聖夜の2回戦は幕を閉じたらしく、その結果も大方の予想通り聖夜が勝ったようだった。
「さて……」
聖夜はふと隣で対局している天竜の方へと顔を向け、いつもと違う真剣な眼差しでその対局を見ていた。
▲8六歩。
これは単なる歩突きではない、次の4六銀引で飛車が唯一逃げられる8五の地点を防ぐための一手。つまりこの歩突きは、間接的に飛車取りを掛けている状態になっている。
今までの天竜とは思えないほど、柔軟で先を見据えた一手だった。
「やっぱり、読みが鋭くなってやがるな」
聖夜は確信を得る。
この短期間で一体どうやって強くなったのかは分からない、だがその指し手には確かな強さと勘に頼らない読みの深さが表れている。
聖夜の目から見ても、天竜は間違いなく強くなっていた。
「……ッ」
互いが中盤戦に入ってから、対戦相手の表情が次第に強張っていく。
自身が対峙しているのは本当にあの天竜なのか? と。
そう思う人物は他にも大勢と存在していた。そして、そんな驚愕の渦が会場を包む中、麗奈は一人立ち上がり、対局している天竜に背を向けた。
「一旦帰るわ、車出して」
「最後まで見なくていいのかい?」
「もう結果は分かってるから」
鈴木会長を連れ、再び会場の外へと出ていく麗奈。
その様子を一瞥した聖夜は暫しの沈黙の後、天竜の対局へと視線を戻した。
「結果が分かっている、か……」
未だ局面の結末が見えない聖夜は、二人の先んじる信頼性に小さく言葉を漏らす。
前回の大会で全勝を飾るはずだった聖夜が唯一負けた相手。そして今日の大会でも、一番楽だと思っていた相手に負かされた。
麗奈と天竜、それは偶然か必然か、二人は師弟の関係だと言う。その二人にはまるで接点どころか共通点すらないというのに。
「それでも、あの二人には何かが見えているんだろうな」
そう呟いた聖夜は、一回戦で天竜に言われた言葉を思い出していた。
『その答えは今後の対局で聞いてくれ──』
ふと頭を過ぎったその言葉に、聖夜は感じたことのない期待感を膨らませる。
同時に、疲労困憊してたはずの天竜は静かに目を光らせた。
「ああ、これは……全てを読み切った表情だ──」




