第二十二手「超速」
長期戦まで縺れ込んだ俺と聖夜の戦いが終わり、大会は開会式終了時から1時間という時間が過ぎていた。
そして第二回戦は速やかに開始される。
「「お願いします」」
本日二度目となる挨拶が会場全体に響き渡り、勝負の行方を決める2回戦が始まった。
「ほう! あの聖夜君に勝ったのか!」
「ええ」
仕事を終え会場へと戻って来た鈴木会長は、麗奈から1回戦の結果を聞き驚愕と嬉々の混ざった表情を浮かべる。
「第三世代、来たる新星か……」
それは偶然か必然か、されど将棋に絶対は存在しない。
その勝利が果たして運か、実力か、二人は俺の盤面に釘付けだった。
「──これは想像以上に荒れそうだ」
振り駒の結果、俺の先手で始まり、いつも通り▲7六歩や▲2六歩と指して居飛車の戦型を取って対局はスタートした。
「……」
俺の手に数秒悩む対戦相手。しかしその意は既に決していたようで、相手は口角を上げると、すかさず飛車を掴んだ──。
△5二飛。
振り飛車の根源ともいえる戦法が牙を剥く。
将棋は序盤から終盤まで非常に見所の多いボードゲームだが、一番最初に注目されるのは"初手"とその"戦法"だ。
自分の戦法、相手の戦法、その二つが噛み合った瞬間から読みは分岐する。
「……ゴキゲンか、良い作戦だ」
鈴木会長はその手を見て深く頷いた。
『ゴキゲン中飛車』、通称『中飛車』。それは角道を止めて戦う通常の『原始中飛車』とは違い、角道を開けたまま戦う近代の戦法。
カウンターをふんだんに取り入れた非常に高い攻撃性があり、振り飛車の中でも特に欠点が少ないことから、完成された戦法のひとつとして挙げられている。
「さっきの試合で師匠は聖夜に勝ったわ。それもただの勝ちじゃない、四間飛車という振り飛車の戦法を使った聖夜に勝った」
観客席に座った麗奈は口ずさむ。そして、それに続くように鈴木会長が口を開いた。
「つまり、天竜君を相手にするなら、同じ振り飛車を指すにしても同じ戦法まで指すわけにはいかなくなるわけだ」
対局とは情報戦でもある。誰がどの戦法で勝ち、どの戦法を破ったのか、大会である限りその情報はリアルタイムで更新されていく。
──天竜一輝に四間飛車は通用しない、この情報は大会の選手全員が得ている。
「そこで非常に高い柔軟性があり、かつ攻め筋の多いゴキゲン中飛車を選んだ。素晴らしい着眼点だ、相手は天竜君のことをよく見て対策を組み立てているね」
一般戦に並みの選手は存在しない、常に気を張らなければ足元をすくわれる。
そんな鈴木会長の言葉に、麗奈は鼻で笑った。
「あまりにも当然の発想すぎて二流ね、私だったらもう一度四間飛車を指すわ」
「なぜだい?」
オールラウンダーとしての観点からみた麗奈は、それこそが正解と確信しているかのように答える。
「師匠は四間飛車に勝ったわけじゃない、聖夜に勝ったのよ。あの試合はあくまでも師匠の逆転勝利、序盤に聖夜が指した四間飛車は間違いなく師匠に効いていた。だからここで戦法を変えるのはよくある初心者にありがちな裏の読み過ぎよ。私なら迷わず四間飛車を指す、聖夜もきっとそうするでしょうね」
麗奈は鋭い目付きでそう答える。
「……正解だ。麗奈君はあれから随分と鋭い思考になってきてるね」
「当然よ、あんたに言われた言葉忘れてないからね」
「"咎めるべきところを咎めていない"か、確かに今の麗奈君なら過去のあやまちを繰り返すことはないだろう」
鈴木会長は警戒の表情を浮かべると、再び盤面へと視線を移した。
「──だが、彼の指した戦法はそう甘くないと思うよ」
「どういう意味?」
鈴木会長の呟いた言葉に眉をひそめる麗奈。
「ゴキゲン中飛車は他の戦法と比べて隙が少ない、そして下手に攻めるとカウンターが飛んでくる。特にここで▲2四歩とするのは相手の術中だ、天竜君はその定跡を覚えているのかね? それに、いくら振り飛車を克服したからといってすぐに対応出来るというものでもない。2連続で、しかも全く別の振り飛車を指されれば、天竜君もタダではすまないだろう」
鈴木会長の警戒は最もだった。
だが、麗奈はため息をついて答える。
「師匠を甘く見過ぎよ、いったい何局私と指したと思ってるの?」
腕を組み、自信に満ちた表情で盤面に視線を向ける。
「振り飛車の代表格である中飛車、それもゴキゲン中飛車よ? 対策くらい練ってあるに決まっているでしょう。彼は1から全てを学んだのだから」
同時に俺の手が動く。
既に6八に上がった玉を見れば、俺の選ぶ戦法の選択肢はもう数えるほどしかない。
居飛車穴熊か? 4七銀型急戦か? それともアマチュアらしくオリジナルの戦法で戦うのか?
周りの観戦者が注目を向ける。今までとは何かが違うカモの動向に、どうあがいても注目せざるを得ない。
「──来るわよ」
その手付きに一切の迷いはなく、まるで本当に振り飛車を苦手としていたのか疑問に思うほどの風格で駒を掴む。
▲3六歩。
ただの歩突き。それも飛車の弱点である小鬢を曝け出すその一手に、見ていた者は驚きの声を上げた。
「「「──"超速"!?」」」
鈴木会長と観戦者たちの声が重なる。
『超速3七銀戦法』──またの名を『超速』。振り飛車最強の一角として猛威を振るったゴキゲン中飛車に、決定的な終止符を打つことができた居飛車の最強対策。
それは遥かに高度なプロ向きの対策であり、級位者や低段者のアマチュアが対策として使うにはあまりにリスクの高い戦法だった。
△4二銀、▲3七銀。
「……っ!」
だが、それでも俺は超速の定跡へと手を進める。
これこそ俺自身が導き出したゴキゲン中飛車に対する明確な答え。
「まさか、天竜君は……」
常日頃から進化し続ける定跡の中、将棋にはその戦法に対するある程度の対策は書き記されている。だが、将棋の世界において対策とは"勝利"ではない。
「ええ、選んだのよ」
極論を言えば、対抗型のソフト同士の戦いは居飛車の勝率が9割を占める。
つまりそれは、振り飛車は居飛車に敵わない。と決定づけているに等しい。
ならば、我々人間は振り飛車を指さないのか? 振り飛車の対策は居飛車を指すことであるのか?
それはあまりに見当違いな答えだ。
将棋の魅力は全ての戦術が無限に近い可能性を秘めていることであり、明確な対策と評されるのはあくまで理論上の話でしかない。
対策の先は? 対策が成功したあとは? 対策から外れたら? そこから本当に勝利できるのか?
そう、それはあまりに長い道のりである。
対策とは"互角以上"を示すものであり、互角以上ならば100%勝てるというわけではない。
もし優勢になってから必ず勝てるというのなら、将棋に"逆転"なんて言葉は存在しない。
それは莫大な数値を計算できるAIだからこそ成し得る技、人類が自らの脚力のみで銀河の果てへと手を届かせることは決して叶わない。
だからこそアマチュアには無限の戦術が存在している。たとえ理論上不利だとしても、自分達にその"不利"とは何なのかを咎める術はない。仮に相手がその不利の真理を理解したとしても、第二、第三と、無限の不利がひたすら分岐を始めるだけ。
結果、読みの鋭さ、大局観、研究、心理戦、あらゆる方法を用いて勝利へと手を伸ばすのが将棋というボードゲームだ。
対策を知っている相手と、対策されると分かっていながらもその戦法の隅々まで研究した相手では当然後者が勝つ。
つまり、不利であることを承知のうえで有利に進めていくのが将棋の本質なのだ。
「だが天竜君、君は示した──自ら泥沼に入り込む覚悟を」
そう、何事にも突き詰めた理論が存在する。
それはゲームであっても、勉学の世界であっても同じだ。人は何かを極めたいもので、どんなジャンルにもプロフェッショナルが存在する。
そしてそれは、将棋の世界にも当然いた。
絶対に不利を許容しない、常に最善手を模索し続け、互角以上なら限りなく勝ちに近づける、その恩恵を最大限に活かし発揮できる。
そんな人類の英知を遥かに超えた史上の天才、いいや、天才の中の天才。理論上の最善へと挑み続け、狂気の世界に足を踏み入れる者。
──それが"プロ棋士"だ。
プロ棋士はその"互角以上"という結論さえあれば限りなく勝利に手を伸ばすことが出来る、互角じゃないのならそこで結論が導き出される。
彼らはその情報だけで十分なのだ。その情報だけで、優勢というだけで勝ちへと結びつけることが出来る、だからこそプロフェッショナルと呼ばれている。
そして今この時、俺は暗に示していた。
"互角以上"であるならばその戦法を採用すると。アマチュア同士のミスを咎め合う戦いではなく、ひたすらに最善を尽くすプロの世界に進むと。
それは本番で指すにはあまりにも危険すぎる戦法だった。本来なら1年はかけてじっくりと頭に覚えて込ませたかった。
だけど、相手がゴキゲン中飛車を指した以上、使うならここしかない。どれだけ中途半端でも、使わなきゃ意味がない。練習の成果を出すには、初めてだろうが何だろうが使うしかない。
それが、最善を目指すということだ──。
「なるわよ、師匠は」
「……プロにかい?」
麗奈は既に先の未来を彷彿とさせていた。
"穴熊を使いこなすには三段以上必要"と言われるように、超速も使いこなすにはある程度の研究と実力が伴われる。そうでなければ有利を築くのはあまりに難しい。
だが、麗奈は確信を揺るがせない。彼なら、自らの師ならやれると信じる。
そして不確かな結果の先を見据えるように、麗奈は盤上へと視線を向けた。
「──その先に」