第二十手「地区大会すら勝てない俺が」
──……。
時計の音が聞こえなくなり、訪れた静寂に互いは勝利を悟る。
ほんのわずかの間を置いて、よそ見をしていた聖夜が疑問に思う。
「……? なんだ? 今10って言ったか? 時間切れだろ?」
聖夜は近くにいた審判員にそう問いかける。
審判員はその目で時計の数字を確認し、そして首を横に振った。
怪訝な目を向け振り返る聖夜は、次の瞬間に固まった。
「なっ……!」
△6七馬。
時間切れとばかりに思っていた聖夜は俺の顔を二度見し、局面へと目を泳がせる。その表情は残り1秒で指し切った俺に驚いたのか、指した手に驚いたのかは分からない。
だけどその表情がどちらにしろ、俺にはもう関係のないことだ。
「……チッ、死にぞこないが……!」
▲同香。
トドメを指す準備でもするかのように強く香車で取った聖夜。
いくら俺が駒をとっても聖夜のエルモは簡単には崩れない、それに聖夜に駒が渡れば俺の玉は一気に詰まされる恐れがある。
ならばこの局面で下手に駒の交換はするべきじゃない、と思うのが普通だろう。
△4九金打。
だが俺は自分の軟弱な囲いを無視して聖夜へと一気に畳みかける。
攻撃──攻撃だ。守りを完全に捨て、相手に駒が渡る恐怖を捨て、攻撃をする。
「そんな緩手で俺のエルモを崩せるわけがねぇ!」
▲5四と。
持ち駒の差を見れば歴然、聖夜の方が圧倒している。角金桂歩の4つも持ってる聖夜に対し、俺の持ち駒は1つもない。
既に予選を終えた観戦者達は遠方で棋譜並べをしているが、その結果は聖夜の勝利で結論づいているようだった。
「確かに天竜の攻めは凄いが、寄せきれるのか?」
「無理だ。△4八金としても▲同金、△3九金も▲同銀で逃げられる格好だな」
「それに聖夜は▲2六歩や▲1六歩などで玉頭の歩を突けば逃げ道もできる」
「こりゃあ終わったな」
ひそひそと物音に混じった小声で話す観戦者たち。聖夜も同様、自分の勝利を確信している様子だった。
そして俺自身も同じく──自らの勝ちを確信していた。
△3九金。
既に思考を終え、ノータイムで指す。
あれから俺の時計は一回たりとも10秒を過ぎた音を鳴らしていない。
「──クソ、崩させねぇぞ……! お前には崩せない、崩させねぇ!」
いつしか時間を追われるのは聖夜の方へと変わっていく。
この大会の互いの持ち時間は互いに15分の30秒。
既に持ち時間を無くしている俺は30秒の秒読み状態で、聖夜は残り7分余りある。
だが終盤で局面がもつれ込み、そのまま互いが秒読みに入ると、実力よりも相手より早く手が見えるかの大局観勝負になってくる。
聖夜としてもそうなると困るのだろう、頭を捻らせ必死に考えている。
▲同銀。
気迫を醸し出すかのように激しく指し返す聖夜は、まるで自分に言い聞かせるかのように同じ言葉を繰り返す。
「お前に俺のエルモ囲いを崩せるはずが──」
「いいや、崩せる」
俺はこの時、聖夜との対局で初めて口を開いた。
「──!」
ずっと無言だった俺が初めて否定する言葉を述べたことに対し、聖夜が勢いよく顔を上げる。
麗奈と指したこの1ヵ月間。決して無駄だと思った事はなかったが、自分の力を信じ切る材料には至ってなかった。
結局経験と才能がものをいう世界で、努力という小さな手綱はいつ引き千切られるかも分からない。頑張ったら結果が出る、努力に見合った成果が現れる、そんな甘い世界じゃないのは百も承知だ。
実際、今までしてきた努力が実ったことは一度も無かった。だから今回だって、その努力の数々が結果に結びつくとは限らないと思っていた。
だが、俺はこの1ヵ月で学んだことを一度たりとも忘れたことはない。
若さという貴重な時間を費やしてまで付きっきりで俺に教えてくれた麗奈の助言を、所詮子供の経験則などと軽い気持ちで受け取ったことは一度もない。
振り飛車が苦手な俺に、トラウマが重なって実力に反映できていない俺に、麗奈は諦めることなく何回も覚え込ませてくれた。様々な局面で幾度も尋ね、幾度も助言をしてくれた。
常識的なことからあまり知られていないことまで、オールラウンダーである麗奈の持つ振り飛車という戦型の全てを学んできた。
「……エルモ囲い。確かに隙は少なく、美濃囲いにも劣らないバランスに優れた陣形だ。だが──」
俺は駒台へと手を伸ばし、たった一つ残った持ち駒を持って答える。
麗奈が教えてくれた言葉の数々を思い出しながら、決定的な振り飛車の弱点を咎める。
『いい? 振り飛車側が囲いの端を突くのは"義務"なのよ。"権利"じゃないわ、"義務"。そして居飛車側はそれを見極める"権利"があるのよ』
頭を過ぎる麗奈の言葉。
そして目の前にある局面との差異を比べ、俺は聖夜に告げた。
「『囲いの端を突いていない振り飛車なんてただの──
──棺桶』だ」
△4八金打。
俺が指した数秒後、観戦者が継ぎ盤をしている奥の方で椅子が倒れる音がした。
驚いたのは観戦者だけではない、聖夜が目を見開き絶句している。
「は……?」
時間があれば読めていたはずの一手? 違う。これは"避けられない一手"だ。
俺と聖夜の対局に他の観戦者もぞろぞろと集まってきて、その中の一人がポロリと言葉を漏らす。
「……アイツ、本当に天竜なのか?」
一級にも満たない凡人が秒読みで読める手ではない、と。その驚愕が周りを襲ったのだろう。
冗談じゃない。読めるさ、何手も前から。──全部読み切っていた。
この手を▲同玉と取ると△4九飛成までの一手詰め、そして▲同銀取っても──。
「……一間龍」
頭の中で局面を読み進め、その一言だけを漏らして固まる聖夜。
一間龍。それは玉と龍の位置が1マスだけ離れた直線にあり、その王手を回避出来ずに合駒をするしかない状況下で、なおかつ合駒の上段もしくは下段に駒を打ち王手が掛かる状態のことを指す。
──簡単に言えば、これは必殺の一撃だ。
▲同銀以下は、△4九飛成▲2八玉△4八龍▲3八合駒△3九銀打▲1八玉△3八龍までの9手詰め。
この△4八龍▲3八合駒△3九銀打が一間龍の形だ。
一間龍はくらってしまうと一気に寄せの形になるため、最も警戒すべき手筋のひとつとされている。
だがこの一間龍に気づくには、俺が指した△4八金打が見えてなければならない。
一見タダで取れそうなこの金は、まさに死の罠にも等しい目先の富だ。
「こんなことが……こんなことが……っ!」
聖夜がもし序盤で端を突いていたら、こんな展開にはなっていなかった。
エルモ囲いは横に平べったい、故に横からの攻めには強固なもので玉頭からの攻めも回避しやすい万能な陣形だ。だが所詮は金銀2枚の囲い、猛攻な攻めに堪え切れるほど固くはない。
そして、いざという時のために囲いの端を突くのは将棋の基本だ。現代では穴熊でも端を突くことがよくある。
もちろん状況によると言ってしまえばそれまでだが、玉頭周辺の歩を突かずに戦いを起こすのなら最低限端歩は突くべきだった。
いざ攻められた時に逃げ場所がなければ、それはもう本末転倒なのだから。
「こんなことが──ッ!」
▲2八玉。
同銀も同玉も詰んでしまうのなら逃げるしかない。
聖夜は叩きつけるように玉を逃がす、だが──。
△3九飛車成。
この手が激痛どころの話ではない。
あれだけ強固な形を保っていた聖夜のエルモ囲いはあっという間に崩れ去り、聖夜の玉は見るも無残な裸玉だ。
そして王手は続き、聖夜の手番は一切回ってこない。
「はぁ……はぁ、クソ、クソ──ッ……!!」
▲1八玉。
聖夜は今にも叫び出しそうなほど息を荒げ、重い手つきで玉を寄る。既に怒りと困惑でろくに頭が回っていない様子だった。
そんなまだ諦めきれずに逃げ惑う聖夜の玉に、俺はトドメの包囲網を敷いた。
△3八金。
全て読み終えている俺は聖夜の指し手にノータイムで返し、絶対の勝利を形作る。
金と龍で聖夜の玉は完全に包囲され、局面は聖夜側の受け手なしとなった。
「あ、あ……ああ……!」
もう逃げ場はない。これは隙も、受けも、全てが通じない形だ。
こんなことが起きるはずがないと、起こってはならないと。
「──クッソがァアアッ……!!」
聖夜は呻くように小さな声で咆哮する。
そして、涙ぐんだ表情で俺の玉へと噛みついた。
▲4三と。
聖夜はヤケクソのように王手を放つ。
ピーっと音を鳴らしたチェスクロックをバチンと叩いて、子供の様に俺を睨む。
あれだけ余裕のあった聖夜の時間はもうなくなり、俺と同じ秒読みに入ったのだ。
△同玉。
▲1六角打。
また王手だ──。
△3二玉。
▲4三金打。
また王手──。
△2二玉。
▲3三金。
王手──。
△同桂。
▲3四桂打。
王手──。
△1二玉。
▲2二金打。
王手──。
「──……ッ──ッ!!」
聖夜は怒涛の王手で俺へと迫る。
豊富な持ち駒をふんだんに使い、俺に攻撃の手番を与えない。
「マジかよ……」
だが周りの観戦者はもう、この勝負の勝敗を知っていた。
聖夜自身も、分かっていた。
「くそがァッ……!!」
──これは"思い出王手"と言うものだ。
既に勝敗の決した状況で、相手のミスを願って最後にする抵抗。つまり相手の頓死を狙って王手を繋ぐ最後の足掻き。
上級者間では"形作り"とも呼ばれ、少しでも迫った格好を作り投了することで拮抗を演出するものだ。
そう、この王手は俺のミスを狙った聖夜の最後の抵抗。
数値上の勝敗は既に決まっている、だが人間は必ずしも正しく指せるわけではない。俺ならこの局面でも間違えると、逆転の可能性を見いだせると彼は思っているんだろう。
確かに、今までの俺ならその可能性はあった。
△同飛。
必死に手を考え指した聖夜の手を俺は全てノータイムで指し返す。
「……なんで」
聖夜は残った持ち駒を握りしめて、悔しそうに口を開く。
勝負の世界で敗れ続けていた今までの自分を見ているようで、哀れな感覚だ。
▲同桂成。
△同玉。
「──なんでだ! なんで間違えねぇ!!」
我慢できなくなったのか。聖夜は怒りに震えた手で持ち駒の飛車を握り、その怒りを俺へとぶつけた。
「今までのお前ならここで頓死してもおかしくはなかった! そもそもお前が振り飛車を相手にここまで戦えるのはなんでなんだ!? 一体何がお前をここまで変えたんだ……いったい、いったい誰なんだよお前はァ……!!」
▲6二飛打。
再びの王手。
本当に悔しそうなその表情に周りの観戦者も同情している。
俺に向けられる視線は驚愕と嫉妬を含むもの、決して気分が良いわけではない。
だが、それでも俺は今までにない程清々しい気持ちを示す。
「誰って。そんなの俺の口から言わなくてもこの対局が、この棋譜が全てを証明してくれてるだろ」
「──ッ!!」
激しく動揺する聖夜から視線を外し、ズラリと並んだ様々な持ち駒の中から一つの駒に目を向ける。
俺はこの試合で何度この駒に思いを込めたのだろう。
最弱の象徴、捨て駒という役割を持ちながら最も使われる無くてはならない駒。
──なあ、聖夜。
正直言って俺は幸運だったよ。
あんな可愛い少女を弟子に取って、3ヵ月も自分の好きなことで語り明かして、その上で強くなれたんだ。
確かに辛かったが、何よりも覚える楽しさを分かち合えた。
今までカモにされ、馬鹿にされてきたが、それでもどん底から這い上がるには十分すぎるほどの幸運だ。
お前が今までしてきた努力だって、俺とは比べ物にならないくらい大変だったのかもしれない。むしろ俺よりも苦悩を味わって強くなったのかもしれない。
だがこれは努力だけじゃ覆せない競技。才能も知識も策謀も、心理戦だって求められるんだ。卑怯なことだってルールの範疇なら許される、お前もそうしてのし上がってきた一人だろう?
そして、その世界を承知でお前はここにいるんだろう?
狩られる側の獲物だからって、いつまでもその場所にいると思うなよ──。
「そんな、こんなことが……ッ!」
どよめく観衆、聖夜はまるで別人でも見るかのように俺を見ている。
そんな情景を無視し、俺は持ち駒の歩を掴み盤上へと打った。
僅かに震えた手の先は今までとは違う、初めて感じた勝利への震え。
上げた視線の先で凍るように固まる聖夜に、俺は今までの気持ちを無言で返した。
聖夜、俺を恨むなよ。
──これも"将棋"だ。
△4二歩打。
飛車の王手を防ぐのに高い駒は必要ない、歩で十分だ。
そしてこれ以上聖夜が俺に、捻りを加えた王手を掛ける手は残っていない。
「この俺が、まけた……?」
将棋とは決着が着く前に勝敗を悟ることが多い珍しい競技だが、それでも聖夜は自分の敗北に納得がいってない様子だった。
長方形の机の角を掴み、目の前の盤面に視線を張り巡らせる。
自分が大きくミスをした痕跡はない。それでも負けたということは、自分を上回る実力の相手だったということになる。
しかし、聖夜はその事実に首を振った。
「……この短期間でどうやってそこまで強くなれた? どうしてここまで強くなろうとした? 将棋に命でも脅されたのか? いや、まさか……」
聖夜は何かを察して俺の背後に目を向ける。
驚いた表情でこちらへ向き直る聖夜に、俺はありのままの真実を告げた。
「──俺はある弟子と一緒にプロを目指すことにしたんだ。まぁ、かなりのスロースタートになったけど」
「弟子……? プロを目指す……? お前が……?」
それを聞いていた観戦者たちがざわつく。
聖夜もワナワナと震え、あり得ない事でも聞いたような顔をして嘲笑った。
「──は、はは……はははっ! 地区大会すら勝てないお前が、あんなガキを弟子に取ってプロを目指すだと……? そんなうまい話あるわけが──!!」
「あるさ」
だが、俺はきっぱり言い切った。
あの時麗奈に出来なかった返事を、今ここで返した。
「可能性が限りなく低いことは知っている。だがそれは誰も成し得てないだけ、目指す価値を落とすべき理由には至らない。知っているだろう? この世界が如何に残酷で、報われない世界なのか」
「……それは」
天上に掲げる手を見つめ、握る拳に思いを詰めて改めて決意をする。
「二度も誓ったんだ、プロになるって。例え無謀でも無理でも目指すさ。それを馬鹿だと思うなら笑えばいい、蔑めばいい。その答えは今後の対局で聞いてくれ」
真っ直ぐな目で聖夜を見る。
先程までざわついていた周りの観戦者も、本気で決めた俺の決意を笑うことは無かった。
「……はぁ、そうかよ」
聖夜も同様に、呆れた顔をしながらも俺の言葉に折れたらしく、残った持ち駒を掴んで盤上へとばらまいた。
「俺の負けだ。……いい勝負だった」
将棋の挨拶は2種類しかない。対局を始める時と、終わる時だ。
負けた側は「負けました」と言い、勝った側はこう言う。
「ありがとうございました」
地区大会で負け続けていた男がついに口にした言葉。
たった一言の挨拶、だがその一言で今大会の参加者は皆息を呑まざるを得なかった。
緊張の走る会場。変わりゆく棋力の判別。
今大会は、今までにないほどの大荒れが予想される。
注目すべき新たな敵は、今までの大会でカモとまで呼ばれていた居飛車使い。
それが今や、優勝候補を破るほどの棋力をもって逆襲しに来た。
選手たちの中で固まっていた情報が、古い地盤を上塗りするように新たな情報へと書き換えられる。
──優勝候補・天竜一輝。
予選1勝0敗。超新星の誕生だ。




