第十九手「掴み取った必殺」
──くぐもった音が聞こえる。
耳を塞いで聞いているかのような、空気の振動。
時が止まったかのように遅く感じ、瞬きすらも忘れてしまうこの感覚。
俺は何を見ているんだろうか。
これは、本当に現実なのだろうか。
目の前の盤が、駒が。自分の想像通りに動き始める。
硬直した手の下で、視えるはずのない景色が視え始める。
聖夜が指した▲5三と。この手を境に、俺の思考は左脳から右脳へと引っ張られた。
視えるはずのない手が、読みが、勝手に浮かび上がってくる。
『10秒』
時計の警告音とともに、聖夜が勝ち誇った表情を浮かべる。
時間の流れが遅くなっていく、くぐもった声は段々と聞こえてこなくなり、やがては無音になる。
今まで必死に考えていた局面が、俺の意識を外れて勝手に読みを進め始めた。
燃えるような熱気を放っていた俺の脳は、これ以上ないほど冷静になる。
──あれ? 俺今誰と戦ってるんだ? 麗奈か?
無造作にちりばめられた局面の中から、確かな答えが俺に向かって光だし強調する。たどり着いた真意の先で、俺に選べと木霊する。
『20秒、1……2……3……』
無数に広がった道をまるで"上から見下ろしたような感覚"になり、既に見つかった宝を凝視しながら掴もうとはしない。
それが本当に合っているのか、信頼できるものは自分自身しかないというのに。
『──5、6』
寸前のところで止まっていたその手がついに伸びる。
硬直していた手が、空気すらもすり抜けて静かに盤上へと動く。不思議なことに誰もその手に気づくことはなかった。
『──7、8』
あれだけ信憑性に欠けていた判断も、今では確信に変わる。それはきっと、後ろから背中を押してくれた存在が確かにいたからだ。
負け犬のように愚痴を漏らしても、できないと一言で締めくくっても、それでも彼女は一切怒らず相手をしてくれた。
『地区大会の連中がそんなに怖い? いいえ、怖くない。あんたは自分の実力を過小評価しているだけ、自分に眠っている力を知らないだけよ。本当の実力を見せてやりなさい』
そうだ、俺は前から見えていた。
見えていたのに、その手を信じきれていなかった。だから負けたことに納得がいかなかったんだ。
勝てない相手が絶対に正しい手を指すわけじゃないのに、その手を絶対だと思い込んでいた。俺は地区大会にのさばる選手がみな、自分にとって一番大きな壁だと思い込んでいたんだ。
そんなんじゃ勝てなくて当然だ、そんなんじゃ──前には進めない。
『──9……』
ギリギリのはずなのに、不思議と頭が冷静だ。
いつの間にか高鳴っていたはずの胸の鼓動も、震えていた手の緊張もなくなっていた。
ペットボトルのお茶の反射で微かに見える麗奈の姿──。
やっぱり見守ってくれてたんだな、こんな情けない指し手ばかりする試合を。
あれだけ練習したのに、このままじゃあ顔向けできないな。
……でももう大丈夫だ、もうこれは克服した。
亀裂の入った嫌悪感のある戦型に意識は透過し、馴染みが生まれる。
俺は取った駒を静かに駒台に置き、時計を押した。
視線を外した観戦者たちはその手に気づき再び目を見開く。
見せてやる麗奈、これが俺の意思で掴んだ答えだ。
どんな光よりも速い、確実に仕留める必殺の寄せ──。
──△6七馬だ。




