第十八手「広大な思考の海で」
整えた呼吸を静かに合わせ、手と心を連動させる。
「──ふー……」
自らの世界に入ってもなお視認できている目の前の盤上は、妄想と現実が入り混じる世界。瞬きすらも忘れてしまうような集中力で、俺は目の前の強敵と対峙していた。
△9九馬。
香車を取りながら次の銀取りを見せている、一石二鳥の手を放つ。
▲7八金。
取られる銀を防ぎながら次の飛車引きを見せた、一石二鳥の手を放たれる。
俺と聖夜は一切無駄のない手を放ち、水面下で激しい攻防を繰り広げる。
次に聖夜の▲6九飛が入ると、俺の馬が動ける場所がなくなり、ほぼ死んだ状態になってしまう。
△6五香打。
なら飛車を引かせなければいいと香車を放つ。
香車は通称『槍』とも呼ばれ、真っすぐどこまでも飛んでいくイメージがある。
そしてそんな香車に対抗できる駒としてよく使われるのが"歩"だ。歩は最も価値が低いためいくらでも渡すことができる、そして香車の前に置くことでその効力を無力化する手としてよく使われる。
──だが聖夜にその歩は無い。
最も弱い駒とは、裏を返せば最も使われる駒でもある。"歩のない将棋は負け将棋"と言われるほどに将棋に置いて歩の重要性は高い。
そして相手が歩を持っていない場合、香車の攻撃力というのは大駒に匹敵するほど跳ね上がる。だから俺はその一手を指した。
「甘ぇな天竜──!」
それでも聖夜は物怖じせずに銀を放つ。
▲6六銀打。
歩が無ければ銀で受ければいいと言う豪胆な発想。
だがその手は恐らく最善手、如何なるピンチであっても既存の発想に囚われていては潜り抜けられない。
柔軟な思考は正当への道筋であるように、聖夜の受けは間違いを犯さない。
──やっぱり、強い……!
これが先を読むゲームの本質。自分だけじゃない、相手の手も考えなければならない。
ぶつかる二人の激闘に周りの観戦者も目が離せずにいた。
△同香。
▲同飛。
△8九馬。
「──そんな甘い手でいいのかよぉ!」
「……」
それからも激しい駒の交換が行われ、突然俺が指した一手に聖夜が嘲笑をかます。
「……! いや……まて……?」
ここまで人が変わったように強力なパンチを度々放ってきた俺が、突然力の抜いたような手を指す。
何か意図がある、そう思った聖夜が珍しく長考に入った。
▲6八金。
持ち時間がようやく10分を切った聖夜は、長い時間考えた末、右へと金を寄った。
▲8八金としてしまうと手順に馬が自陣へ逃げられてしまう上に、聖夜自身の金がそっぽへ行ってしまうと考えた末ものだったのだろう。
だが、今の俺はその隙を絶対に逃さない──。
△6五歩打。
「しまっ──」
聖夜は寸でのところで口を結ぶ。
その言葉を言っては、認識してはいけない。そう言い聞かせるかのように、聖夜は顔を俯き言葉を消した。
──『勝負とは自らが劣勢だと悟った瞬間負けである』。
例えそれが"小駒"と"大駒"の交換になったとしてもだ。
▲6七飛。
△5五桂打。
この手で聖夜の飛車は逃げる場所がなくなった。放っておけば桂馬と飛車の交換、それを阻止するには角で取るしかないが、これも桂馬と角の交換。
──いずれにしても"小駒"と"大駒"の交換が成立してしまったのだ。
「やるなぁ天竜? お前、一体どこまで見えてやがる?」
「……」
「……お前、本当に天竜か?」
試合が始まってから今まで目を合わせていなかった聖夜は、目の前の男が如何に盤上へと向き合っているかを知った。
いつもは頭をペコペコ下げて、大会ではカモ扱いされているような小物。そんな相手がいまや一人の将棋指しとして盤上の真理へ向かい合っている。
誰よりも深く、真剣に思考を読み進めている。
「──……っ……」
聖夜は額からどっと汗を流した。
もしかしたら、この男は自分を越えているのではないかと。
「……けるのか」
確信してしまった自身の劣勢にワナワナと震え、聖夜は言葉を小さく漏らす。
──このまま、負けるのか?
会場は異様な空気に包まれ、対戦相手の二人は異質なオーラを纏う。あの一変から一切悪手を指さなくなった俺と、それに押されてしまっている聖夜。
傍から見ても形勢はこちらに傾きつつある。いや、既に傾いているのかもしれない。
だが聖夜にとって、それを受け入れることは勝負を放棄するに等しかった。自分が劣勢だと悟ってしまっては、本当に形勢が覆らなくなってしまう。
だから勝負師は常に自分が優位であると信じる。それが勝負に置いて絶対だから、人間がもつ才能を十二分に発揮するために必須な思考処理だから。
「……そうか。俺が、劣勢か──」
聖夜は俯き目を閉ざし、自らの棋譜を頭の中で何度も読み返した。今まで自分が指してきた手、相手が指してきた手。全部覚えている、全て理解している。
未来は分からなくとも、過去は分かる。
聖夜はそうやって記憶の中で何度も棋譜を読み返し、何度も検討し、そして最後に……。
──自分が負けていることを受け入れた。受け入れた上で──。
「……それでも、勝つのは俺だ。天竜ッ!」
──勝利を目指した。
▲6九香打。
バチン! と力強い音が響き渡る。
吹っ切れた聖夜の目は目の前の人間と同じ──勝負師の瞳へと変わる。
「同角じゃない!」
「あの聖夜が受けに回った?」
「いや、全て受けきって真っ向から天竜を潰す気だ!」
観戦者たちが聞こえないよう小声でざわつき始める。
二転三転、流れは聖夜へと向けられる。
聖夜の守りは横に強い鉄壁へと変貌、例え相手に飛車が渡ろうともこの要塞は簡単には崩れない。
「全力で相手してやる……ッ!」
攻められるものなら攻めてみろと、聖夜はその目をこちらへと向ける。
△6七桂成。
▲同金。
「こい、全て受け潰してやる……!」
自信を取り戻した聖夜に押されはじめ、俺は表情を歪める。
「……ッ」
額から大量の汗が零れ落ちていく。
時間のある聖夜と違って俺はずっと秒読み、30秒以内に指し切っている。
30秒以内で何手も読まなければならない上、思考に没頭しすぎると時間の事を忘れてしまう。
3秒で思考の海に入り、20秒間探り続け、3秒で現実に戻る。そして残りの数秒で指すと言う地獄の思考を何度も行い、今にも引き千切れそうな頭を麗奈から貰ったお茶で冷やして、また考える。
──苦しい、息が詰まりそうになる……!!
白熱した戦いは更なる緊迫を加えて、観戦者にすら緊張がほとばしる。
「それでも……ッ!」
△7九飛打。
俺は素早く飛車を下ろして、残り1秒の時計を押す。
▲6八香。
時間の有利に気づいた聖夜は、それを最大限に活かそうとノータイムで香を躱す。
ガチガチに受ける手よりも、こういう軽い手の方が相手の思考をふんだんに使わせる。まるで嫌がらせを極限まで極めたような悪質な一手、それは将棋において誰しもが考える常套手段だ。
△5八銀打。
俺はまたしても残り1秒のギリギリまで考え、銀を打った。
「はぁ、はぁ……」
「チッ、良いところに打ちやがる……! 」
かなり深くまで考え込んでいたせいか、時間が切れる警告音がなってもギリギリまで反応できなかった。
だけど、絶好の手は指せた。
この手に聖夜が▲5六金と逃げてくれれば7七の銀を取れる。逆に香車の利きが利いているからと放置しても、△6七銀成と指し、▲同香に△同馬でこっちが優勢だ。さらにこっちに金が渡ると、今度は△5八金打という手も使えるようになる。
銀は横に利きがないが、金にはある。後に△5八金と打たれてエルモ囲いの要である4八の銀が取られてしまえば、聖夜の囲いは一気に崩れる。
この手は俺にとっても渾身の一手だ。聖夜が受けに回るというのなら、こっちは着実な攻めに方針を変えればいい……!
「……」
聖夜はこの手に対してどうするのか、周りにいた誰もが着目していた。
このまま▲4九桂打と指してがっちり受けるのか、はたまた▲2六歩と突いて逃げ道を作るのか。
どのように受けてくるのか、はたまたその受けが成立しているのか。全員の視線が聖夜の次の一手に注目する。
だが……。
「──なーんてな」
悪魔の様な楽観的な声に、俺は目を見開いた。
▲5三と。
聖夜はなんと受けずに"攻め"へと転じたのだ。
「俺が本当に受けると思ったか? 緩急の指し回しをナメんじゃねぇぞ……! お前に俺の囲いは崩せねぇ、例え大駒をもってしてもな──!」
今までで一番とも言える緩急の指し回しが、それまでの俺の思考を一気にご破算させる。
ひたすら聖夜が受けるであろう手の候補を必死に考え、その先を読み解いていたというのに、攻める手を指されれば今まで考えてきたものは全て意味を無くす。
聖夜の狙いは、時間のない俺への"時間攻め"でもあった。
それに気づいた俺は、濁流のような冷や汗をかいて盤面を凝視する。そして残り28秒と書かれた時計を一瞥して、自分がこの驚愕という行為の一瞬で2秒も使ってしまったことに怒りを覚えた。
まずいまずいまずい──! もう終盤、絶対にミスれない局面だ。1手でも間違えたら一気に形勢が変わる! なのに読んでいた手を全部壊された……ッ!
聖夜の策にハマってしまった俺は、残された時間で必死に頭を回転させて次の手を考える。
『──10秒』
時計が読み上げに入る、残り時間は20秒。その間も俺は盤上を見たまま視線を動せていない。
聖夜の手はただのハッタリを含んだ攻めじゃない、同金と取れば桂馬で両取りをかける立派な攻め手だ。
と金を放置する手は逆転が見える、かといって取る訳にもいかない。別な手を考えようにも時間が無い。感覚で指さなければならないが、感覚で指してしまえばそれは運任せと同じだ。
『20秒。1……2……3……』
残り時間が10秒を切る。
俺は未だに硬直を解かない。
『──5、6』
やがて観戦者たちも息を呑み、対局の終りを予想した。
『──7、8』
聖夜は俺の後ろで腕を組み、見守っている麗奈に目を向け嘲笑する。
お前の大切な仲間を負かしてやったぞ、と。悪質な笑みを浮かべる。
『──9……』
審判員が立ち上がり、時間切れの行く末を待つ。
観戦者たちも次の一手を考えるが、やはりどの手も聖夜に分があり逆転模様だった。
試合は終結へ向かい、長い長い予選の終わりを告げる。
目を閉じ、勝利に浸る聖夜。
次に聖夜に当たるのは自分かもしれないと気を引き締める観戦者。
時間は決して歩みを止めない、時計は数字を進めることを躊躇はしない。
誰もが時間切れを確信し、硬直する俺を憐みの目で見つめた。
『──……』




