第十七手「先の読み合い」
地区大会の会場はざわついていた。
審判員さえも釘付けにされるほどの事態が、その会場では起きていた。
「は……?」
聖夜は顔を顰め、眉根を寄せる。これは何かの間違いだと。
そう、局面は変わっていない。変わってはいないのだ。
依然聖夜が勝勢、こちらに勝ち目はないはずだ。
それでもその一手が与えた場の変化は、流れを一気に引き寄せる魔法となった。
「……はははっ。おいおい、ハッタリのつもりか?」
引きつった笑顔で平常心を貫こうとする聖夜。
そして勢いよく俺の打った歩を掴む。
「形勢判断を見誤るなよ、天竜──ッ!!」
勝負は劣勢を悟った瞬間負けだ、常に負けを意識する者に勝ちは訪れない。
聖夜はノータイムでその歩を取った。
▲同飛。
バシン! と音を立てて時計のボタンを押す聖夜。そうして向けられた視線は射殺すような目つき、聖夜が初めて俺を"倒すべき獲物"として認識した瞬間だった。
「天竜、お前はまだ俺に勝つ気でいるのか?」
「……」
「覇気がねぇぞ、素人が──ッ!」
聖夜は取った歩を駒台の上で放し、空中で叩きつけるように押して駒台に乗せる。
しかし、それでも俺は無言で盤面を見つめていた。
「……」
「──っ! お前……!」
深く、深く、誰よりも深く──。その深淵の先に"正解"がある。
『将棋は無限に枝分かれした道が続いており、その全ての道を歩もうとすることは人の身では叶わない。故に棋士は己の信じた道だけを歩み続ける。歩み続けた先に奈落があれば来た道を戻り、財宝が見えれば突き進む。それが将棋であり、将棋に答えは存在しない。──願わくば、私はその道を上から見下ろせる神になりたいものだ』。
棋界のトップに君臨する王者は、かつてそう言った。
将棋は残酷なゲームだ。駒は意志を持たず、王ですら人の手によって動かされる。まさに人は駒達にとって神のような存在なのだろう。
だからこそ、人は駒と同じ目線を持ってはならない、上から見下す神でいなくてはならない。
俺はは盤上を見下ろしたまま右手で角を掴み、そして力強く盤面に叩きつけた。
△3四角打。
残りの持ち駒を全て使いきり、余すことなく攻めを続ける。守ったら終わり、受けに回ったらそれが最後。俺はそう結論付けた。
拳銃を持たれた相手に行う行動は簡単だ、致命傷を覚悟で襲い掛かればいい。
どうせ殺されるのなら多少の犠牲を甘んじて足掻くのが正解だ、怖気づいて震えたまま死を待つ必要はない。
「この……ッ!」
▲6六飛。
聖夜の手付きが荒くなる。
△6五銀。
この銀は放っておいてもどうせ取られる。だが取られた後にまた金取りになってしまうのは避けたい、それを防ぐために自ら取りに行く。
ではなぜ歩を打たれた時に取らず、今取ったのか。
それは手数を稼ぐため、絶好のタイミングで取るためだ。
俺の△3四角打に対して聖夜は▲6六飛と避けた、飛車を動いたのだ。だがここで△6五銀としたらどうなるか。
「……クソッ!」
▲同飛。
そう、この銀は当然飛車取りになっている。聖夜は否が応でもこの銀を取り返さなくてはならない、そして取り返した瞬間聖夜の飛車は先程と含めて2度動いたことになる。
これが俺の狙いだった。
聖夜は舌打ちを繰り返しながらも▲同飛と応じ、その後の戦況を見渡す。
△8九角成。
「ウソだろ……?」
その手を境に観戦者はざわつき始める。決して対局者の耳に届くことは無いが、離れた場所で話し声が生まれ始める。
聖夜は自身の持ち駒と俺の持ち駒を見て凍りついた。
「馬鹿な……なにが起きたんだ……」
──"銀損"だったはずのその局面は、いつの間にか銀と桂の"交換"になったのだ。
これは魔法か? いいや、これが本筋だ。その瞬間だけの優勢はその後の勝利を確定づけるとは限らない。
将棋は先を読むゲームだ、目の前の一手が本当に正しいかなんて神にしか分からない。故に神に最も近しい思考を持ち得なければならない。
遥か先の天上に届く未来を、的確に間違いなく読み切れるかが勝敗のカギを握るのだ。
「……天竜、お前はどうやら本気で俺に勝とうとしているらしいな。……いいぜ、本気を出してやる」
聖夜からついに笑みが消える。
明確だった聖夜の勝勢は今、完全に流れを変え始めた。
▲6四歩打。
ついに本気になった聖夜から首元目掛けて歩の手裏剣が飛んでくる。
この手は手筋だ。──"金は斜めに誘え"。
将棋で最も活躍する駒は金と銀が一般的と言われている、故にこの二つは行き戻りを繰り返すことが多々ある。
そこでこの二つの駒に存在する弱点を突くのが、将棋においての基本中の基本の手筋だ。
"金は斜めに誘え"。金は真後ろに下がることは出来るが斜め後ろには下がることが出来ない、つまり斜めに上がってしまうと元の位置には戻れないのだ。
これと同様に"銀は真っすぐ誘え"という格言もある。銀は金と反対で斜め後ろに下がる事は出来るが真っすぐ下がることが出来ない、つまり真っすぐ上がってしまうと元の位置には戻れないのだ。
有段者はこの手を僅か数秒で判断し、活かす方法を考える。
聖夜の放ったこの歩は、そのまま避けるとそのまま成られてしまう。しかし金を斜めに上がってしまうと斜め後ろへの利きは完全に失われてしまう。
たった一歩で戦況を変えてくる、これが前回の地区大会準優勝者、流石だ。
だが、俺は言ったはずだぞ聖夜──。
──読み切ったと。
△5四金。
「おいおい、あの聖夜が押され始めてるぞ……!」
俺は弱点である斜めへと金を上げる、一見相手の術中とも思えるその手をわざと繰り出す。
「くっ……!?」
──"大駒は近づけて受けよ"。
価値の高い大駒は小駒と交換がしづらい、だからこそ敢えて小駒に近づけさせて受けることにより大駒を逃げさせるようにする。そうすれば1手稼ぐことが出来るからだ。
この金上がりは"飛車当たり"だ。つまり攻めるはずの聖夜は一旦、飛車を逃げなければならない展開になった。
──いつの間にか手番が逆転したのだ。
では一体いつその展開を引き起こしたのか? それはついさっき、さっき俺が△6五銀と歩を取ったあの瞬間だ。
あそこは▲同飛とするしかない、落ちている銀を拾わないわけにはいかないからな。だが、拾ってしまうとこの手順に合流する。その後の△5四金がこの歩打に対する"大駒は近づけて受けよ"を実現させてしまったのだ。
つまり簡単に言ってしまえば、俺は未来で聖夜が指す▲6四歩打という歩の手裏剣を先んじて受けたということになる。
「アイツ、本当に天竜なのか……?」
聖夜の手を看破して先読みした俺は、周りから異常な目で見られ始めていた。
「……ククク……なるほどなぁ、やるなぁ天竜?」
しかし読み合いというのは決して一人では行われない。
聖夜がもし、自分の手を読み切って先受けた俺の手を、さらに知った上で指した歩打ちなら──。
▲6三歩成。
きたか、強襲……!!
「さぁて、俺の四間とお前の右四間、どっちが上だったか今この瞬間証明してやるよ」
聖夜の口角があがる。
この手は飛車取り、そして自分も飛車取り。──飛車交換だ。
大駒交換の損得は両方の"陣形差"で決まる。
角交換なら上部に手厚い陣形が勝り、飛車交換なら横に強い平べったい陣形が勝る。
俺の陣形は囲いとは到底呼べないボロボロな状態、横はスカスカだ。大して聖夜の陣形は未だエルモ囲いを残したまま、横に強い鉄壁の状態。
聖夜は初めから大駒の交換を狙っていたのだった。
手筋の応酬は有段者の中ではもはや呼吸と同じ、その先にこいつはいる──。
だが、見くびるなよ。俺はその手も含めて読み切ってる──!
△9二飛。
飛車交換でこちらだけが不利になるのなら、当然交換などするはずもない。聖夜の成ったと金の位置が絶好だが、ここで戦いを引き起こせば自身の王まで巻き込まれる、それだけは避けなくてはならない。
そして逃げた位置も重要だ。
もし△8二飛と逃げていたら▲7二と△同飛に▲6一飛成、これでは2手も3手も損をして話にならない。
飛車を追い詰められた際、逃げ場所に迷ったら一番端っこに逃げるのが基本だ。端には香車もいるし、万が一取られたとしても取り返せる状態となっている。
「負け犬らしく逃げたか、それなら俺もにーげよ」
しかし、聖夜もまた読み切っていたようで、俺の手にノータイムの即指しを返した。
▲6八飛。
戦いを引き起こそうと血気になっていたその流れも一気に変えて、すぐさま冷静に自陣へと飛車を戻す聖夜。
まさに緩急の指し回しだ。聖夜がこの大会で常に上位へ君臨し続けたのも、この攻めと受けを両立させた万能な指し回しの力があってこそだろう。
互いが互いの思考をぶつけ合い、その極限状態に達した先にある感覚。燃えるような思考の加速に、時が止まって見える全能感。
あの時感じた感覚が再び蘇る──。"全ての道を上から見下ろせる神の様な存在"。
麗奈はその後ろ姿をみて、かつての凍てつきを思い出す。ただの一言も言葉を発さず、ただ局面を見下ろし全てを把握しようとする目付き。
この対局はあの時と違って横歩取りでも、ましてや相居飛車でもない。
だが、それでも今──自らが苦手としていた振り飛車でその理屈を乗り越えようとしている。
彼らは知らないだろう。この数か月で血の滲むような努力を積み重ねてきた弱者を、愚痴を零しながらも人生を捨てる覚悟を決めた弱小将棋指しの本領を。
強者は強者の強さがあり、弱者は弱者なりの強さがある。ならば弱者が強者に成り上がるとき、それが強者以上の強さを秘めているのは言うまでもない。
将棋にはこんな格言がある。
──"元弱者は強者と同じで強者以上"。




