第十六手「覚醒」
間違えた……間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えたッ……!!
片手で額を抑えながら投げ出したい気持ちを必死に抑える。
既に投了級の局面、逆転の術は無し。このまま続けてもずるずると差が広がる一方だ、指す意味すら感じられない。
何度繰り返しても、振り飛車を指されると大局観が壊れる。いくら盤面を見ようと逆転の手が浮かんでこない。
……やっぱり、俺には最初から将棋を指す資格なんて無かったんだ。
諦めようとする本心に、それでもここで曖昧な一手を指すわけにもいかず、時間ばかりが刻々と過ぎて行った。
聖夜はもう隣や後ろの対局に目を向けている、弱者の俺は眼中にない。──弱い者すら見ていない目。
──ピッ。
右に置いてある時計から、残り時間が1分を切ったことを示す音が鳴る。
対して聖夜の残り時間は13分。倍どころではない差があり、時間配分という意味でも勝ち目は残されていなかった。
やがて鼻歌を歌い出す聖夜、俺は半ば諦めた表情で歩を取ろうと手を伸ばす。
「──!」
すると、タイミングを見計らったかのように俺の隣にお茶が置かれた。
驚いた俺は横を振り向くと、そこには麗奈がいた。
「あ……」
言葉を紡げない俺に、麗奈は無言でお茶を差し出す。
大会の規定に違反となる項目がいくつかある。そのひとつとして、対局者以外の者が対局者に対局の内容を話しかけてしまうことが挙げられる。
対局中に、どちらかが有利になってしまう助言や合図を出してはならない。
しかし、この差し入れと取れる行動自体は何も問題はない。特に子供が多いこの大会では、思考を活性化させるチョコやブドウ糖等を差し入れる親が多数いる。
今回の麗奈の行動もその類のものだろう。
「舞蝶麗奈……!? なぜここに……!」
聖夜が驚いて声を荒げるが、麗奈はそれを無視し、無言で俺にニコっとはにかむとそのまま観客席の方へと戻っていった。
本当に俺にお茶の差し入れを持ってきただけか。──なんてことを麗奈がするはずがない。
麗奈は言ってるんだ。俺に、諦めるなと。
諦めるな、悪くなったとしてもそこで投げ出すな、そう言いたいんだろ。
俺だってそうしたいさ、まだ逆転したいって思ってる。
でも不可能なんだ。どう見たって、形勢を覆せる局面じゃないんだ。
俺の持ち駒は角と歩一枚、歩は使い道が無いし角は打てる場所が無い。
だからと言って他の手を指せば全て悪手な気がする、どう応じてもこの局面から返り咲く未来が見えない。
おもむろに麗奈から貰ったお茶のキャップを開け、ぐびぐびと勢いよく飲み込む。
冷たい水分が口の中を通り抜ける。発熱を出しているかのように熱かった額が自然と冷めていき、熱が遠のいていくのを感じる。
破壊されていた大局観が少しだけ回復し、平衡感覚を取り戻していく気がした。
「そういやあの女、プロ目指すって言ってたなぁ」
時計の針が進む中、独り言のように呟く聖夜。
「俺に勝って優勝したからっていい気になってるのか知らんが、プロになんかなれるわけねぇのにな。しかも女の分際で、笑っちまうぜほんと」
何かが頭の奥に突き刺さった。
確かに彼女がプロになれるなんて、砂漠で宝石を見つけるくらいの難しさだ。
だが、その夢を否定していい奴なんて本人以外にいていいわけがない。
俺はその言葉を喉元まで出かかり、それでも飲み込んだ。
今の俺にはそんなことを言う権利なんてない、それはプロになる決心を抱いた者にだけ紡げる言葉だ。
今の俺には──……
『プロ棋士になりたい!』
ふと、子供の頃に言っていた自分の声が頭の中で反響する。
揉み消したいほどの嫌な記憶の中に、一つだけあった信念。
子供の戯言なんかじゃない、俺自身が決心したその言葉──。
陽の光に照らされ逆光する男の顔。俺はその男に向けて、確かな言葉を発していた。
『──おじさん、僕もプロ棋士になりたい!』
『なれるのか? 厳しいぞー』
『なる! ──おじさんを倒して先に名人をだっしゅする!』
『ハッハッハ! それじゃあ今から対策しておかないとな!』
ああ、そうだ、そうだよ。ちゃんと言ってたじゃないか、俺は……。
あの時──……プロ棋士になるって。
──ピーッ!
持ち時間が無くなったことを知らせる音が響く。それと共に、俺は現実へ引き戻される。
ついに秒読みに入った。
同時に俺は勢いよく頭を上げ、盤面を隅から隅まで見渡し始めた。
……──まだだ。
目から血が出るほどに何度も何度も見つめ、そして片っ端から読み解く。
麗奈の口角が上がり、それを見ていた鈴木会長も満足した表情で会場を立ち去る。
……──まだ終わってない。
俺はようやくをもって決心した。
それは生半可な決意じゃない。地獄に立ち向かう事を確かに誓ったあの頃の俺の意志を、今紡ぐんだ。
だから彼らの言葉はもう要らない、本当の自分に今立ち向かう。
限界を、超えていかなきゃ。だって俺は──。
……──プロ棋士になるのだから。
俺は脳がはち切れるほどの勢いで局面を読み進める。
さっき飲んだ冷たいお茶のおかげで、まだまだ脳のオーバーヒートは防げそうだ。
「──ッ!!」
同銀と取った局面、それ以外の手を指した局面。
1手や2手先じゃない。3手先、4手先。もっとだ。もっと先を読み切るんだ。
△同銀▲同飛△6四歩▲6八飛。ダメだ、これは消極的。
△5五角打▲同角△同銀。違う、△5五角打▲6四歩△同角▲5五銀打でダメだ。
△5五角打▲6四歩△4六角▲同歩△6四金。こうはならない。
△5四金▲6四歩△6五歩打▲6三銀打。これもダメ、相手の思うつぼ。
△同銀▲同飛△5四角打▲6八飛△4三銀。これじゃ一方的だ。
ダメだ、もっと真剣に。もっと先を、聖夜の思考よりも先を──!
△3四角打▲7八金△同角成▲同飛△6七金打▲6四歩△7八金▲6三歩成。ダメだ、攻め合い負けする。
△3四角打▲7八金△同角成▲同飛△6四銀。これなら行けるか……? いや待て、△3四角打に▲6四歩でこっちが悪い。
もっとだ、もっと考えろ──!!
△5五銀▲同角△5四金▲4六角△4五金。△5五銀▲同角△5四金▲3三角成△4同桂▲6四歩△同金▲7一銀打△6三飛▲7二銀打。△5五銀▲同角△5四金▲3三角成△4同桂▲6四歩△同金▲7一銀打△7二飛▲6四飛△7一飛▲6二飛成。△5五角打▲6四歩△4六角▲6三歩成△6七歩打▲同飛△4五角打▲6二と金△6七角成▲4六歩△8九馬▲8二飛打。△同銀▲同飛△5二金▲3五角△6四金▲6八飛△6五歩打▲3六歩△5四金▲5六銀打△1四歩▲6六歩打△4四銀▲2六角△6六歩▲同銀△2四歩▲3七角△3五歩打。
まだだ、まだ最善があるはず──!!
狂いそうな思考に一切のブレーキを掛けないまま。
トップギアで最速の世界に入る。
『──20秒、1、2、3……』
ついに残り10秒を切り初め、時計が読み上げに入った。
他の対局者たちは段々と決着が着いて行き、次の試合を待機し始める。
既に結果が見えている聖夜の対局など目にも留まらない。
『4、5、6……』
麗奈は顔色一つ変えずに見守り続ける。
自分を教えた師の実力に、嘘はないのだと信じているから。
『7、8……』
絶対的な勝利を確信した聖夜の前に、ついに"その手は動き出した"。
駒台にあるたった一つの"歩"を持って──将棋で"最弱"と呼ばれたその駒を親指と中指で挟み──。
「──ッ!?」
力強く盤上へ叩きつけた。
△6七歩打。
指した瞬間、残り1秒と表示された時計を素早く押す。
芯の入ったその手付きに、他の参加者が一瞬だけ一瞥する。一瞥したあと、二度見するように釘付けになった。
「……なっ」
この歩はまさに、弱者が強者の喉元を噛みちぎろうとする一手。
しかし運命は残酷だ、弱者が強者に勝てる道理などない。
だが、その先はどうだろうか。弱者が強者に勝つことは出来なくとも、続く者が強者を倒すことくらいはやってのけれるかもしれない。
聖夜の余裕だったはずのその表情が崩れ始める。
この大会で初めて見せたその表情に、他の参加者も同様に困惑をし始める。
この時の俺の表情は、逆に聖夜にはどう映っていただろうか。
何十何百、何千という手を。枝分かれする手の先を、相手が考える思考の奥底を、その全てを考え読む力。暗記だけでは成し得ない、先を読むという将棋の根源。
際限なき無数の手の中から選ぶその一手は決して"感覚"などではない。
普段切ってないせいで伸びた髪の隙間から見えた目の色に、聖夜は初めて畏怖を覚えた。
それは確かに、"勝負師"の目だったからだ。
俺は額から汗をかき瞬き一つしていない聖夜に向けて、小さく一言呟いた。
「──"読み切った"」