第十五手「折れそうな心」
俺は人一倍実戦経験が少ない。
何事も実戦が一番とはいうものの、俺にはその実戦をしてくれる相手がいなかった。
最初は本を読み、アプリやソフト等でコンピューターと対局し、日が経てばネットで対局をすることも覚えた。
だがマイナーな遊びを淡々と繰り返してきた俺に、その趣味に付き合ってくれる仲の良い友達なんてものはいない。それもこれも、自分の行動力の低さが原因だろう。
……いや、本当はもっと大きな原因があったのかもしれない。
将棋の大会に出るようになったのは3年ほど前からだ。最初は居飛車を指す人も多く、優勝こそ出来ないものの、俺の勝率はその級位に合うくらいにはある程度安定したものだった。
だが、将棋は二度同じ内容になることはない。
将棋の知識が偏った俺はいつも相居飛車の形ばかりを見てきた、振り飛車の存在を知ってもなお、居飛車を勉強し続けてきた。
だって満遍なく戦法を覚えるより、一つの戦法をマスターした方が強いに決まっているだろう?
そんな浅い考えで将棋という世界にのめり込んだのが間違いだった。
気づいたころに勉強を始めても、成熟しきった脳には大した情報がインプットできない。子供の頃のようにいくらでも無制限に記憶していた俺の脳は、その反動を受けるかのようにろくな知識を詰め込めなくなっていた。
もっと早く大会に出ていれば、もっと多く実践を積んでいれば。きっとこのトラウマの形にも慣れていたんだろうな。
──△6三金。
あれから俺は△3五歩と突き、聖夜の▲4六角打ちに対し、銀を守ろうと金を上がったのだ。
何気ない一手だと思った。当然とばかりに指した。まだ勝負にはなっていると。
背後で麗奈が微かに驚いていた事に、当然俺は気づかない。
「あ、その手もーらい!」
陽気な声で指された一手に、俺は全てを悟った。
──▲6五歩打。
「……あー…………やった…………」
まるで地獄に落ちたかのような声色でそう呟く。
全神経が千切れていく音がした、やってしまったと思った。
口から出た言葉は、もはや正しい日本語を形成していなかった。
この歩は当然銀を取る一手だ。
そして俺の銀は──見事に逃げ場所が無い。
俺が銀を守ろうと指したあの金上がりは完全に悪手だった、銀を守るどころか取られる状態に自ら誘導してしまったのだ。
この局面は銀をタダで渡してしまう、いわゆる"銀損"である。
ただ銀を取られてしまっただけ、まだまだいけるじゃないかと、将棋を知らない人ならそう思うかもしれない。
違う、これはそんな軽い問題じゃない。
「これは勝っちゃったかもなぁ~」
余裕な表情で天井を見つめ、椅子の片側を浮かせる。隣の対局者からうるさいと小声で叱られるも、気に留める様子はない。
そう、彼の言う通りだ。
これはもう"勝負がついた"も同然の局面。
綱渡りから転落したあとの、もう取り返しのつかない状態だ。
銀損、それが終盤の局面ならまだ良い。将棋は終盤になるほど駒の価値が落ちていく、何故なら将棋は駒を取るゲームではなく、王様を詰ますゲームだからだ。
だが逆に、駒の価値は序盤であればあるほど大きくなる。まだ中盤に差し掛かっただけのこの局面で銀の丸損、それが如何にマズイ事なのかは一目瞭然なのだ。
すでに殴り合いが始まっている状況なら、相手の手に拳銃が渡ってしまっても、こちらの拳の方が先に相手へと直撃する。
だがまだ掴み合いも始まっていない状況で、相手に拳銃を奪われてしまったら、それはもう為す術が無いのだ。
それに相手は前大会の準優勝者。ハンデ無しの平手でさえ天と地ほどの差があると言うのに、苦手な振り飛車を指されて、そのうえで銀損だ。
はっきり言ってこれはもう負けの局面だ、どうしようもない。
綱渡り状態で張っていた生命線が一気に途切れる。混乱した思考と、投げ出したい後悔がどっと押し寄せてくる。
俺は頭を抱えながら頭を垂れた。
──ああ、早くも終わってしまったのだと……。
◇◇◇
「──っ……ッ……」
師匠は今にも泣き喚いてしまいそうなほどに、苦しい表情を浮かべている。
局面を覗いて見ると、既に相手が優勢の場面だった。
「師匠……」
師匠は銀の丸損、単純な歩の叩きを見逃してしまったようだった。
恐らくこれも、振り飛車の感覚に目が慣れていないために起きてしまったことなのかもしれない。もしかしたら今までもこうやって、たくさんの見逃しをして負け続けていたのかもしれない。
傍から見ていた他の参加者達も、二人の勝負の行方を察してしまい辺りへ散らばっていく。
相手は本物の初段の棋力認定書を持っている、実力は二段相当はあってもおかしくはない。そんな相手に銀の丸損で勝てると思う方がおかしい、そう考えているのでしょうね。
あれから師匠は硬直したまま微動だにしていない。
考えてるのか、諦めてるのか。頭を抱えた状態のまま師匠の残り時間ばかりが一方的に減っていき、ついには残り5分を切り始めた。
それでもまだ、師匠は次の一手を指そうとしない、相手はもう勝ち誇った表情だ。
確かに、ここから勝つなんて想像出来ないことかもしれない。まだ予選だし、一回くらい負けても良いという拠り所があるのかもしれない。
でも、それでも師匠にはその勝負師の目を絶やさないでほしかった。まだ、立ち上がってほしかった。
この3ヵ月間で私が見てきた実力は決して夢なんかじゃない。緊張していつもの実力が発揮できてないだけ、圧力に負けて卑屈になっているだけ。
まだ試合は終わってない、終わってはいないのよ。
「──諦める事に慣れないで、師匠」
誰にも聞こえない小声で呟き、私は走るように大会の会場を出て行った。




