『カウント』
ふと思いついた「SF」な感じの世界線日常のワンシーン描写です。こんな世界がひょっとしたらあるかもしれません。実現するかもしれません。もしこんなことが実現化したときに――あなたなら、どんな使い方をしますか?
厳密に『いつから』なのかは、多分歴史の教科書とか辞書とかに書いてある。
でも、そんな歴史的な日のことや経緯なんかはどうでもよくて、ぼくが生まれたときから、いや、ぼくの姉や従兄――それに多分、親父や母さんの世代、ひょっとしたらそれよりも前の世代にもかもしれないけれど――「あるスイッチ」が先天的に埋め込まれた。
「スイッチ」だとか「埋め込まれた」なんて云っても、ナノマシンだとかそういうモノではない。そんなのは古典SF映画の役割だ。「寿命遺伝子に紐付けられたとあるウイルスが拡散された」。当時扇動的に繰り返された言葉らしい。
技術的なことなど何もわかりはしない。わかっていることはただ一つ。
――1年間に「死にたい」と100回口にしたら死んでしまう。
たったそれだけのことだ。それこそ古典SFのように狂った科学者が作ったウイルスが予防接種に紛れ込んでいただの、虫を媒介して広まっただの、畜産動物の飼料の原料に紛れ込んでいたとか、色々な説があったらしいけれど、今ではそんなことは問題になっていない。
単純に「1年間に『死にたい』と100回云ったら死ぬようになった」だけだ。
ひょっとしたらこのウイルスを作った科学者なる人は「死にたい」というネガティブな言葉を世界から消したかったのかも知れない。
「死にたい、だなんて軽々しく口に出すものじゃあない。まず顔を上げて空を見上げて深呼吸をするんだ。100回も死にたいなんて言い続けていたら本当に死んでしまうかもしれないよ。きみはそれでもいいのかい?」
とかなんとか。そうやって微笑みながら誰かを励まそうとしてジョークを云ったものの弾みでこんなことになったのかもしれない。それで世界が平和になっていくのかと思ったのかもしれない。世界中の「死にたい」がなくなるように。そんなことを願ったのかもしれない。
まぁ、今となってはそんなことはどうでもいいのだ。たった一つの決まり事があって、それの事の始まりや経緯なんてものは多分散々頭のいい人達やそうでもない人達によって議論し尽くされてきたのだろうから、ぼくらはそれを受け入れるしかない。
ところで『死にたいスイッチウイルス』は頭のいい人達の長年の研究の成果としてワクチンが作り出された。その結果が「一年間の猶予」なのだ。つまり一年ごとにワクチンを接種すれば、死にたいと云った回数はリセットされる。
なんで一年間なのかはわからないが、どうやら偉い人達や頭のいい人達の都合というやつらしいというのが一般人であるぼく達が知っている程度のことだ。何度も実験したが(誰を? どうやって? 人権は? などと考えるのは十代でやめた)、量を使おうが濃度や純度を高めようが一年しか保たない、というのが結論。
そんなわけでぼくは近所の小学校の体育館へと続く、ちょっとした行列に並んでいるというわけだ。もちろんワクチンを注射してもらうためだ。とっくの昔に義務化されているので、言葉を覚えるより前から、この季節になると公民館やら区役所やらコミュニティセンターやら駅前やらでワクチンを接種してもらえる。もちろんカウントカードと身分証明書が必要になる。
周りでは「今カウントいくつ?」「今年はちょっと多かったかな」なんていう会話が普通にかわされている。カウントってのは前回のワクチン接種から「死にたい」と云った回数。
面白いもので、このカードの所持が義務づけられてからというもの、この「死にたいカウント」の統計をとって、そこから『国民の幸福指数』なんてものまで定期的に政府広報によって発表されている。
ちなみに現在のぼくのカウントは97。ぼく自身もその流行りに入ってしまっているので恥ずかしいのだけれど、色々悩みを抱える層は、ストレスの発散にこのカウントを使っているのだ。ギリギリまでカウントを進めておいて「まだここで留まれるなら頑張れる」と前向きに考えて使う派、カウントを進めてチキンレースのようにスリルを楽しんでいると言い張るアホ達――ぼくはまぁその真ん中あたりだ。
こんな世の中が今の当たり前なのだけれど、ほんの少しだけ興味を持って調べたら、とても誇り高い使い方をしている人達がいたことを知った。このウイルスのワクチンがまだ安定していなかった頃の話らしいのだが、自分で自分の死を決めることで生を終わらせた人達がいたという。
死に至る病であることを知ったことで、あとから押し寄せてくる恐怖や痛み・苦しみから逃れる為にカウントを進めて、最後の一言を告げて世を去った人が最初は多かったらしい。気持ちはわからないでもない。
しかし、「私は満足した人生を過ごせた。これ以上望むものはないし、最後は自分で終わらせたい」――そんな言葉を残し、家族や友人達に囲まれて、笑顔で最後の一言を発した人の記事が発火点となって『光に向かう自死』なんて言葉がもてはやされた時期があったというのだ。
奇妙な話かもしれないが、これに賛同する人が多く、次々と『光に向かう自死』を選ぶ人が出たという。中には自分の子どもに臓器を移植する為に(今となっては考えられない話だけれど)実行した人も多い。
そんな人達がいた一方でカジュアル……とでも云えばいいのだろうか、簡単に最後の一言を口に出す連中もいた。SNSで起こった数万人の死者を出した『集団カウント事件』の残滓は、今もなお各地で時折、小・中規模で続いている。
列が進んでいく。どうやら今年のワクチン接種はスムーズなようだ。カウントカードの『継続』を記しておけば、流れ作業で手首にスタンプ注射をされておしまい。しかし事前に意思表示をしていないと、確認スタッフ・カウンセラー・医師の3人が「今年はどうされますか?」と意思確認をしなければならない。
そして別の列に並ばされ――ワクチンは義務ではあるが強制ではない――『誓約装置』に静脈・虹彩・採血など何段階もの『ワクチン拒否』登録をしなければならない。そうすると列の進みが幾分遅くなるのだ。
まぁ今回この体育館で『ワクチン拒否』登録に回ったとしても、気が変われば別の場所でワクチン接種を受けることもできる。しかしこれを何度も繰り返されると、公的医療機関から人が来るという話も聞いたことがあるのだが、人の命なるものの価値を軽んじてはいませんよという政府のポーズにしか、ぼくには思えないのだけれど。
『死ぬか生きるか』
『死にたいかそうでもないか』
この単純明快な二者選択は「この先の人生に希望があるか」だの「何か命に関わる様な問題を抱えていないか」などのバックボーンが引っかかってくるから、面倒くさいのだ。
ようやく順番が近くなってきた。受付の女性スタッフにカウントカードを提示する。「なるべくそうするように」と指示を受けているのだろう、微笑を浮かべながらも事務的に「こちらにカードをタッチさせてください」と云われるがままにカードをリーダーにタッチする。ピリラっというような、ちょっと間の抜けた軽い音がして認証完了。
何度も経験しているし慣れたものなのだが、それでも少しばかり強張る。ぽつり。次へと進む。
タッチパネルで個人情報に問題がないか、液晶に表示されている累計カウント数と自分のカードのカウント数に差異がないことを「お間違えないですか?」とスタッフに促されて確認して、ぼくは返事をしたあとで小さく、ぽつり。
いよいよ本日の担当医の前に辿り着く。ここは簡易ではあるが完全防音の個室だ。使い捨てのスタンプ注射器がズラリと並んでいる。四十がらみくらいの男性医師の前に促されるままに座ったぼくは、何も考えることなくスムーズに手のひらを上にして、右手首を差し出した。
「どう、なさいますか?」
医師が微笑みながらぼく訊ねる。
「あと一回ですね。春岡さんが『それ』を口にされるつもりなら、速やかに準備をしますよ。あとのことで何も心配をされることはありません。トラブルにも一切なりません。これは義務と権利ですから」
医師の言葉は一言一言に力が入っていて、正確で、優しくて、あたたかかった。
「あとは――そうですね、春岡さん自身に心配や心残りがなければ、ですね」
この人は、何人を目の前で見送ってきたのだろうか。そんなことを考える。
整理は、まだ、ついていなかった。
ただ、どうでもいいかな、とも思っていた。
ぼくは、ひどく、つかれていたのだ。
「今日はいい天気ですね」
唐突に医師がそう云った。胸元に風を扇ぎ入れるような仕草をしながら。確かに今日はいい天気だ。最高気温は30℃を超えるだろう。
「そろそろお昼ですか。今日は暑いですから、冷たいお蕎麦でも食べたいですね」
「まぁ、休憩時間までにはまだまだかかるんですけどね」
医師はくしゃっとしたような笑顔で頭をかいた。
「冷やしたぬき」
「はい?」
「あ、えーと。学生時代好きだったんですよ。冷たいそばに天かすのっけてめんつゆかけただけの……」
「ああ! あれ美味しいですよねぇ」
「今年まだ食べていないんです」
「そうですか」
「なんだか先生と話して、無性に食べたくなってしまいましたよ」
「あはは、それは申し訳ない」
「ですんで――」
「もう少し『生きたい』です」
――そうですか、美味しい冷やしたぬき食べてきてください。ぼくは今日は弁当なんですよねえ。いや、うらやましいなぁ。
なんて云いながら、右手首にスタンプ注射がおされる。痛みはまったくない。そして――どういう仕組みだかまったくわからないのだけれど――カウントカードの表示に「0」が三つ並んで、ぼくはもう一年の猶予を得た。
「冷やしたぬきを食べたくなったから」
そんな理由で生きることを決めてもいい。逆にその気になってしまえば今から「あの言葉」を100回連呼すればいいだけだなのだから。
医師に会釈をして、出口のスタッフにも会釈をして体育館を出る。すぐにじりじりと日の光が身体をあたためる。
ぼくは、どうでもよくなっていたことも、ひどくつかれていたことも忘れて、記憶の引き出しから冷やしたぬきそばの味を引っ張り出しつつ歩き出した。
きっと今なら、駅前のそば屋の冷やしたぬきでも――メニューにあればだけれど――途方もなく美味く感じることだろう。
そんな理由だけで「死ななくてもいい日」があってもいいのだ。
<了>
60~70年代海外SF作品の超訳系文章をイメージして書いてみた習作掌編です。原案は一昨年くらいに作ったものに、少しリライトを加えてみました。穴だらけのガバガバ世界観ですが、一つの思考実験としてご笑覧いただければ幸いです。




