老狗の勲章 ―The Honor of The Old Dog―
我は、狂犬である。これまでに何百何千という獣が、我に牙を向けた。奴らはどうなったか。我が身体に刻まれた数多の古傷に聞いてみよ。奴らは全て、血と肉塊に成り果てたのだ。
それも全ては、最強の獣が我であることをこの世界に知らしめるためだ。我はこの生涯を戦いに捧げてきた。我が勝ち取ってきた名声は、世界を揺るがす咆哮だ。じきに世界は、我が前に跪くことになるだろう。
すでに世界は、我が存在に怯えている。このところ、あの毛の無いサルは新しい獲物を献上しなくなった。とうとう我が力量を証明するだけの獣もいなくなってきたということだ。しかしあのサルも、我によく尽くしてくれた。いずれ我が世界の王となれば、褒美をやらねばなるまい。
不意に何者かの足音が聞こえる。これは毛の無いサルではない。こんな夜中に訪れる客だ。平穏な用事のはずもない。我が城に許しなく踏み入ったこと、後悔するにはもはや遅いぞ。手からもぐか。脚からへし折るか。いずれにせよ、苦しまずに死ぬことはないと思え。
我が鋭敏な耳は、侵入者の位置を捉えた。瞬時、この老いた身は軽やかに宙を舞う。我が前では、老いさえも敵ではない。むしろ我は老いを喰らい、我が肉体としてきた。経験に勝る物はない。
月明かりに照らされた窓辺に、もうすぐ侵入者が姿を現すのを察知する。両眼がこちらを覗くであろう位置へ目がけて、爪を立てた前脚を振り下ろす。お前が最後に見る世界は、その眼から吹き出す血飛沫になるのだ。
「それで、僕の目の前にあった鉄格子に前脚をぶつけて、爪が割れて痛いって? もう爺さんなんだから無理すんなっての」
「爺さんだとぉ!? 小僧、そこから降りてきやがれ。今度はその皮全部剥いでやる」
窓辺の鉄格子の向こうの安全圏で、仔猫は嘲笑う。
「その割れた爪で皮を剥ぐの? キャハハ、見たい、見たい!」
「揚げ足を取りやがって、こん畜生め」
不貞腐れる老狗に、仔猫は語りかける。
「ていうかさ、アンタ有名なの? 名前は?」
「聞いて小便漏らすなよ。我が名はアレックス、狂犬のアレックスだ」
首を傾げて仔猫は言う。
「知らね」
「知らない、だと……? そんなはずがあるか。我は星の数ほど勝利してきたのだぞ」
「知らないものは知らないさ」
それから自慢気にこう続ける。
「アンタこそ、星の数って知ってる? こんなちっちゃい窓からじゃ数えきれないんだぜ?」
「フン、んなことは知ってらぁ」
「人間に飼われてるのに?」
「失敬な。あのサルは、獲物を運んでくる我が下僕よ」
「何言ってんだい。利用されてるのはアンタの方だろ?」
「……?」
眉間に皺を寄せて訝しがる老狗を見て、仔猫は深い溜息をついた。
「アンタ本当に何にも知らないんだな。じゃあ僕が今日ここに来た理由を教えてあげようか?」
「……なぜだ?」
「ご近所に富豪さんがいるんだけどね。ああ、富豪っていうのは、要するに贅沢な暮らしをしてる人間のことなんだけど、その富豪さんは動物を戦わせるのが趣味でね。お友達とどっちが勝つか賭けをして遊ぶらしい。そこで闘わせる動物を沢山飼ってるんだけど、そのうちの一匹がアンタってわけ」
床に丸まった老狗は、遠い目で壁を見つめていた。まるで、ここで過ごした生涯を思い出すかのように。
「ほう。それはよくできた嘘だな。我を騙そうとは賢しい真似をしてくれる」
「まあ最後まで聞きなって。御主人から聞いた話だと、その富豪さんが失敗して、お家を売り払うことにしたんだって。でも飼っている動物を引き取ってくれるあてはない。それに凶暴な動物を処分するのも面倒ときた。そこで飢え死にするのを待ってから片付けることにしたらしい。んで、僕はそれを見物に来た訳さ。可愛い子でもいれば助けだしてお嫁さんにしようかとも思ったんだけど」
「見つかったのは、この老いぼれだけってか」
フーッと深い息を吐いて、老狗は天井を見上げた。広い城だと思っていたこの檻の中が、すっかり狭く感じられた。それは最初から分かっていたことだったような気もする。でも、もはやそんなことはどうでも良くなっていた。体を動かすのも辛い。まるで急に老いたかのようだ。
「……興味はあるか?」
「え、いや爺さんを嫁にする趣味はないけど」
「違う。この老いぼれの話だ。どんな奴と戦ったとか、そんな話だ。興味が無いなら別にいいんだが」
仔猫は宝物を見つけたような目で答えた。
「キャハハ、聞きたい、聞きたい!」
その夜、老狗は生きる意味を見出した。